忍耐しても、させられても、忍耐しなくても、痛むものは痛む

2017年04月28日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3-1-1. 忍耐しても、させられても、忍耐しなくても、痛むものは痛む
 忍耐は、苦痛に従うことをもって、これを支配し自由にする。だが、忍耐するからといっても、その苦痛自体は、痛むことには、なんら変りはない。忍耐は、苦痛をあるがままに甘受するのである。もちろん、「忍耐させられ」ても、痛みは同様で、かつ「忍耐しない」場合も、自然に放置したままでは、その痛みは、同様に痛みつづける(もちろん、忍耐しないということで苦痛を回避できる場合は、忍耐する、させるとちがい、痛みはなくなる)。
 麻酔をする場合は、苦痛は変わり消失するが、忍耐は、この痛みを消失させることはない。もちろん、痛みを求めているのではなく、これを踏み台・犠牲にして、そのうえに目的を実現することを求めるのである。したがって、痛みは目的実現とともになくなる。自然になくならない場合は、目的達成の時点で、痛みを回避する動きにでる。だが、忍耐する限りの状態では、痛みを甘受するのであり、痛みを回避せず、これに面と向かいあい、痛むがままを無抵抗に従順に受け入れ続ける。
 痛みに忍耐「する」、「しない」、「させられる」について、痛みは主観のうちにあるものであれば、その主観の在り方によっては、若干は痛み方が変わることはありうる。忍耐しないで騒げば、騒ぎに意識をもっていくから、痛みは少しは気にならず痛み方は小さくなろうか。騒がず忍耐する場合は、ありのままの苦痛がそこには続くであろう。忍耐させられる、強要される場合は、強要という嫌なことを加算するから痛みはその強要しだいで大きく感じることになろう。その強要が自分の力をためすためにあるという場合は、「なんのこれしきの痛み」とやせ我慢することになりそうで、小さめに痛みを感じようとするかも知れない。
 精神的な絶望とか悲嘆の場合は、これを忍耐する気になっているのと、そう強要されるのと、忍耐しないのとでは、その痛み・苦しみは、かなり異なってくることもありそうである。すべてがひとつの精神のうちでの成り行きであり、思い方ひとつで、絶望や悲嘆のつらさは、(愛しい者の死も、天国に召されたのだと忍ぶことができれば)消失可能ともなる。


しても、させられても、忍耐は忍耐

2017年04月21日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3-1. しても、させられても、忍耐は忍耐
 ボランティア(≧志願兵)は、させられる強要・強制のばあいは、単なる強制労働・奴隷労働にと変質する。ボランティアの言葉自体が志願・自発の意味でなりたっているから、志願しない志願という矛盾したものになるというか、志願・自発の意味を失い、反志願の強制に全体が塗り替えられる。自発的であれば、楽しい奉仕のボランティアであるが、同一の労働であっても、強制で奉仕させられる場合は、苦痛の奴隷労働になる。 
 だが、忍耐は、強制され「忍耐させられる」ものであっても、忍耐である。強制・強要は忍耐という質を変えない。もともと、どんな忍耐も自分(その感性・欲求)への強制をもつ。その強制の質や量が異なっても忍耐自体にはあまり影響がない。忍耐であるか否かは、自分のうちで苦痛を甘受することになっているかどうかである。これが忍耐の肝心要め・要件である。こどもが、嫌いなニンジンを食べるようにと親から強制されることがある。涙を出しながらこどもは「忍耐する」が、当然、忍耐したいわけではなく「忍耐させられる」のである。忍耐は、させられても、しても忍耐である。
 忍耐は、自身で苦痛を甘受するという自発的な決意をして、苦痛に抵抗せずこれを受け止める姿勢である。自分のうちの苦痛(感情)が相手であり、これを自身が受け入れる意志を貫徹するのである。その「忍耐する」ことをそとから強制されるのが「忍耐させられる」である。この強制があっても、自身が自発的に自分のうちの苦痛について受け入れる決意をしないと忍耐は成立しない。忍耐することを拒絶して抵抗し自暴自棄になって暴発して自滅する道も可能である。それをしないで、忍耐がなるのである。最後のところは、自分の受け入れの自発性があっての忍耐である。強制されるものも、最後の一歩は自分の自発性があって、やむをえない、しかたないと、「忍耐する」のである。忍耐させられる場合も、忍耐するのである。幼児は苦い薬を忍耐しない。口にもっていっても受けいれず吐き出す。忍耐は、忍耐する気でないと、忍耐させられない。


