忍耐は、犠牲のみに終わることも-「骨折り損のくたびれもうけ」

2018年08月31日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-3. 忍耐は、犠牲のみに終わることも-「骨折り損のくたびれもうけ」
 忍耐のうちには、その痛みが単に心身に損傷をもたらしているだけで、これに耐えること自体にはあまり意味のないものもある。歯痛は、放置していると何ヶ月でも痛むし忍耐もできる。が、忍耐しても無駄で、「骨折り損のくたびれもうけ」である。我慢せず、早めに治療した方がよい。
 強制されて忍耐させられる場合は、それが自分のためになるものかどうかは分からない。脅迫されてする忍耐の多くは、脅迫する者の利益になるだけで、忍耐させられる者は、それの犠牲にされるだけであろう。弱虫なのでいじめられ我慢させられるというような場合、暴行を受ける犠牲・苦痛のみがあって、歯痛と同じでいくら忍耐しても、いいことは何もないのが普通であろう。忍耐すればいいというものではない。いじめへの忍耐などはほどほどにして、転校したり、武道を習い正当防衛の策を練るなどの苦労に忍耐は振り向けるべきである。
 忍耐する時点では楽観的な想定をして、忍耐する者に大きな価値が獲得されると見ていても、苦痛の犠牲の果てに待っているものは、無価値なものであるのみか有害なものを結果することもある。無駄な忍耐・無意味な忍耐がある。DVに耐えることは、ときには、それに耐えておれば、やがて暴力はやんで、家族が安寧を得ることのできる場合もあろう。だが、多くは、そうではない。家族に暴力を振るうのは、昔は単に粗暴ゆえのことが多かったが、現代では、弱虫が、ためた鬱憤を身近な者に発散するだけの情けないものである。我慢するほどに、暴力はひどくなり、一層の苦痛をもたらすのが普通で、忍耐せず、離縁・離隔等のために労をとり有益な形の忍耐をしていくべきであろう。 
 


忍耐は無為で、変わらないことで変えていく

2018年08月24日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-2-4. 忍耐は無為で、変わらないことで変えていく
 忍耐は、事柄としては実に簡単である。何もしないでじっとしているだけで良い。誰にでもできることである。無為に徹底する。しかし、ひとは、動物として、動きたいという衝動をうちに生じる。忍耐は、苦痛の前でじっとしているだけでいいのだが、動物的自然をうちにもつから、苦痛への強い回避衝動をもち、動こうとする。苦痛に負ければ逃げ出そうとするし、苦痛に勝とうと攻撃にはやりもする。だが、忍耐は、苦痛に勝つのでも負けるのでもなく、攻撃も逃走もせず、動物的自然を超越して苦痛のあるがままを受け入れて逆らうことなく無為をつらぬく。忍耐は、じっとして何もせず、坐禅でのように手を折り足を折って、植物のように無為に徹する。ただし、外的な営為としては無であるが、内的には、忍耐は、逃走などの衝動を外に出ないようにと抑止するから、内的には「有為」で、内的にも無為になる坐禅とはその点では異なる(我儘・傲慢な者の忍耐は、表向き我慢して相手に無為にとどまるのみではなく、我慢を持続するなかで、内面も、傲慢でなく、やがて、坐禅のように無為で無想の者にと変わっていくことが望まれる)。
 忍耐では、苦痛甘受への不動不変の姿勢を続けるから、苦痛から逃げる者とちがい、その何層倍もの苦痛・損傷に心身をさいなまれ続けるが、その中で、多くの場合、状況が変わっていく。しばしば、苦痛が苦痛でないものに変わる。その苦痛に慣れてこれがなんでもないものにと鈍感に成り変わっていく。自分の能力がその苦痛に適合できるようにと伸びていく。さらには、そういう苦痛にたじろがない忍耐を見ながら、ときに対象(相手)の方も変わって苦痛を与えるものでなくなっていく。
 不動の忍耐は、持続してこそのものである。その持続は、苦痛甘受の無為を、すくなくとも表面的には変わらず、続けていくことである。それは、時間の持続の中で熟してくる。忍耐は時熟する。慣れてくれば、あるいは癒えてくれば、苦痛はやみ、忍耐は無用となる。持続する忍耐はそこで成就する。目的のための犠牲・手段としての苦痛甘受、忍耐は、目的実現で終了する。手段として役立つ限りの、有限の持続を貫徹するのが忍耐である。


