鵜飼い

2010年04月28日 | 日記
 鵜を最近あちこちの河で見かける。今日も、のんびりと川の中の石のうえでひなたぼっこしているのを見かけた。川にいるのだから、「川鵜」なのだろう。いつ見ても、暇をもてあましてボーとしている様子であり、近寄っていって「つまらなさそうだが、一緒に魚でも獲って遊ばないかい!」と「鵜飼い」に誘いたくなる。
 日本の鵜飼いでは、鵜にひもをつけて逃げないようにし奴隷化しているが、中国の鵜飼いをみると、ひもなどつけず自由にさせている。それでいて、ちゃんと漁をなりたたせている。しっかりと家畜化されている感じである。ひとと漁をすることが鵜にも好都合なのであろう。洪水のときなどでも、最低限の生活は保障される。
 遊び心があるのかもしれない。鵜のまねをする「からす」は、よく遊ぶ。まねされる鵜も魚をとって楽しいのではないか。鵜は、自分だけだとすぐ満腹してしまうので漁の楽しさは、すぐ終わるが、鵜飼いがはきださせてくれるので、いくらでも漁が楽しめるということである。あるいは、長い首の一部をしばって大きな魚はのどにつまるようにしているので、「のどがつまった、ウッ、ウッ、とってくれー」と鵜飼いのところへ戻ってくるのか。
 だいたい、漁は、獲るまでが面白いのである。鵜も、魚を追っかけて捕まえるまでが楽しいのであり、獲ったら、もうあとは、吐き出さないと次が楽しめない。ネコでも、ねずみを捕っては、逃がして、ねずみには迷惑だが、猟を楽しむ。
 日本のは、長いひもをつけて、鵜飼いが「この手綱さばきが難しいんです」とやっているが、どうしてひもで操ることになったのであろうか。日本の鵜飼いの鵜は、海鵜だという。川鵜でないので、ひもをつけていないと、潜ったままどんどん下流に逃げて、海に帰っていくのかも知れない。

衝動・傾向性・本能

2010年04月25日 | 節制論
3-3. 衝動・傾向性・本能
 「衝動」は、短絡的な欲求で、理性的制御の媒介を振り切って突っ走る。それでも不随意の自律神経系のものではなく、随意的意識的に機能するものについていうのであり、理性の関与は可能である。「衝動買い」「衝動食い」等、衝動を意識する場面では、基本的には理性の制御が効き得る随意の営為について、その制御の及ばなかったことを反省するのである。
 「傾向性」をいうこともある。ひとの欲求に関する常々の自然的な傾き・好みである。理性的な制御をあまり働かさないで自然にまかせておくと、その方向におのずから進んでいく欲求のあり方である。「性向」「性癖」も同様な心の傾きであろう。食や性といった動物的欲求の根本の傾向性は、快に向かっていくことである。
 母性本能などの「本能」は、学習して経験的に獲得したものではなく、生得のものとされる。欲求としては、本能も「したい」「ほしい」と意識され随意的な面をもつ。胃は消化を行うが、この生得的な働きを本能とはいわない。本能は、反射運動などとちがって、意識で制御できる。「闘争本能」も「性本能」も、引く(反発する)働きを見て引力(反発力)があるというのと同じで、働きを実体化して見ただけである。「性癖ぐらいなら何とか出来るが、本能は・・」と悲観することはない。戦いをやめれば、闘争本能は消滅し、共感本能が顔を出す。

欲求充足の方法の短絡と媒介

2010年04月25日 | 節制論
3-2.欲求充足の方法の短絡と媒介
 われわれホモ・サピエンス(知性のヒト)の欲求は、当然、知的理性的な制御のもとに展開される。ひとの欲求は、高度に媒介的で、まず目的を意識し、次にこれの実現のための手段の過程を見出して、自覚的に実在的な手段の過程を目的実現へとたどっていく。
 理性の媒介的な過程、理性の制御の効き具合は、その欲求と個人に応じて相当に異なる。「衝動的に」「激して」というかたちの欲求実現は、そのときの欲求が強烈すぎてか、制御する理性が麻痺的状態にあって、知のコントロール・自律を失い、激しいパッション等に「衝き動かされ」短絡的になるものであろう。逆にいうと、ひとは、常々、短絡的ではなく、欲求に関して種々のことをふまえて冷静に判断し、周囲に配慮しながら、知的に媒介的にふるまっているということである。
 欲求は、その目的(価値物)に引かれ、これを導きの糸とするのだが、さらにこの欲求を生起し駆り立てる「きっかけ」「動機」の果たすものも大きい。盗みの「目的」は、価値物とそれの獲得であるが、盗みの「動機」は、盗みへと心を突き動かす要因となるもので、例えば、空腹とかお金がなかったからというようなものになる。

