消極的快楽と積極的快楽

2010年06月26日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
2-3. 消極的快楽と積極的快楽
 欲求は、その充足で緊張を解除し、弛緩する。この弛緩は快い。我慢していた尿意を充たし解放したときの快感である。しかし、緊張の不快の消失、いうなら無の快楽が快のすべてではなかろう。食の快楽は、満腹感は空腹(不快で緊張)からの解放となるところがあるが、味覚と触覚をもってする喉越しの快感は、無の快楽とはちがう。あまいものへのおいしさの快楽は、積極的な刺激をもってのもので、いわば有の快楽ということができよう。悪臭を無化した無臭のさわやかな快ではなく、金木犀やジャスミンの香をかいでこれにうっとりとしこの香りの存在に陶酔する快である。
 知的反省的な快の代表であろう「幸福感」には、一方で、苦悩がなければ、それで幸福だという消極的なものがあり、他方に、豊かな恵みを得ての積極的な幸福がある。快一般に、そういう二面が見出せる。不愉快な刺激のない安らぎ、無の快楽と、もう一つは、積極的に心地よく刺激してひとを魅了する、有の快楽である。水は、のどの渇き(苦)を癒してくれる無の快楽であるが、それは、また、有の快楽でもある。水は、味覚としては無だとしても喉越しにいだく快では、空気を飲み込むのとちがい喉の触覚に手ごたえがあり有の快楽を抱く。

主客合一の陶酔

2010年06月19日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
2-2. 主客合一の陶酔
 欲求は、不快な緊張状態にある。欲しいものへと意識を向け緊張する。その欲求の充足は、この不快な緊張を解除し、快をもたらす。欲求の欠乏意識を、充足によって無化させ、満ち足り、安らいだ状態となる。
 快楽状態にうっとりとするとき、「心を奪われる」という。自分の心(意識)が、その快の対象や状態に魅了され、陶然としてこれに一体化して自他無区別状態になって、奪われる。それは、自身からいうと意識が無化し、恍惚としてまどろみ、眠りの無意識に近くなっていくのである。まどろみは、目がとろんとし、蕩けて、意識が働かなくなった状態であろう。心地よく満ち足りて豊かな安らぎの無に我を忘れて陶酔する。
 不快の欲求不満の状態では、その対象をしっかりと客観として意識し、突き放し、脅かす不快なものに注目し注意を怠らない。快の状態は、その反対で、快の対象と一体的になり、あるいは快の主観的状態にとっぷりとひたってこれを堪能する。つまりは、そとへと向かう対象意識を消失させ、意識は、まどろみ、注意警戒するその部分を眠らせる。
快楽に魅了され恍惚とまどろむところには、警戒心はない。快楽の享受は、無防備が許されないところでは、安全の確保に支障がないようにと制限される必要がでてくる。不快・不満なら、その現在を克服して未来に向かうが、快楽は現在に自己を引き留め、満ち足りて閉じこもる。未来へと意識を駆り立てることもない。快をほどほどにして、という節制が必要となる。

快い物事を得て(価値判定)、心地よくリラックス(心身反応)

2010年06月12日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
2-1. 快い物事を得て(価値判定)、心地よくリラックス(心身反応)
 感情は、関与するものへの主体の価値判定とそれへの心身の反応の二面からなる。例えば、怒りは、その対象に対して、気障りとの価値判定をし、懲罰を加えようという心身の反応・態度をつくる。喜びの感情は、自己が新規に価値あるものを獲得したとの価値判定をし、有頂天になって勝利確定の態度をとり、あまったエネルギーを放出する等の反応をもつ。気障りだとか、新規の価値獲得だと冷静に思うだけでは、感情にはならない。それらへの心身の反応(特に身体の反応)が不可欠で、攻撃的に構えて怒りの感情となり、勝利の構えを作って喜びの感情となる。
 快の感情は、価値判定としては、自分に具合がよい、生を促進するような好ましいプラスの物事が生起し、あるいはマイナスの事態の除去がなっていると見なしているのである。そして、態度・心身の反応としては、この生促進の好都合な状況に緊張解除して安らぎ充足して、これにのめりこみ、これと距離をなくし一体的になろうとしているものであろう。快は、生に有益と判じて、これに一体化し安らぐのであり、不快は、有害なものを感じて、これを排除しようと反応する。すべての感情は快不快の二系列のどちらかに分けられる。その生にとって価値があり生促進の好都合なもの(快)か、反価値で不都合なもの(不快)かになる。
 食欲の場合、快は「おいしい」となり、不快は、「まずい」ものとなる。いずれも大切な反応である。栄養物として取り入れたいのが「おいしい」ものであり、有害・有毒で受け入れ拒否したいのが「まずい」ものである。
 性欲の場合、快楽は、生といっても個体にとってではなく種のレベルでの生の促進に好都合ということになる。異性生殖のはじまった初期には、快をもたない個体もあっただろうが、そういう個体は当然子孫を作ることがなかった。快をいだく個体のみの子孫が残るという淘汰が何億年とつづいてわれわれに到っているのである。ここでは、反対の「不快」は、顕著ではない。異性生殖なので、別々の異なる存在となっていて、もともとが分離し排除的な状態にあるからである。仮にひとがアメーバのように自己分裂で増殖するようになっているのだとしたら(異性生殖での母体からの出産も、遡れば、始原はこれであろう)、食欲の不快と同じように、生殖にともなう不快感情も強烈なことであろう。自己内に生じた不快な異物の排除が生殖となり、分裂を達成しての解放感が快楽となる。

快楽は、感覚ではなく、感情である

2010年06月05日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
2. 快楽は、感覚ではなく、感情である。
 快感としての「おいしさ」とか「気持よさ」は、その由来する感覚的なものが異なり、快楽の具体的なありようは異なるが、おなじ「私」が好ましいと感じる同一の快感である。欲求の充足感としての快は、緊張や不充足の不満から解放された安堵の心的状態であり、その充足状態に、とりこになり、これにとけこみ忘我的に一体化し陶酔しているのである。
 苦味に「まずいのなんの」と思うときには、しかめ面をし、時には嘔吐感をもよおしてこれを排除したいと思う。苦味の味覚はそれ自体は、「まずい」とはならず、「ほろ苦くて、おいしい」ともなる。酸味や苦味の味覚につづいて、「嘔吐しそう」「口がまがりそう」とこれに反応するときに、「まずい」不快なものとなる。感覚内容を価値判断して、これに私が心身で反応するとき、感情となる。
 「おいしさ」も、甘い物・うけいれたいものをのどに飲み込み、もう完全にわがものになったというその充足状態に心身全体で反応するものであろう。私が、おいしく感じるのであって、舌やのどが甘さとともにその部位自体でおいしさをいだくものではない。「うまい」「おいしい」は、感覚(味覚・触覚・嗅覚)を踏まえての感情的な快反応である。脳の生理でいえば、甘さなどの味覚は、舌の味覚細胞に発した電気信号を脳が感受した状態であり、おいしい、気持ちいいの快感は、それらの刺激をふまえて脳内で快楽神経(A10神経あたりが)が脳内麻薬様物質を分泌したり、弛緩の反応を身体へ命令しているのである。
 「暖かさ」の場合も、同様で、暖かいのは足先であっても、私が「気持いい」のである。感情は、私のいだく、心身全体からする反応である。暖かさは足の温覚に感じる感覚内容であるが、それを踏まえて反応して「気持いい」と思うのは、私である。暖かさの感覚は足に発して私にとどき、それへの快楽の感情的反応は、私に発して四肢の筋肉を緩め、私が全身で反応する。