苦痛とその区分け

2021年04月27日 | 苦痛の価値論
2.苦痛とその区分け
 忍耐の対象は、回避したい不快な感情類である。悲しみの忍耐は、悲しいという不快感情を対象とする。恐怖の忍耐は、恐怖という避けたい不快感情になる。それらをまとめた忍耐の対象一般ということになると、不快感情ということになるが、不快というだけの場合、ささいなものを含んでいて、忍耐の対象というには、ものたりない感じになろう。
 怪我や絶望に耐える場合、不快ではおさまらない。不快だけなら、怪我は放置できるであろう。怪我での忍耐の対象は、無視できない、放置できない、耐えがたい「苦痛」であろう。絶望が、単なる不快でしかないのなら、自殺者をだすようなことはなかろう。少し寒いとか暑いとかといった単なる不快ぐらいなら、どこにもあって日常的に経験していることで、苦痛のように覚醒・注視を強制されることではなく、気にすることでもない。しかし、絶望の強い不快は放置しがたくひとの気をそこへと集中させ苦悩させつづける。それを不快というだけでは、軽すぎる。絶望の否定的な不快な感情は、ひとをそこへ縛り付けて煩悶させる苦悩・辛苦といったものになるであろう。精神的に否定的感情をいだいて忍耐する場合、辛苦が一般的であろうか。辛い思いをし苦しむ、辛苦である。
 しかし、辛苦では、生理的な場面での忍耐の対象は若干言い表しにくいものになる。身体の怪我は、大きく長く続けば辛いものとなって辛苦でもよかろうが、擦り傷に我慢するときのその対象を辛苦、辛い苦しいというのでは、大げさである。辛苦にではなく、痛みに我慢するのである。痛みでは、感覚的なものに限定されそうだから、耐えるべき不快をより広く言い表すには、苦痛がいいように思える。呼吸を止めるときの忍耐では、呼吸停止が「痛い」とはいわない。「苦しい」であろう。その点では、「苦痛」なら、痛みにも苦しみにも、いいうる。擦り傷も苦痛、呼吸停止も苦痛、絶望の苦悩・辛苦も、絶望の苦痛といって通じるであろう。苦痛は、軽いものにも重いものにも、生理的なものにも精神的なものにも言いうる。忍耐の対象は、この「苦痛」をもってすればよいように思われる。
 これは、言葉の使い方の問題というより、言語をもっての、この世界の普遍的なあり様(概念)の把握の問題である。なにであれ、苦痛(概念)に該当するものには、生の損傷への嫌悪・緊張・注視の強制等があり、同じようにそれへの回避衝動がある。苦痛(という概念)には、どんな苦痛であっても、同じく忍耐で構える。

苦痛・損傷を蓄積しての疲弊 

2021年04月20日 | 苦痛の価値論
1-8-1. 苦痛・損傷を蓄積しての疲弊     
 生は、損傷(苦痛)を余儀なくされても、自己再生、自己維持の能力をもつ。損壊した部分は再生する。だが、損傷が大きくなるとそれが残ったり、激しく傷つけば回復不能ともなっていく。損傷が重なり蓄積すれば生の機能は一層弱体化もしていく。日常的な営為で軽く損傷を受けた状態は、疲労ということで、少し休めば、損傷を修復し再生してもとのように活動が可能となる。が、無理をすることが続けば、激しい疲労・疲労困憊状態になって、生の回復は、すぐにはならないことともなる。マラソンなどで、血中の乳酸等をもって疲労度を計ることがあるが、走行を続けていると、その乳酸値が急激に上昇し、疲労感が激増してくる段階があるという(ただし、乳酸自体は疲労物質ではないようである)。生は、損傷を回復しつつ耐えていく平常対応と、それでは間に合わなくなり損傷を残し疲労を蓄積しつつする非常時対応をする場合があるといってよいのではないか。火事場の馬鹿力をいう。生の保全を思い力をセーブしつつする平常対応と、非常事態となって、保全に回す分をもすべてその対応に使い疲労激増も厭わず全力を出し切る対応という違いである。
 心身の鍛錬では、苦痛を耐えるが、軽い苦痛・疲労を生じる程度であれば、そこでの疲労、損傷からの回復は、すぐになる。その苦痛・疲労をふまえて、次には、それが平気になれるような能力を身につけてもいく。だが、その疲労の限度を超えて、損傷の度が過度になると、損傷のままに残り、その疲労困憊での消耗を重ねると、場合によれば、再生不可能な損壊をもたらすことにもなる。野球で、肩を痛めて野球から身を引かざるを得ないようなことが生じる。損傷・苦痛がその回復力を超えたものとなっているのに、それを繰り返した場合、ダメージは蓄積して、生を消耗させていく。過労を休息で解消して回復できるのが生の持続可能な穏当なあり方であろうが、これを無視して、過労からの回復をせず、過労、生の損傷・破壊を重ねていくことがある。命をすり減らす過酷な状態の進行となり、過労死をもたらす。