いのししの弁明

2010年04月23日 | 日記
 わが家の裏山の双葉山が、いのししの侵入で小動物絶滅の危機に瀕していると書いたが、いのししの方からは、「お前ら人間の好みの生物の多様性をいっているだけのことだろう、見るのも不愉快な怠惰なパンダとちがって、わしらは、自分で生きており、生活がかかっているんだ」といわれそうだ。
 牛田山からひっこしてきた双葉山のいのしし君も苦労しているのはよく分かる。あちこちをほりかえしても、みみずは少なく、ちょっと過ぎて畑や庭をほりかえしたら、おおさわぎされて、若干、気の毒だ。餌になるものが少なくてこまっているようだ。広島駅と双葉山のあいだに鉄道病院があるが、その脇道の草むらをいのししがほりかえしていたことがある。そこにいくには、山とのあいだの住宅街と危険な車道を横切る必要がある。そういう危険をおかしても、おそらくは、みみずが少量食べられただけである。さすがに、二晩ほど掘り返してあとは諦めたようである(その脇道でも、夏には、みみずが猛暑のなか、死の行進をしているのをときに見かけた。―なお、その場所には常々気になることが別にある。年に二三度草が刈られるのだが、なかに、野ぶどうの木(ではなく、美味しい山ぶどうかも)があり、少しのびたかなと思ったら刈られてしまい、その繰返しで、蔓として伸びることができないで何年にもなる。通るたびに、「気の毒」になって仕方がない)。
 すがたは見たことはないが、双葉山のいのしし君、栄養不良になっているのではないかとすら思える。いつぞや、鳥インフルエンザで騒いだ冬だったか、小生が猪君のけもの道を直角に横切っていたら(われわれ人間の道からいうといのししが横切っているのだが)、すぐ先の、一休みしているような気配を日頃から感じていたところで、大型の動物らしい音声で「ゴホン、ゴホン」と咳をしていた。栄養が十分とれずに風邪を引いたようだった。
 食料には不自由の様子なのに、この山に豊富な「どんぐり」には手をつけていない。双葉山は、「しりぶかがし(尻深樫)」の群生しているところで、これは、小生らが生のままで食べても十分おいしい。谷間になるところには、スコップですくえるぐらいたまりにたまっているのだが、いのししは、そこらでも、土を掘りあげているだけで、全然食べていない。ヨーロッパでは、森に豚を放して「どんぐり」を食べさせることを一般的にやっていたようだが、猪(=豚)にも好き嫌いがあるのだろうか。食料輸入ストップで日本が飢餓列島と化したときには、小生は、あの「しりぶかがし」も食料にするつもりである。それぐらい、美味なのに、これには見向きもしない。不思議なことである。
 飢えていても菜食主義者が肉を食べないように、かれらには、かれらなりのやり方というものがあるのだろうか。マーキングにしても、そこらで一番大きくて昔なら精霊がやどっているとでもいいたくなるような山桜の古木には、遠慮してか、どろをなすりつけていない。大きな山では食物連鎖の頂点には立てない猪だが、ここでは、頂点にたっているので、支配者としての尊厳を自覚して配慮しているのかも、と思いたくなる。と思うのは人間のかってな妄想で、いのししからいうと、単にその古木の表皮がごつごつしていて不快だから、近くのヒノキのやわらかな皮に肌をこすりつけているだけのことなのかも知れない。


裏山で、シマヘビを見た

2010年04月21日 | 日記
 今日は、うちにいたので、昼食後、山(広島駅の北になる双葉山)に上がってみた。今年はじめて、へび(シマヘビ)を見た。旧日本軍が設置していた高射砲か機関砲の跡地の石垣で、例年の通り、ひなたぼっこをしていた。ただし、昨年のとちがい、小型だった。日向ぼっこするにはそこらでは一番の場所なのだが、昨年の主は、もう死んだのか。
 この小山でも最近までけっこうへびがいた。今日のような「しまへび」が多数であったが、ほかに、「まむし」「やまかがし」「青大将」「かなへび」を時々見かけた。「じむぐり」「ひばかり」かなと思える影も見たことがある。
 だが、いのししが牛田山から進出して棲みついて以後、だんだん、それらのへびは、少なくなった。昨年は、「しまへび」「かなへび」以外は、見る事がなかった。このやまのへびは、しまへびもふくめて、みな美しく、とくに、「やまかがし」は、見事な虹色の若年のがいてほれぼれしたことがある。たぬきやテンもいなくなった感じであり、いのししがこれらを駆逐したのであろう。みぞに入って出られなくなった子狸がソプラノで「コーコー」と母に助けを求めていたのに出会ったことがあるが、あのたぬきは、無事に成長したのだろうか。
 へびが少なくなったからか、小鳥がふえて、最近は、地上におりて餌をさがしているのが目立つ。先年の台風のあとの春は、うぐいすの声が絶えていたが、この春は、うちの庭にまでとんできて、美声を朝から聞かせてくれている。