嵐がすぎさるまで、じっと我慢

2018年08月17日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-2-3. 嵐がすぎさるまで、じっと我慢 
 忍耐は、苦痛の続く間、逆らうことなくこれを甘受しつづける。苦痛の嵐をじっと息を潜めて耐え続ける。世間の無理解で非難され罵倒されることの苦痛も、これをじっと耐える。嵐の後は晴れてくるという希望をもって忍耐する。かりに世間は変わらないとしても、傷はその間に癒えてくる。そういう誹謗中傷に慣れて平気になれば、苦痛はなくなり、忍耐は無用となる。それまで、忍耐は、苦痛を受け入れ続け、時間の過ぎるのをひたすら忍び続ける。
 忍耐は、なにかを積極的にするものではない。なにもしないで時間の過ぎるのを待つのである。戦いでは、持久戦になると、しばしば辛抱できなくなって先に動いた方が撃たれて負けとなる。忍耐は、なにもしないで、逃げたい・攻撃したいといった衝動をじっと抑えて耐え続ける。「待てば海路の日和あり」と、情況の変わってくるのを待つ。それまでの忍耐である。 
 忍耐しつつ動き続けることもあるが、それでもその忍耐自体は、辛苦を変わらず甘受し続けて、動かずじっとしている営為になる。腕立てふせをする者は、動く。だが、そこで忍耐するのは、腕を曲げたり伸ばしたりする運動ではなかろう。腕立て伏せに慣れたものは、はじめは、苦でないから、忍耐なしでの運動となる。それが忍耐になるのは、苦痛になりだしてからである。忍耐は、その苦痛を耐える。忍耐せず動いて苦痛から逃げる者は、その時点で腕立て伏せの運動をやめる。が、忍耐する者は、苦痛甘受に不動の決意を保ちつつ、腕を動かして運動を続けていく。動かすのが忍耐ではない。苦痛に(動かず)耐えるのが忍耐である。腕立て伏せができなくなる限界は忍耐の限界ではない。腕がうごかなくなっても、筋肉が痛めば、この痛みには忍耐することとなる。動かそうとすると一層痛くなる。もう腕は動かないが苦痛は続く。苦痛であれば、なお、忍耐は続く。忍耐は、苦痛から逃げず動かず耐え続けることであり、腕を動かす努力とはちがう。
 


苦痛は、厳しい否定をもって強情なエゴを変える

2018年08月10日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-2-2. 苦痛は、厳しい否定をもって強情なエゴを変える 
 忍耐では、本心において嫌なものは、変わらず嫌なものとしているが、もし、自分が変わって、嫌なもの、苦痛であることがなくなれば、忍耐は無用となる。苦痛であるものから逃げられないとき、ひとは、これを甘受しつつ、自己自身を強くするとか鈍感になるという形で苦痛と感じないようにと変わっていくことができる。正座が不可避ならそれを苦痛としない自己にと変わっていく。エゴに執着することで苦痛が生じておれば、これをやめて全体・合理に従うようにと自己を変えて苦痛を無化しようともする。
 内的な自己批判では、ひとはあまり変わらないが、外的な厳しい指摘・批判は、鋭いものがあって苦痛となり、自己変革が強いられることになる。苦痛という自己を否定するものについて、これに逆らわず受け入れ耐え続けるなかでは、自己否定(苦痛)は心底にまで染みとおっていく。ひとの能力は柔軟性に富んでいて、苦痛に鞭うたれて大いに自己変革をすることができる。
 快の享受では、それにのめりこみ自己はそこに満足して停滞する。自己を変えることなど無用であり、エゴは、そのままにとどまり続ける。筋肉は使うことがなければ、弱体化していく。苦痛に耐える者は、その反対である。そこにとどまりたくなく、苦痛とその発生源が変わらないのであれば、自己を変えざるをえなくなる。脅され強制されてであれ、懇願・哀願されてであれ、自分のそとから求められる忍耐は、自身を変えるに大きな力となる。自分だけだと苦痛に耐えるにもすぐ限界を見つけてしまうが、そとからの強制をもってすれば、主観的で可変的な苦痛の限界は、はるか高くにと置き直すことが可能となる。耐え続けておれば、その苦痛には慣れ、心身はそれに見合う能力を身につけて、その苦痛を苦痛とすることがないような強靭なものにと変わっていく。 

 


苦痛の甘受でひとは向上し、快楽で停滞する

2018年08月03日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-2-1. 苦痛の甘受でひとは向上し、快楽で停滞する
 忍耐は、苦痛の犠牲を手段として価値ある目的を成就したり、苦痛に慣れて何でもないことになるようにとその生を広げていく。あるいは、欲求抑圧の忍耐では、不充足に慣れてくれば、より小さな充足で満足できるようになる。糖分は、控え目でしっかり味わえるようになる。逆に快楽の場合、これに慣れると、快楽でなくなってきて、より大きな快楽でないと間に合わなくなり、その快楽に鈍感になる。したがって、より贅沢なことになっていく。  
 苦痛や欲求不充足を引き受けるのは、その犠牲をもって、これを手段として、大きな価値が獲得できるからである。その獲得されるものは、その苦痛の営為が目的としている価値物のみではない。そういう辛苦に耐える心身の能力自体を高める。訓練とか鍛錬は、これを目的としたものである。苦痛に耐えていると、それを支えるだけの能力が身についてくる。苦痛になるような限界とぶつかることで、それに見合う力を出す必要性が生じ、新規の能力を目覚めさせることとなる。逆に、安楽に慣れると、心身は衰えて劣化していく。
 苦痛は、単に慣れて平気になるにとどまらず、欲するもの・快に変容することもある。勉強とか仕事は、しばしば、苦痛にはじまる。だが、これを続けていると、それは快となっていく。はじめは苦痛で回避したい義務であったものが、やがて快適で求めたい権利にと変わっていく。その快適さを基礎にして、さらに困難なことに挑戦し忍耐することで、ひとは、一層向上していく。