恐れ知らずは、ほどほどがよい。

2013年02月23日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

3-4. 恐れ知らずは、ほどほどがよい。
  ひとの勇気は、反自然的で、恐怖を抑制し危険と対決する。だが、日頃は、ひとでも圧倒的に自然にしたがい、危険に恐怖すれば自然反応のままに萎縮し危険を回避してすごす。勇気を出す場面は、ごくまれである。
  節制の場合は、食事のたびに過食を気にし、体重計にのって毎日でも節制を意識する場面はありうる。しかし、勇気の場合、危険への恐怖に自然的にしたがうことが日頃であって、勇気を出す場面は、ごく限定される。危険と恐怖自体は、食と性に限定される節制と逆に、動物的生から精神生活のあらゆる層にわたって存在している。したがって、勇気は、節制とちがい、低位層から高位層のあらゆる生の場に求められるものでもある。
  その危険と恐怖に対して勇気を出すべきことになるのは、だが、まれである。町に出るだけでいたるところに危険があるが、そこでは、概ね、恐怖にしたがって臆し慎重に対処することで危険をやりすごす。暴走車をまえに勝ち目のない勇気を出しているようでは長くは生きておれない。クレジットカードを使うのは危険だと思えば、勇気を出すよりは臆して現金で済ます。

 では、どういう場面で、ごく例外的である勇気を出すのであろうか。それは、恐怖する自然にしたがうことがそのひとの生にマイナスになるときである。高所から飛び降りようとすると、自然的には恐怖で足がすくむ。それで、羽根をもたないひとは、落ちて禍いを被ることがなくてすんでいる。だが、火事のときには、飛び降りて怪我をする危険をひきうけ、恐怖を抑えて、勇気をだす者が助かるのである。勇気は、恐怖を抑えその自然反応を超越して理性的に振舞うべき場面に発揮される。


理性による恐怖の忍耐が、ひと固有の勇気。

2013年02月16日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

3-3. 理性による恐怖の忍耐が、ひと固有の勇気。
 動物は、自然に埋没していて、恐怖にとらえられたら百獣の王であっても、この感性にしたがって逃走する。しかし、ひとは、弱者であっても、自然を超越した自律的な理性のもとに、おのれの恐怖する自然感性を抑制・制御して、逃走しないで耐えることができる。恐怖を甘受しつつこれに忍耐できる勇気は、自律理性をもった人間ならではのものであろう。
 動物も勇気を見せることがある。食や性などの衝動が恐怖よりも強くなって恐怖を打ち消すといった形での勇気がありうる。ひとは当然この自然的な勇気ももつ。猛犬に恐怖していても、我が子が襲われる段になると、母性本能は、恐怖を凌駕して、猛犬に対して果敢に戦う勇気を出す。
 恐怖を忍耐するひとの理性的な勇気の特徴は、恐怖を小さめに受け止めて、しっかりと耐えうるようにと工夫することであろう。突然だと過度に恐怖するから、予め構えられるようにと危険の予知につとめる。恐怖では身体反応が顕著であり、恐怖の反応と反対の動きをするようにすれば、恐怖心自体も小さなものにできる。いっそ攻撃に出れば、攻撃に気が向くから、恐怖は消えても行く。理性は、種々に恐怖を抑制して勇気を出す。
 大胆さの勇気は、危険に無頓着となるが、無闇では、敵に隙を与えるのみとなる。果敢さも、盲滅法では危険排撃はおぼつかない。ことを的確に洞察し深慮遠謀をもって、勇気は、理性のヘゲモニーのもとに発揮されねばならない。


勇気では、大胆・果敢よりは、恐怖の忍耐が根本をなす。

2013年02月09日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

3-2. 勇気では、大胆・果敢よりは、恐怖の忍耐が根本をなす。
 勇者は、「大胆」不敵で、勇猛「果敢」である。防御に無頓着で危険を些事と見下す「大胆さ」をもち、攻撃に情け容赦なく猛然と奮起する「果敢さ」をもって戦う。心中の「恐怖への忍耐」という勇気は見えないから、大胆・果敢の勇気の方が目立つ。しかし、勇気の根本は、恐怖への忍耐の方にある。へびに触れるために大胆な勇気を出すひとは、これが怖い者に限定される。怖くないひとは、かわいいへびに触るのにどうして勇気など出さねばならないのか理解できない。恐怖があっての、これに忍耐できた上での大胆・果敢の勇気である。
 大胆・果敢の攻撃的な、いわば殴る方の勇気は、自然的欲求に沿ったものでありうる。だが、恐怖の忍耐は、殴られる方で、怖くて逃げたいという自身の感性・自然を抑圧して反自然の対応に出ねばならない。殴られ怖いのを我慢して逃げず、これに耐えようというのである。勇気にとって、恐怖への忍耐は、大胆・果敢に比してよほど辛いことである。
 恐怖がなくなれば、おのずと大胆・果敢の攻撃もすすんでくる。猛犬からボールをとりかえそうとする子供は、怖くてなかなか大胆になれない。だが、犬が鎖につながれていると分かって危険と恐怖がうすらぐと、とたんに大胆になり必要ならバットをもって果敢にもなれる。恐怖を小さくしてこれに忍耐することがしっかりできれば、攻撃的に大胆・果敢の勇気を出すことは、容易である。勇気では、恐怖への忍耐が肝要である。


勇気の定義

2013年02月02日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

3. 勇気とは
3-1. 勇気の定義
 勇気は、強者のもつもののように一見思えるが、ネコとネズミのけんかでは、ネコには勇気はいらない。弱者のネズミが必要とするものであろう。弱いと危険になり、この危険に積極的な対処をするところに勇気は登場する。
 危険には、恐怖の感情をいだく。危険のさきの禍いを想像してこれを避けるために恐怖反応をして逃走したり萎縮することになる。危険に恐怖するのは自然の防御反応である。それで多くの禍いが回避できる。だが、危険を回避するには、これから逃げず恐怖を抑えて積極的に対決する方がよい場合も多い。ひとは、必要と思えば、恐怖にとらわれることを抑制して、危険に対して冷静になり適正な対応につとめて、勇気ある振る舞いができる。感性的自然を超越した理性存在として、ひとは、理性の制御のもとに、この危険・恐怖と対決することができる。
 勇気は、第一には、なんといっても危険なものへの恐怖を、理性の制御のもとしっかりとおさえて耐え、心の平静さを保つことである。だが、それだけでは、危険なものはそのままである。勇気は、第二には、危険を排撃しなくてはならない。危険に平然として大胆不敵のかまえをとり、危険排撃に勇猛果敢となることである。つまり、ひとの勇気は、「理性の制御のもと、危険への恐怖・不安に忍耐し平静さをたもち、この危険の適正な排撃のために大胆・果敢に振舞うこと」だと言えよう。簡略にいえば、「恐怖に耐え、大胆・果敢になる」ことである。