goo blog サービス終了のお知らせ 

「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

このブログ廃止で、以下に移る予定
https://yoshikikondo2.livedoor.blog/

5. 苦痛の価値論Ⅲ-苦痛は、主体の能力を創造する-

2025年08月20日 | 苦痛の価値論
5. 苦痛の価値論Ⅲ-苦痛は、主体の能力を創造する-
 (以下、考察中 9月下旬から再開予定)

*このgooBlogの11月閉鎖の予告に変更がない限り、続きは、新規のlivedoorBlogで再開する予定です。9月下旬から始めるつもりです。以下のアドレスになります。https://yoshikikondo2.livedoor.blog/

*なお、ここに書いてきたもののほとんどは、そのテーマの論考としてBloggerにまとめております。以下になります。https://hiroshimakondo.blogspot.com/)

愚かな忍従・屈従でなく、理性のもとの誇れる忍耐を!

2025年08月19日 | 苦痛の価値論
4-8-6. 愚かな忍従・屈従でなく、理性のもとの誇れる忍耐を!  
 忍耐の評価・価値づけについて、一番問題になるのは、おそらく、その忍耐が善にも悪にもなることであろう。忍耐は、すればいいというものではない。強者が弱者をいじめることについて、後者はしばしば屈して忍耐する。こういう忍耐は、愚かしいことで、強者に抵抗し、知恵を働かせて強者を排撃する苦難の戦いにこそ忍耐をまわすべきこととなる。忍耐は、包丁やハサミと同様、使いようしだいである。警察にも泥棒にも忍耐は必要で、泥棒の忍耐は、悪を大きなものにする悪しき忍耐になる。
 我慢・忍耐というと、強要・横暴等に泣き寝入りし耐えよということを思うかもしれない。それも時には必要だが、真の尊厳をもった忍耐、苦痛の甘受は、しっかりとした善目的のために手段として役立つものでなくてはならない。歴史の大半は、一般良民が横暴な支配者に忍従し続ける歴史であった。その被支配者の道徳は、「長いものには巻かれろ」であり、従順に過酷な支配に耐えよ、牛馬のように酷使に耐えよというものであった。だが、人の忍耐は、理性のもとに、高く目的を掲げてやむを得ない手段として苦痛を耐えることである。目的をしっかりとたてて合理的に犠牲を払うものでなくてはならない。非人間的な支配・搾取に対しては、猛然と戦い、殺害にも耐え忍んでいくことであろう(場合によっては、「韓信の股くぐり」のように周囲の嘲りを忍びつつ抵抗せず従順の装いをもって屈従に耐えることが必要なこともある)。忍耐では、ひとは、その固い意思しだいでは、なにものにも負けることはない。腕力では負けることがあるが、忍耐は、自分の苦痛に耐えることだから、かりに拷問で殺害されても、死んでも、忍耐は貫徹できる。自身で自身の苦痛に屈することがないなら、忍耐する意志は、負けないで、貫かれる。
 忍耐は、その目的がしっかりしていないと、単に苦痛を忍従するだけで、しばしば骨折り損のくたびれもうけに終わってしまう。奴隷が残忍な支配者のために寿命を縮めて酷使に忍従・屈従するのは、自身にも周囲の同僚にも、悪しき忍耐となるであろう。冷酷な支配者には、反乱を起こすような困難に耐え抜いてこそ、生きた忍耐となる。目的を高くかかげてのものでなくては、忍耐は生きない。忍耐は苦痛を甘受するだけである。手段である。その先の目的を高く掲げるのでないと、忍耐は、鞭打たれて従順なロバや馬に留まる。支配者をほくそ笑ませる奴隷道徳となる。人間らしい尊厳をもった忍耐を可能にするのは、理性である。自身の英知をしっかりと働かせ、周囲の知恵に耳をかたむけ、無謀にならず、目的を真に達成できるようにと工夫してこそ、忍耐は、ひとの尊厳にふさわしいものとなる。冷酷無残な支配者に猛勇をもって抵抗するだけでは、おそらく、うまくはいかない。理性をもって、そこにふさわしいやり方を工夫し、ときには、時機ではないと、過酷な労働や弾圧に、非暴力をもって忍従し、あるいは、従順を装う屈辱に、周囲の嘲笑に、耐え続けることが必要かも知れない。長期の展望をもって、時を待って、反乱を起こすことになるか、それができないなら、逃亡の手立てを画策するといった狡知を働かせての、そこで冷静に思慮して必要な忍耐をしていくことが、ひとの崇高な忍耐となる。
 「馬鹿とはさみは使いよう」という。忍耐は、その馬鹿であり、危ないはさみである。忍耐は、苦痛を受け入れるだけであり、物事を思慮することは忍耐そのもののうちには含まれていない。理性がしっかりした忍耐でないと、その忍耐は、馬やロバに、馬鹿にとどまり未意味な骨折りをするばかりである。良識を欠いたやたらな忍耐は、ときには、悪用がされて危険な利器ともなる。悪の実行には、周囲・被害者からの抵抗が当然あるから忍耐が必要であり、それの先兵に忍耐のなることがある。忍耐は悪用される強力な武器となる。そうなることを抑止して、善用の鋭利なはさみになるには、目的をしっかりとかかげた理性の制御が必要である。馬鹿な骨折り損を阻止して、高い目的を実現していくには、理性的なリードをもった忍耐となっているのでなくてはならない。  

