忍耐には、賢く関わりたいもの

2018年09月28日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-5. 忍耐には、賢く関わりたいもの
 忍耐は苦痛を注視しているが、それ以外のことは、お留守になりがちである。大きな忍耐つまり大きな苦痛ほど、苦痛だけにとらわれて、他を見る事ができなくなる。忍耐は、反自然であるから、放置しておいてうまくいくものではない。状況を熟知し大局を忍耐のそとから見ていないと、愚かしいものになってしまうこともある。忍耐は、すればいいというものではない。反忍耐、苦痛回避こそが必要な場合もしばしばである。おそらくはそれがほとんどで、わずかの場面で忍耐という反自然の苦痛甘受が有効なのである。苦痛の受け入れは、例外として有意義なのであり、圧倒的には、反忍耐、つまり自然にしたがうこと、苦痛排除が正解であろう。苦痛になるようなことは避け、快適さを求める反忍耐が日々の生活では圧倒的である。
 忍耐は、苦痛甘受以外にはなにもないのであれば、犠牲があるだけである。「骨折り損」だけである。忍耐に意味があるのはその犠牲を手段として目的・結果にすばらしい価値が獲得可能となる場合のみである。あるいは、大きな忍耐から逃避しての小さな忍耐で自らを欺くこともあろう。その犠牲と目的をしっかりと把握して大局を見定めていないと、愚かしい忍耐となりかねない。 
 忍耐は犠牲をつねにともなう。等価交換を世の原理と見る者は、犠牲のマイナスに匹敵するプラスが忍耐をもって約束されると思い勝ちである。あの世での至福のためにと現世で辛苦の犠牲を前払いしようというひともいる。だが、辛苦の前払いは確かにしたのだけれども、来世の至福は現世にはなく、夢・幻想である。あの世がなければ、至福は詐欺である。忍耐の犠牲は、かならずしも報いが得られるわけではない。賢くかかわらねばならない。

 


大きな忍耐から逃げるための小さな忍耐がある

2018年09月21日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-4-2. 大きな忍耐から逃げるための小さな忍耐がある
 暴力団の脅しの恐怖に忍耐できず、自殺したというようなニュースを聞くことがある。大きな恐怖・辛苦に忍耐できず命を絶つことは、いじめ・脅迫などで時々ある。命を絶つぐらいなら、命をかけて戦ったらと思うことであるが、おそらく、執拗ないじめに絶望的となり戦う気力さえも奪われた状態になるのであろう。
 死ぬことは、苦痛であり忍耐を要することであるが、自殺する気になったものには、死は、現にある辛いことから自分を救ってくれる唯一の手段と解され、ほとんど我慢もいらないぐらいのものになる。しかし、それは、逃げているのである。楽になりたいということしか思いつかなくなるのであろう。冷静に考えれば、脅迫しているものと戦うべきなのにである。執拗ないじめには、被害者は、勇気を出して、警察にいくとかこれを告発するとか、場合によっては非常手段をとって自分の方からいじめる者をたじろがせ恐怖させるような(武道を習得するなどの)工夫へとエネルギーを注ぐべきであろう。死ぬよりは、過剰防衛でも悪には反撃し鉄拳を下すというぐらいのバイタリティーをもてるようにと、こちらに忍耐力を注ぎたいものである。
 殺されるのは大変な苦痛だろうが、その死さえも、自分で選ぶことがある。いつまでも続く不安とか、絶望の暗黒に閉じ込められての苦悶に忍耐するよりは、自殺時の苦痛の方がましだということである。100メートルの絶壁から飛び降りろと言われたら普段は恐怖に足がすくむが、自殺する者には、生の苦悶からの解放に向かって飛び立つ感じで、恐怖の苦自体はないか小さくなっているのであろう。名誉を守るため、責任をとるためにと尊い命を絶つことがあるが、いじめで自殺するような場合は、生の巨大な苦痛(絶望や悲哀)に耐え切れず、卑屈な忍耐に逃げているだけのように見える。


