動物の忍耐は、快不快の自然のうちにとどまっている

2019年04月26日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-2-2.動物の忍耐は、快不快の自然のうちにとどまっている 

 動物も苦痛甘受の忍耐をするが、これは、自然の営為のうちでのことである。快不快のもとにとどまっていて、より不快の少ないもの、より快楽の多いものにと惹かれての忍耐であり、それは、快不快の自然の摂理のもとでの特殊な振る舞いとしてあるのみであろう。小さな快となる餌が見つかってこれを食べようとしているところに、より大きな快楽の餌が出てきたとき、どちらかしか取れない状態において、大きな快楽の方をとるということである。忍耐とみなせるのかということもあろうが、小さい欲求を抑えて若干でも不快・不満があれば、一応、忍耐であろう。とくに、小さい苦痛を受け入れて可能になる大きな快楽がある場合は、苦痛を感じつつ、えさに突進するであろうから、苦痛に忍耐するのである。熊は、好物の蜂蜜をとるためには、蜂に刺されながら痛さを我慢する。
 ひともこの快不快の自然に埋没したままに動物的忍耐をとることもあるが(小さな子供であればあるほど、動物と同じ対応をする。少し先にある価値が分からず、苦い薬はそれだけでは飲まず、横に好物のジュースを添えてはじめて口にする)、ひとの忍耐では、自然自体を超越するかたちでの忍耐を圧倒的に多くとっている。快不快の自然を超越した、自由の目的論的世界を忍耐は開く。秋の収穫のためにと、春食べるのを抑制して、目的論的に忍耐を展開する。現在を全面的に犠牲・手段にし苦痛に忍耐して、快不快の現在を超越しこれから自由になって理性精神のもとに未来の大きな目的に生きるのである。動物は、現在に縛られて生きるが、ひとは、現在から自由になって未来に生きる。


快不快の自然からの離脱には苦痛がともない、忍耐が必要となる

2019年04月18日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-2-1. 快不快の自然からの離脱には苦痛がともない、忍耐が必要となる 
 自然的生においては、不快・苦痛を回避して、安全がもたらされ生保護が可能となる。快楽にしたがうことで、生は促進され維持できる。ひとも自然存在としては、それに従うことで無事に過ごせる。だが、ひとは、他方では、これを超越した反自然・超自然の振る舞いをなすことができる。
 快不快の自然反応自体はひとでも変わらない。栄養あるものがのどを通ればおのずと快を美味を味わうことになる。傷害をもたらすものがあれば、おのずからに苦痛となり、苦痛からは逃げたいという自然的反応を呼ぶことは、ひとも動物も同じことである。ひとにとっても、快不快の自然は、所与の大前提である。だが、ひとは、自然存在でありつつも、この自然的に不可避的に生じる苦痛をうけとめつつも、これを超越できる。苦痛を忍びつつ、これを回避しないで受け入れて、反自然の振る舞いをすることが可能である。自然からいえば、逃げるべきことから逃げないのであり、愚かしい態度に見える。自殺行為である。そういう反自然を貫くだけだと、苦痛=有害を放置し、快=有益を排除することとして、早々にその生は滅びることになるであろう。
 しかし、ひとは、自然的には愚かしく見える反自然の態度をあえてとる。苦痛を受け入れることで、これを手段・踏み台にし犠牲にすることでもって、大きな価値あるものを獲得できるからである。火傷を覚悟しその激痛に忍耐することで、火中の宝物を救い出すのである。欲求充足を抑制し快楽を抑制する反自然の振る舞いをとり、自然的には有益なものを拒否して愚かしく見える反自然の対応をとることで、高い価値あるものが獲得できるのである。その反自然の営みには、辛苦があり、これを忍耐することがなくてはならない。傷害の苦痛・不快を忍耐し、欲求抑圧の苦痛を忍耐して、ひとは、自然から自由になって超自然の精神的な世界にと踏み込む。