苦が快に、快が苦に変わることもある  

2025年08月12日 | 苦痛の価値論
4-8-5-1. 苦が快に、快が苦に変わることもある
 はじめは苦痛であるものでも、これを反復するなかで、慣れて、苦痛でなくなり、場合によると、快になることがある。現代音楽は、これに慣れていないものには、はじめは不快で苦痛になる。だが、バックミュージックなどで聞かされることが重なると、耳が慣れてきて、苦痛でなくなり、さらには、これを快として聞きたいものになることもある。食べ物のなかには、はじめは腐敗臭がきつくて、不快苦痛であるものが、慣れると特に臭いはどんなものもすぐに消えることでもあり、気にならなくなって、美味がもっぱらとなり、苦痛でなく、快となる。
 逆もある。浪曲は、古い世代のものには、心地よいものであったが、長い間聞いていないと、不快なものに成り変わった。あるいは、心地よい音楽でも、同じ曲の反復は、次第に快でなくなり、ついには、不快になることもある。感性で聞く歌(メロディー)は、それでも反復して楽しむが、知性は反復自体を「くどい!」と嫌うので、それの歌詞だけは、二番三番と内容を変える。苦痛は、知性にも感性にも、一度目からして十分に嫌悪され、反復は、いよいよもって嫌悪される。そのたびに、苦痛である。苦痛は、快とちがい精神的レベルでも感性レベルのもの同様に大きな負担である。いずれの苦痛も慣れて対処法がうまくなっていけば、多くの場合、嫌悪の度合いは小さくはなってくるが、過敏になる類のものでは(暴力団とか害獣・害虫への体験者の怯えなど)、反復する苦痛に一層耐えがたくなることもある。
 ひとの生の適応能力は、高い。苦痛でも、これが生に必要なものであれば、やがてこれに慣れて苦痛ではなく、日常のもの、正常なものと受け止めていく。さらには、これに適応すべきことであれば、これには快を抱くようにも変わってくる。勉強は、こどもには、はじめは、苦痛であることが多かろう。だが、これが日常のことで慣れるべきことと分かってくると、それをごく正常の営為とうけとめ、やがて、興味あることを発見するなどして、おのずからに楽しいものにと変えていく。はじめはいやな義務であったものが、やがて楽しい享受したい権利となっていく。家業なども、はじめは嫌で苦痛であるものも、だんだん慣れて、それを逃れることは無理だと諦念すれば、生きがいのあるようにと、これに打ち込むように心構えを変えていく。家業を楽しいものに受け止められるようにと自分を変えていく。
 苦痛はこれに慣れてくると、苦痛でなくなることが多いが、快も、これに慣れてくると、これが当たり前となって、快感を刺激するに不足するようなものになり、快でなくなる。ひとは、だんだん贅沢になる。同じものでは、満足できなくなる。獲得したものは、これに慣れて当たり前になると、より価値あるものを得るのでないと満足できなくなる。音の愛好家は、より良い音を求めてアンプやスピーカーを買い替え、ついには電線にまでこだわり自宅の敷地に電信柱を立てる。食でも、はじめは美味と感じて喜んでいても、これが普通のことになり、繰り返されると、不味くは感じないとしても、美味しさの快楽を充たすものではなくなる。ただし、食の場合、慣れていてこそ美味しいというか、持続して味わいたいものになるものもある。主食の米は、安心できる食べ物として、基礎的食欲を充たすものとなり、これには飽くことがない。中毒のようなものになっている場合もある。それが不足すると無性に欲しくなるのである。日本人にとっての米はもちろん、味噌汁とか梅干し類は、そういうものになる。

