1-6-5. 忍耐には、賢く関わりたいもの
忍耐は苦痛を注視しているが、それ以外のことは、お留守になりがちである。大きな忍耐つまり大きな苦痛ほど、苦痛だけにとらわれて、他を見る事ができなくなる。忍耐は、反自然であるから、放置しておいてうまくいくものではない。状況を熟知し大局を忍耐のそとから見ていないと、愚かしいものになってしまうこともある。忍耐は、すればいいというものではない。反忍耐、苦痛回避こそが必要な場合もしばしばである。おそらくはそれがほとんどで、わずかの場面で忍耐という反自然の苦痛甘受が有効なのである。苦痛の受け入れは、例外として有意義なのであり、圧倒的には、反忍耐、つまり自然にしたがうこと、苦痛排除が正解であろう。苦痛になるようなことは避け、快適さを求める反忍耐が日々の生活では圧倒的である。
忍耐は、苦痛甘受以外にはなにもないのであれば、犠牲があるだけである。「骨折り損」だけである。忍耐に意味があるのはその犠牲を手段として目的・結果にすばらしい価値が獲得可能となる場合のみである。あるいは、大きな忍耐から逃避しての小さな忍耐で自らを欺くこともあろう。その犠牲と目的をしっかりと把握して大局を見定めていないと、愚かしい忍耐となりかねない。
忍耐は犠牲をつねにともなう。等価交換を世の原理と見る者は、犠牲のマイナスに匹敵するプラスが忍耐をもって約束されると思い勝ちである。あの世での至福のためにと現世で辛苦の犠牲を前払いしようというひともいる。だが、辛苦の前払いは確かにしたのだけれども、来世の至福は現世にはなく、夢・幻想である。あの世がなければ、至福は詐欺である。忍耐の犠牲は、かならずしも報いが得られるわけではない。賢くかかわらねばならない。