忍耐をもって快不快の自然を超越し自由になり人間世界が広がる

2019年04月12日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-2. 忍耐をもって快不快の自然を超越し自由になり人間世界が広がる 
 動物は、快となれば、これに引かれこれの享受にひたすらとなる。いうなら快楽奴隷となって自然に埋没して生きる。だが、ひとは、必要とあれば、これを拒否できる。どんなに美味しいものに魅了されようとも、過食と思えば、ひとは、これを抑制でき、快楽奴隷にはならない。いくら快楽であろうと、自然的に魅了されようと、これを抑制して、この自然的な快楽とその吸引力に打ち勝って、つまり、忍耐して、その自然から超越し自由な振る舞いができる(快楽主義者は、動物的だが、それでも、猛毒があると分かった場合、味わえる最高の珍味であっても、これを食べることはない。快楽享受を自制する。動物のように徹底した快楽主義者にはなりきらない。やはり、かれも人間であることを止めることはできないのである)。
 もちろん、ひとの生の基礎は、自然のうちにあって、快不快の自然的営為にしたがっている。しかし、これに埋没せず、必要とあれば、この自然を拒絶してこれを超越した自由の対応ができるということである。それは、快の欲求を抑制し、不快・苦痛を避けず甘受するという忍耐をもって可能となる。
 この自由は、まずは、快・不快の自然の束縛を逃れこれの奴隷状態から解放された自由である。かつ、この自然の因果世界を超えたものとして、目的論的な自律の世界を作る自由でもある。因果論的自然世界のうちにありつつ、この因果法則を踏まえながら、未来に自由に目的を描き、この目的にかなうようにと因果を利用する。自然的生を動かす力としての快・不快の因果連鎖も断ち切って不快から逃げず快を抑止して、その因果の方向を、目的にかなうように変える。苦痛甘受の忍耐を手段・踏み台にして、高度の自由世界の目的を実現していく。その快・不快の因果連鎖を断ち切るのが忍耐である。動物的自然世界の強力な動力としての快不快に関しては、忍耐が、人間世界の自由へとひとを導くことを可能としているのである。


忍耐は、快=有益への欲求をあえて抑制し不快を忍ぶ

2019年04月05日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-1-2. 忍耐は、快=有益への欲求をあえて抑制し不快を忍ぶ 
 自然は、苦痛となるものを排除することで有害なものを排除し、逆の快楽は、これを求めてうごき、その過程で有益なもの・価値ある状態を獲得して生を維持し促進する。快を欲求し、不快・苦痛の排除を欲することで、生は促進される。自然的には、欲しいものを欲し求めることで、生は維持・促進されるのである。
 だが、忍耐は、これを拒む。ほしいものをほしがらず、したいことをせず我慢することで、その生じる欲求不充足の不快・苦痛に忍耐して、より大きな価値あるものを獲得しようとする。いまの快楽享受を抑制することで、未来に大きな快楽が得られるのであれば、ひとは、いまの快楽を禁じて忍耐することができる。美味のケーキでも、それの過食は有害と思えば、ひとは、これを残し我慢して、明日のおやつに回すことができる。美味でも猛毒と知ったら、ひとは、これを禁欲して生をまっとうするが、動物や幼児はこれを自然の摂理のままに、快に魅されるがままに食べて生を損なうことであろう。
 いま快楽を節することで、未来に大きな快楽が得られるのが確かなら、ひとは、現在の不充足の不快に忍耐しこれを踏み台にして未来の目的に生きることができる。穀物の種をまいて収穫までを我慢し、あるいは、家禽の子は柔らかくておいしそうでも、これを食べず我慢して、大きく育ててからと、待つことになる。
 さらには、快楽自体を超越もする。いまの快楽を抑制することで、未来に精神的に大きな価値が確保できると知れば、ひとは、いま忍耐し快楽を放棄してより高いものを目的にして生きる。快楽は、精神世界では、目的にはならず、些事となり、価値物獲得自体が目的になることが多い。生理的なレベルの快楽を断念し、高次世界の快も無視して、ひとは、それらの放棄を手段にしこれらを忍耐して、高次レベルの価値獲得を目的にして生きる。