疲弊

2021年04月13日 | 苦痛の価値論
1-8. 疲弊    
 苦痛は、その生が損傷して、その部位なり全体が危機的状態になっていることを語る。生は、生じた苦痛への対応に大わらわとなる。大きな苦痛であれば、短時間であっても、大きなエネルギーを使うことになるが、小さなものでも、時間とともに使われるエネルギーは、積算すると多大となっていく。苦痛にもがき悶えるような場合は、出口がなく無意味に徒にエネルギーを消費し続ける。時間とともにその徒な動きは、疲弊してくる。苦痛は、なにもせずにいても、これを受け止めて緊張しているだけで、疲れる。苦痛が去ったあと、ぐったりとするぐらいに、疲労を抱え込むことになる。ながくつづく苦痛の場合は、疲労は蓄積して、生を疲労困憊させることになる。損傷・苦痛への反応は、緊張・萎縮から煩悶までいずれも、生へのマイナスの食い止めのための必死の営為で、大きなエネルギー消費、消耗であり、時間とともに、疲労が蓄積する。抑鬱も不安も焦燥も大きな疲労をもたらす。激痛のショックでの虚脱化も、意識・感覚には無となっても、生体自体は大きなダメージを受けることで、平常の意識が回復すれば、おそらく、疲弊を感じることとなろう。
 疲労は、心身に損傷をうけたこと、有害物質が心身をむしばむこと、緊張や活動等をもって自身で疲労物質を出して活動能力が弱体化すること、あるいは、それらへの新陳代謝・回復力が間に合わなくなっていること等をもって心身にダメージを感じることであろう。苦痛は、身体の損傷であっても、感情としては心身全体で感じるものになり、疲労感も、身体のそれと心のそれは不可分である。が、かならずしも一体ではない。身体の疲労物質・損傷は、直接的にはその身体の疲労をもたらすにとどまる。猛烈に身体を酷使してのその疲労が、社会的な名誉となることなら、精神的には愉快となる。逆に精神的に疲労困憊していても、さしあたり身体は快調でありうる。

絶望とちがい、自棄は、あくまでも自己責任になる

2021年04月06日 | 苦痛の価値論
1-7-3. 絶望とちがい、自棄は、あくまでも自己責任になる
 生は、自己再生能力をもち、損傷を自身で修復する。だが、やけは、その逆で、自身で自身を破壊する。やきはらう。希望を剥奪され絶望に耐え得ず、その生に本来的な営為になげやりとなり、やけ(自棄)になって、その生の価値あるものを放棄し、ついには、自身の心身全体の遺棄へと向かうこともある。自棄は、精神の癌細胞である。   
 自棄は、苦痛・苦悩に耐えれば、なお先のあるものを、自分の苦痛に屈し自分の絶望に負けて、捨て鉢になり、それまでに培ったすべてをご破算にして投げ棄て、たまった鬱憤を見境なく暴発させていく。苦痛回避の自然的衝動を抑止した忍耐は、反自然・超自然の人間的尊厳の端的である。だが、自暴自棄は、自然を超越しての忍耐を貫けず、自身(の苦痛)に敗けて自身を遺棄する。その尊い生の真摯な営為を投げ棄てて逃亡する。自身で自身を破滅させ遺棄する自棄は、反理性であるのみか、自然以下の反自然の愚行となる。
 絶望は、希望を剥奪されてなる。剥奪するものは、自身ではなく、多く外にあり、絶望させられるのである。その絶望に耐えれば、やがて、また、希望を見出してもいける。だが、やけ(自棄)は、その忍耐を貫徹できず、自身が自身を遺棄する。やけは、自分が出す。自棄になるか否かは、自分の意志の決断しだいである。そとから強いられ、他人に起因することも多い絶望とちがい、やけは、自分が自分をすてるのであり、自己責任である。道を絶たれて絶望した人を非難するのは酷であるが、自分の道を自分でやきはらう自棄になった者は、批判されて当然である。絶望と違い、やけは、ひとのせいにすることはできない。
 やけ(自棄)は、自分を棄てるが、これが、個我のうちのエゴ・利己の放棄であった場合は、無我・没我の境地をもたらしうる。やけ(自棄)の愚行のなかで、個我の執着を棄てるといった健やかな方向へと舵を切り変えることができた者は、エゴの煩悶を放棄するから、安らかな境地に至り、創造的な自己を取り戻す。