忍耐は、不屈でありたいが、卑屈なものもある

2018年09月14日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-4-1. 忍耐は、不屈でありたいが、卑屈なものもある
 忍耐強い戦士は、危険への恐怖を忍耐しつづけ、戦う際には心身の疲労の辛さに耐えて果敢に戦い、あるいは、攻撃を自制する必要があればこれも忍耐する。不屈の忍耐である。だが軟弱な者の場合、軽蔑され卑怯だといわれても、恐怖に支配されつつ、侮蔑・嘲笑の眼に忍耐する方を選ぶ。戦う勇気をもてず、尻尾をまいてする卑屈の忍耐もある。
 卑屈な忍耐も、慣れれば平気になってもいく。鈍感になる。自身をおとしめ傷つける悪徳と言ってもいいような忍耐となる。いじめられて我慢するだけでは、おそらく、一層のいじめをもたらすだけとなり、会社でのそれでは、過労死も生じるような悲劇をもたらすことともなる。不当な事には忍耐などせず、苦痛をわめき散らし「助けて」と大声をあげて逃げ回り、あるいは忍耐するのなら、いじめを排除して戦うことにと忍耐力はまわす必要がある。
 戦うべきところで、逃げる手として忍耐をつかえば、卑劣な卑屈な忍耐となる。そこでは、勇気をだし知恵を出して戦う必要があり、泣き寝入りの卑屈の忍耐を選んではならない。いじめが多い社会であるが、暴力などの犯罪には躊躇せず、転校とか転職も考え、あるいは警察沙汰に出来るよう工夫をするとか、裁判に訴えるとかの手間にと忍耐は使用されるべきだろう。身近な者に心配かけてはと黙ってこれを我慢もするが、我慢するところを間違えている。


忍耐は慣れて平気になるとしても、それがいいとは限らない

2018年09月07日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-4. 忍耐は慣れて平気になるとしても、それがいいとは限らない
 忍耐は、苦痛にするが、それに慣れると苦でなく平気になるものがある。忍耐無用となるが、かならずしもそれが生にプラスになるとは限らない。本来、苦痛は、生に損傷の生じていることを知らせるものである。苦痛に慣れるといっても、その損傷はそのままに続いている可能性もある。あるいは、悪には慣れれば平気となり、忍耐など無用となる。だが、悪は、悪として持続しているのである。悪に慣れるよりは、悪に対して嫌悪しこれを苦痛とする方がましであろう。塩からいものに慣れていない場合、はじめは我慢して食べることになろう。だが、すぐに慣れて平気になり、のちにはそれが快楽とすらなる。慣れれば、何事も、これが普通のことになる。慣れない方が好ましいこともある。悪いことには未熟にとどまる方がよい。
 過労死は、さんざんに酷使され忍耐させられ通しで、最後、死にいたる、いうなら忍耐死である。忍耐させられて慣れてくると、過労にも鈍感になり、心身がくたくたになっても、これを続けて行ける。ついには、身体が追いつけなくなり、死に到る。忍耐する姿勢自体は尊いけれども、それが貪欲な経営者によって使い捨ての従業員として利用されているだけだとすると、惨めな死である。
 もちろん、使命感を抱かせられるような充実した仕事もあり、その辛苦が社会の危機を救う尊いものであれば、その忍耐はいきる。この夏、タイ北部の洞窟に閉じ込められた13人を救出しようと駆けつけたダイバーの一人が、過酷な長時間の作業の途中で死亡した。覚悟しての志願で尊い犠牲であった。だが、そうではない忍耐が多い。現代日本の過労死は、経営者に使い捨てされるだけの愚かしい忍耐である。忍耐は、自分を犠牲にする非常の手段である。無意味、愚かしい忍耐と分かったら、即刻その忍耐は中止しなくてはならない。