苦痛の蓄積と変容

2025年08月05日 | 苦痛の価値論
4-8-5. 苦痛の蓄積と変容
 忍耐、苦痛の甘受は、目的達成で終わるが、それ以前でも、途中で、苦痛が大きくなって甘受できなくなり忍耐できなくなると、これを中断することになる。長く続く苦痛甘受の場合は、可能なら細切れにしてこれを断続的にする。苦痛甘受を中断することなく持続させる場合、疲労を蓄積し損傷を大きくして生が自身で回復できる限度を超えることになる。生のラディカルな破壊となる。だが、これを休息という中断を入れながら、損傷からの回復を行いながらであれば、どこまでも苦痛甘受を反復することが可能となる。労働者は、日々、苦労を重ねて、一日の労働時間内では苦痛を蓄積するが、それを終わったら心身を休めて疲労を解消し、力を回復して、また翌日は労働を行うことができる。それを何十年と繰り返す。レジリエンスという言葉を最近よく聞く。しなやかで弾力性をもって元の正常の状態に回復する力であり、疲労・ダメージから元の元気な状態を取り戻すことのできる生来の能力を指す。これが言われるのは、その限度内の疲労にとどめるべきだとの警告でもある。
 苦痛は、損傷を示す。損傷・ダメージをなくすることができれば、苦痛は止む。スポーツでは、猛練習にはじめは苦痛をいだき、筋肉も痛む状態になる。だが、しだいにそれが普通のことになって平気になる。筋肉は、損傷を受けても、回復時に、より強い筋肉にと再生するという。そうなるとそれまでは苦痛になっていたことが苦痛でなく、筋肉破壊となる限度以内の通常の練習となる。特訓では、さらにこれを強化して、強くなった筋肉にも苦痛となるような負荷を与える。その苦痛からの回復で一層筋肉は大きくなって、同レベルの負荷など苦痛でも損傷でもなくなる。労働では、慣れないはじめは、段取りもわからず、体もうまく使えず、疲労をためやすく、辛苦の度合いが大きいが、仕事に慣れてくると、平気になってくる。それでも、長時間にわたっての仕事となれば、疲労も蓄積して、辛苦・労苦と表されるものになる。長短の休息を入れて、疲労からの回復をはかる。
 過労死は、レジリエンス・回復力の限度を超えて過労となり、疲労が蓄積して、それを続けることで、ついには身体全体が回復不能のダメージを受けて、死に至るものであろう。この場合、苦痛に耐えられなくなるのではなく、その原因の損傷が過度になり生維持を不可能としてしまうのである。損傷が深くなり、苦痛の感覚さえも破壊してしまう。生は鈍感になり無感覚にすらなって、苦痛への回避衝動、逃走衝動といった自然的反応ができなくなってしまうようである。過労死では、大きな心身の損傷があっても、感覚も困憊して鈍感に麻痺状態になる。苦痛を苦痛と受け止められる生の正常なあり方が、損なわれてしまう。その疲労・苦痛の限度内での忍耐の反復なら、生は適応能力を高めて一層大きな力を発揮できるのであろうが、忍耐の限度を超え、苦痛の感受能力を麻痺させるような過度の状態を続けると、健康な状態への回復が不可能になっていく。

