4-8-6. 愚かな忍従・屈従でなく、理性のもとの誇れる忍耐を!
忍耐の評価・価値づけについて、一番問題になるのは、おそらく、その忍耐が善にも悪にもなることであろう。忍耐は、すればいいというものではない。強者が弱者をいじめることについて、後者はしばしば屈して忍耐する。こういう忍耐は、愚かしいことで、強者に抵抗し、知恵を働かせて強者を排撃する苦難の戦いにこそ忍耐をまわすべきこととなる。忍耐は、包丁やハサミと同様、使いようしだいである。警察にも泥棒にも忍耐は必要で、泥棒の忍耐は、悪を大きなものにする悪しき忍耐になる。
我慢・忍耐というと、強要・横暴等に泣き寝入りし耐えよということを思うかもしれない。それも時には必要だが、真の尊厳をもった忍耐、苦痛の甘受は、しっかりとした善目的のために手段として役立つものでなくてはならない。歴史の大半は、一般良民が横暴な支配者に忍従し続ける歴史であった。その被支配者の道徳は、「長いものには巻かれろ」であり、従順に過酷な支配に耐えよ、牛馬のように酷使に耐えよというものであった。だが、人の忍耐は、理性のもとに、高く目的を掲げてやむを得ない手段として苦痛を耐えることである。目的をしっかりとたてて合理的に犠牲を払うものでなくてはならない。非人間的な支配・搾取に対しては、猛然と戦い、殺害にも耐え忍んでいくことであろう(場合によっては、「韓信の股くぐり」のように周囲の嘲りを忍びつつ抵抗せず従順の装いをもって屈従に耐えることが必要なこともある)。忍耐では、ひとは、その固い意思しだいでは、なにものにも負けることはない。腕力では負けることがあるが、忍耐は、自分の苦痛に耐えることだから、かりに拷問で殺害されても、死んでも、忍耐は貫徹できる。自身で自身の苦痛に屈することがないなら、忍耐する意志は、負けないで、貫かれる。
忍耐は、その目的がしっかりしていないと、単に苦痛を忍従するだけで、しばしば骨折り損のくたびれもうけに終わってしまう。奴隷が残忍な支配者のために寿命を縮めて酷使に忍従・屈従するのは、自身にも周囲の同僚にも、悪しき忍耐となるであろう。冷酷な支配者には、反乱を起こすような困難に耐え抜いてこそ、生きた忍耐となる。目的を高くかかげてのものでなくては、忍耐は生きない。忍耐は苦痛を甘受するだけである。手段である。その先の目的を高く掲げるのでないと、忍耐は、鞭打たれて従順なロバや馬に留まる。支配者をほくそ笑ませる奴隷道徳となる。人間らしい尊厳をもった忍耐を可能にするのは、理性である。自身の英知をしっかりと働かせ、周囲の知恵に耳をかたむけ、無謀にならず、目的を真に達成できるようにと工夫してこそ、忍耐は、ひとの尊厳にふさわしいものとなる。冷酷無残な支配者に猛勇をもって抵抗するだけでは、おそらく、うまくはいかない。理性をもって、そこにふさわしいやり方を工夫し、ときには、時機ではないと、過酷な労働や弾圧に、非暴力をもって忍従し、あるいは、従順を装う屈辱に、周囲の嘲笑に、耐え続けることが必要かも知れない。長期の展望をもって、時を待って、反乱を起こすことになるか、それができないなら、逃亡の手立てを画策するといった狡知を働かせての、そこで冷静に思慮して必要な忍耐をしていくことが、ひとの崇高な忍耐となる。
「馬鹿とはさみは使いよう」という。忍耐は、その馬鹿であり、危ないはさみである。忍耐は、苦痛を受け入れるだけであり、物事を思慮することは忍耐そのもののうちには含まれていない。理性がしっかりした忍耐でないと、その忍耐は、馬やロバに、馬鹿にとどまり未意味な骨折りをするばかりである。良識を欠いたやたらな忍耐は、ときには、悪用がされて危険な利器ともなる。悪の実行には、周囲・被害者からの抵抗が当然あるから忍耐が必要であり、それの先兵に忍耐のなることがある。忍耐は悪用される強力な武器となる。そうなることを抑止して、善用の鋭利なはさみになるには、目的をしっかりとかかげた理性の制御が必要である。馬鹿な骨折り損を阻止して、高い目的を実現していくには、理性的なリードをもった忍耐となっているのでなくてはならない。