反自由としての忍耐-強制・強要の「させられる」忍耐-

2017年04月14日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3. 反自由としての忍耐-強制・強要の「させられる」忍耐-
 忍耐は、苦痛を甘受し自由にできる。だが、苦痛は、自然的には回避し排除したいものであり、これを甘受するという場合も、当然、内心においては、そういう排除欲求をもっている。好き好んで苦痛甘受の忍耐をしているのではない。少なくとも、自身の感性・欲求には受け入れがたいものを、(自発的であっても)無理やりに自分に強制しているのである。忍耐が自由(反強制)だと規定されることには、納得しにくいものがありそうである。快不快の自分の感性は、その自由を束縛され抑制された不自由状態にあるのである。
 さらには、奴隷、強制労働での忍耐のように、自身の理性自体にも、その苦痛と忍耐は、受け入れがたい強制されたものであって、自由などとんでもないという場合もある。理不尽なことを我慢させられることは、しばしばある。理性的に納得のいかない強いられた忍耐がある。忍耐は、自発的にするというより、「忍耐させられる」ことが多い。奴隷や農奴は、その支配者によって無理難題の忍耐を強いられてきた。自由ではなく、理不尽な強制・強要になる忍耐がいくらでもある。
 暴力団に脅されてお金を出すことを強要されるとか学校でいじめに耐える場合、自由な忍耐などとんでもないと言いたくなろう。だが、ここにも、自由というか自発性は存在している。暴力をふるう側は、犬や猫をいじめるのとちがい、忍耐している者について、自分自身で意志して忍耐を選択しているとみるはずである。耐えているが忍耐をやめて、「窮鼠、猫をかむ」で、反撃されるかもとか、「耐えるのをやめて、自殺などされてはかなわない」と内心では躊躇するようなことがありうる。苦痛を「忍耐させられている」としても、「現時点では反撃は無理だ、やむをえない」「いずれ倍返しをしてやる!」と、その苦痛に一歩距離をおいて、それへの忍従を自発性をもって受け入れて「忍耐する」のである。
 


ひとの自然超越の忍耐は、隷従して支配する自由

2017年04月07日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-2-6. ひとの自然超越の忍耐は、隷従して支配する自由
 忍耐は、苦痛に抵抗せずこれを従順に受け入れるが、苦痛と有害なものを自身に受け入れるのだから、その限りでは愚かしい対応になる。だが、忍耐する精神は、有害な苦痛を受け入れ、これを手段・犠牲にと踏み台にすることをもって、それを凌駕する価値あるものを獲得しようというのである。ひとの忍耐は、そういう見通しをもって、手段・犠牲として苦痛を受け入れる。よく言われるように、自然は、これに従うことをもって、支配可能となる。苦痛の自然にまずは隷従してこれに耐え、その忍耐を通してのち、これを支配し自由にする。ひとは、奴となることを通して、主となるのである。 
 苦痛甘受を踏み台にして精神的人間的世界へと飛翔し、自然から自由になるのであるが、ひとの忍耐は、その自然状態を破壊して捨て去って自由になるのではなく、これを生かし続ける。苦痛を、麻痺させることなく苦痛として受け入れる。欲求なら、必要な抑制が終わったらこれが働くことのできる状態に維持している。忍耐は、欲求と苦痛をそのままに逆らわず受け止め、従順でありつつ、これを制御し支配するのである。
 忍耐での自然への従属と支配(自由)の一番の特色は、苦痛についてである。苦痛を前にすると、通常は逃げたり排撃したりする。だが、忍耐するひとは、苦痛刺激とそれのもたらす抑うつ・不安等に少しも逆らわず隷従し、奴隷的な苦痛から逃げないで耐えていく。そのことで苦痛の事態を手元において、これを自分の大きな目的の手段に組み込みこれを踏み台に利用していく。苦痛を支配して自由にするのである。忍耐するひとは、苦痛から逃げずこれの奴隷となることをもって、この苦痛の自然をわがものにするに到る。あえて、つらい奴となり忍耐することで、やがて主にと成り変わっていくのである。