苦痛の成果の贈与・強奪・交換

2025年07月29日 | 苦痛の価値論
4-8-4. 苦痛の成果の贈与・強奪・交換      
 苦痛を手段としてなる目的、創造された価値は、価値である限りは、これをもって特定の欲求が充足されるものになる。その創造された価値物が欲求と直に結ばれているとは限らない。しばらく手元において徐々に充足するために備蓄しておくこともあろう。あるいは、ひとに譲ったり交換したりする価値ともなる。
 自身の苦痛甘受の手段をもって得た目的としての価値は、単純には、即これを消費して欲求を充足する。動物でもときに苦痛甘受をもって目的となるものを得ようとすることがある。熊は、蜂に刺される苦痛を感受しつつ蜂蜜を堪能する。だが、多くの場合は、苦労の手段と、これを消費する目的との間には、時空間的な距離をつくる。苦労して生産したものは、保存して、必要に応じて取り出して利用する。動物でも、リスなど冬のために、どんぐりを埋めて保存する。 
 あるいは、自身の辛苦の生産の結実は、自身が消費するのではなく、家族のためにということもある。いうなら贈与である。家族ということでは、一体の、もう一人の自分のための消費とみなされるのが普通であれば、贈与とは、いえないかも知れない。贈与は、価値ある物を他者へ無償で譲ることであろうが、わが子のためなら、自分以上の自分という一体的なものへの供与である。哺乳類や鳥類は、基本的に子供を保育して類の再生産を行うから、わが子は、もう一人の自分以上に大切な自分ということになり、親は、苦労して獲得した価値物を真っ先に子が消費することにまわす。人間の場合は、さらに、自分の親にも親孝行ということをする。自身の辛苦の成果を親にも分ける。余裕があればであるが、余裕がなくても、親は、自分を差し置いても、子にまわす。
 苦痛甘受の成果は、その苦痛を引き受けた者が創造したものであれば、かれに帰すのが本来であろう。だが、その個の創造したものは独立した物となるので、直ちに消費されるものでない場合、他人のものになっていくこともある。極端には、強奪される可能性も出てくる。動物ではしばしばこれが生じる。狐は、苦労して捕ったウサギであっても、獰猛なハイエナに見つかったら、これに譲る。これは、不当なことではあるが、弱肉強食の自然では、普通の営為であった。古くは、結構、一般的に人類も行っていたことである。 
 弱者と強者の間では(合法・非合法の)強奪が多かったろうが、強者と強者の間では、強奪は、成り立ちにくい。だが、そういう相手の創造したものも欲しい。これを穏やかに可能にする形式がある。価値物の交換である。同じく苦痛を手段にし犠牲にして創造したものについて、自分らには使用価値はないが相手にはあるという状況では、自分の苦痛の創造したものと他者が自身の苦痛で創造したものを、その苦痛の量を同じにして取り換えれば、いずれにも損なしで、使用価値のあるものを互いが享受できることになる。物々交換・商品交換である。自分が他者の苦痛を引き受けることで、相手が同量の別の苦痛を引き受けるということも可能であろう。自分が荷物運びの辛苦を引き受けるので、同量のたとえば掃除の苦労を引き受けてもらうという、苦痛と苦痛の直接的な交換である。物と物の交換も根本的には自分の苦痛と他者の苦痛の交換ということである。