理性による統御・抑制

2010年10月29日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-1. 理性による統御・抑制
 理性は、個別的感性のうえにそびえ、これを普遍的視点から本質的に理解し、統御することができる。
 ひとは、感覚的には、自己の身体を世界の中心にすえて存在する。感情にしてもこの自己を中心にし、この個我の利害をふまえた快・不快をいだく。これに対して理性(知性)は、その認識では、できるかぎり自分の主観性を排除して普遍妥当的な客観世界を見出そうとする。実践的領域でも理性は、感情とちがって普遍性・客観性をもつ道理にしたがい、これに反した形で自分に与することは避けようとする。
 ひとは、感性にしたがって動物的にも振舞うが、(もっぱらに自然的因果のもとにある)動物とちがって、理性をもって目的論的な行動をする。目的的活動は、未来から出発する。過去から未来へと一方向に歩む因果とちがい、まずは、未来に目的を観念(概念)として描きだし、その未来から、この現在の手元にいたる諸手段の系列を観念的に遡源する。そのあと、手元の実在的手段から因果の連鎖を順次追って、実在的に目的を実現していく。目的・手段の系列を知性が観念において鳥瞰し、かつ、その意志が目的へと一貫した歩みを進めていくのでなくては、目的達成はならない。 
 理性は、目的観念を先立てて、感性・欲求を制御しつつ、合理的に行為する。食事でも、なにをどこで食べるかということと共に、どの程度欲求を満たすかをも視野(目的)にいれて、その食と食欲を理性的に制御する。理性は、ことの全体を見きわめる知性であり、かつ、ことを決断し、実践していく意志として働く。

節制する主体は、何か。

2010年10月20日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1. 節制する主体は、何か。
 節制では、食や性の欲求を制御するが、これらの欲求自体にも、自己制御する働きがある。食の欲求は、好みのものを快不快(美味しい・まずい)をセンサーにして種々に選択しようとし、一定量を摂取すると充足して欲求をおのずからに停止していく。これらの制御は、欲求自身のすることである。
 この自然的な制御で過食にならず、おおむねうまくいく人がある。こういうひとは、節制をことさらに意識することなく、節制の生活がなりたっていることになる。だが、多くのひとの食欲は、おいしいものをまえにすると、過食してしまい、過剰の栄養を蓄積してしまう。欲求を、それのそとから制御・抑制していくことが必要となる。
 欲求のそとからの制御というと、こどもであれば、過食や偏食を抑制するのは、まずは親になろう。大人の食でも、看護・介護等、管理する者がそとから制限する場合がある。刑務所では、糖尿病など簡単になおるという。これらは、欲求のそとからというのみか、当人のそとからの制御であり、「節制させられている」のである。刑務所や病院で健康になっても、本人がその気でない場合、そとにでると、また、不健康な過食等の生活にもどってしまう。
 節制は、当人がするのでなくてはならない。食欲をもつ当人が、その欲求のそとから、その食欲にさからい、食べることの停止を自らに命じ、自らにこれを実行することである。それを行う主体は、感性とその欲求のうえにそびえこれを制御する理性である。理性は、欲求等の全体を広く見渡し、過食と判断する知性として働き、その摂取を停止することを決断する意志(実践的理性)となって、自身の欲求を合理的に統御する。

理性が、快楽主義的な逸脱や転倒をそそのかす

2010年10月17日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
4-5. 理性が、快楽主義的な逸脱や転倒をそそのかす。
 過食はいけないと分かっていても、つい、ひとは、おいしさ(快楽)にまけて過食してしまう。感性的欲求は、理性のそとにあって自動的にも働くものなので、かならずしも理性の思い通りには動かない。だが、かりにとてつもなくおいしいが、これに猛毒が仕込んであると知ったとき、ひとは、この魅了する快楽の方をとるであろうか。動物とちがって、みんな、猛毒なら一口も口にしないで、理性の判断にしたがう。ひとは、まちがいなく、本源的には理性の自律のもとにある。おいしさの快楽にかまけて、これに負けて過食するというが、それは、各自の理性において、その程度なら許容できると思っていることが結構あるのではないか。
 理性的精神は、動物的生(食や性)を土台にして、その上にそびえる。その土台での快楽は大きく、精神に慰安の場を提供もする。不安のなかの精神は、あたたかで美味しいもの(その快楽)にほっと一息つくことができる。
 快楽は、その一時ひとを極楽に招き、大いにこれを慰撫することができる。快楽の夥多をもとめ甘くておいしいものの過食へと逸脱していくとき、理性的精神は、おいしいのに栄養がないという反自然を選好する。その栄養なしという快楽主義的転倒は理性が作り出していることになる。
 快楽中毒になるのは、その快楽への欲求の強いことがあろうが、ふらつく理性がこれを許容したり求めていくことも大きく作用しているのではないか。快楽主義への逸脱は、理性がそそのかしているのである。

