3-4. 恐れ知らずは、ほどほどがよい。
ひとの勇気は、反自然的で、恐怖を抑制し危険と対決する。だが、日頃は、ひとでも圧倒的に自然にしたがい、危険に恐怖すれば自然反応のままに萎縮し危険を回避してすごす。勇気を出す場面は、ごくまれである。
節制の場合は、食事のたびに過食を気にし、体重計にのって毎日でも節制を意識する場面はありうる。しかし、勇気の場合、危険への恐怖に自然的にしたがうことが日頃であって、勇気を出す場面は、ごく限定される。危険と恐怖自体は、食と性に限定される節制と逆に、動物的生から精神生活のあらゆる層にわたって存在している。したがって、勇気は、節制とちがい、低位層から高位層のあらゆる生の場に求められるものでもある。
その危険と恐怖に対して勇気を出すべきことになるのは、だが、まれである。町に出るだけでいたるところに危険があるが、そこでは、概ね、恐怖にしたがって臆し慎重に対処することで危険をやりすごす。暴走車をまえに勝ち目のない勇気を出しているようでは長くは生きておれない。クレジットカードを使うのは危険だと思えば、勇気を出すよりは臆して現金で済ます。
では、どういう場面で、ごく例外的である勇気を出すのであろうか。それは、恐怖する自然にしたがうことがそのひとの生にマイナスになるときである。高所から飛び降りようとすると、自然的には恐怖で足がすくむ。それで、羽根をもたないひとは、落ちて禍いを被ることがなくてすんでいる。だが、火事のときには、飛び降りて怪我をする危険をひきうけ、恐怖を抑えて、勇気をだす者が助かるのである。勇気は、恐怖を抑えその自然反応を超越して理性的に振舞うべき場面に発揮される。