2-3-2-2.動物の忍耐は、快不快の自然のうちにとどまっている
動物も苦痛甘受の忍耐をするが、これは、自然の営為のうちでのことである。快不快のもとにとどまっていて、より不快の少ないもの、より快楽の多いものにと惹かれての忍耐であり、それは、快不快の自然の摂理のもとでの特殊な振る舞いとしてあるのみであろう。小さな快となる餌が見つかってこれを食べようとしているところに、より大きな快楽の餌が出てきたとき、どちらかしか取れない状態において、大きな快楽の方をとるということである。忍耐とみなせるのかということもあろうが、小さい欲求を抑えて若干でも不快・不満があれば、一応、忍耐であろう。とくに、小さい苦痛を受け入れて可能になる大きな快楽がある場合は、苦痛を感じつつ、えさに突進するであろうから、苦痛に忍耐するのである。熊は、好物の蜂蜜をとるためには、蜂に刺されながら痛さを我慢する。
ひともこの快不快の自然に埋没したままに動物的忍耐をとることもあるが(小さな子供であればあるほど、動物と同じ対応をする。少し先にある価値が分からず、苦い薬はそれだけでは飲まず、横に好物のジュースを添えてはじめて口にする)、ひとの忍耐では、自然自体を超越するかたちでの忍耐を圧倒的に多くとっている。快不快の自然を超越した、自由の目的論的世界を忍耐は開く。秋の収穫のためにと、春食べるのを抑制して、目的論的に忍耐を展開する。現在を全面的に犠牲・手段にし苦痛に忍耐して、快不快の現在を超越しこれから自由になって理性精神のもとに未来の大きな目的に生きるのである。動物は、現在に縛られて生きるが、ひとは、現在から自由になって未来に生きる。