ついには、快楽中毒になる者も

2010年10月10日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
4-4. ついには、快楽中毒になる者も。
 快楽中毒は、その快楽が欲しいというのみではない。その快楽のない状態になると、禁断症状の苦にさいなまれることとなる。苦は、苦の現存を踏まえ、この現実的苦を無化することに駆り立てる。ふつう快楽は、その快楽の無から、想像で快の有を描いてひきつける。中毒では、そのことは当然の前提で、さらに、その快楽の無を苦痛となして、現にある放置できない苦を克服することへと、快と苦の両面から二重にひとをその快楽へ駆りたてることになる。
 ところで、「中毒」とは、毒にあた(中)り、心身が害されることをいう。食中毒などは、苦痛でしかないから、二度と繰り返したくないと中毒して思う。だが、快楽中毒は、逆で、快だから、反復して味わおうとする。こういう場合、「中毒」は、その「毒」にのめりこみ耽溺して、そこから抜け出すことが困難となっている状態を指す。
 アルコール中毒の「中毒」は、それに耽溺して、摂取をやめられないことをいう。こういう中毒を英語では、addictionというようだが、心身は、その「毒」(アルコール)に魅了され耽溺している(addict)のである。が、人間精神の大局的見地からいうと、害毒(poison)に毒されている(poisoning=「中毒」・・英語で「食中毒」はこちらを使う)のであり、日本語は、これに注目する。
 その快楽中毒が食や性の場合、快楽自体を得るに身体を介する必要があるから、現実世界からさほど乖離したものにはならない。だが、麻薬のように、脳に直接作用して快楽をもたらすものの場合、現実(的身体)とはかかわりなく、脳のみが暴走して現実から離れてその快楽にのめり込みかねない。麻薬(の快楽)中毒では、魂は現実に帰ることができないまでに荒廃して、いわゆる廃人という帰結をもたらすことがある。

節制の定義の拡大

2010年10月02日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
4-3-2. 特殊現代的な快楽を踏まえての、節制の定義の拡大
 古典的には節制は、食と性の欲求・快楽を抑制するだけでよかった。しかし、現代は、一般的に生活に余裕ができ、賭け事や遊びにのめりこみ、その快楽の虜囚になるものが少なからず出てきていて、ここでも節制が必要となっている。
 各種の快楽が簡単に得られる現代社会では、節制は、古典的な食と性への節制を超えた領域をもつようになっている。現代向きに節制の定義をするとしたら、その領域を少し広げる必要があるように思われる。つぎのように定義できるのではないか。

 「節制とは、快そのものを目的とする欲求(食欲・性欲、或いは麻薬とか賭け事・遊び等の欲求)への惑溺で、生の健全さが損なわれるような時に、その欲求を理性でもって適正なものにと抑制して行くことである。」

 麻薬が快楽を目的にしていることはいうまでもないが、賭け事やゲームも、喜びや満足の快感をなによりの目的にする。賭け事とちがって、現実のなかでの価値物獲得の営為では、苦労・苦難が不可避で、かつ、獲得がなっても快の感情は生じないかも知れない。だが、快楽追求のゲームや賭け事では、その現実的な苦労・不快の過程なしで、果実の快楽のみを得たり、虚構のうちでの戦いの戯れにここちよく陶酔する。仕事とちがい、快楽なし(不快)では、遊びは成り立たない。
 食や性にかぎらず、遊び等でも、快楽には魅了され、これにのめりこみやすい。その快楽追求が生の健やかさを損なうまでになった場合、その手前でこれを抑制して節制をこころがけることがいるようになる。