2-4-1-1. 忍耐は、外面では辛苦を平然と受け入れている
忍耐は、苦痛を忍ぶ。これから逃げたり、これを排撃するとしたら、忍耐しないということになる。逃げるとか攻撃のそぶりをしたら、忍耐のほころびを見せることになる。怒りの忍耐をするとき、ムカッとしてそのそぶりをみせたら、忍耐は台無しである。忍耐するかぎり、怒りの内心が知られないように、怒りがなく、怒りへの忍耐もないようにと平然さを装うものであろう。
忍耐は、ときには、「自分が犠牲になっている」ことを示すためにこれを表現することもあろうが、苦痛を甘受できないと言ってはならないであろう。苦痛から逃げたい、これを攻撃したいと騒ぎ立てていたら、忍耐を放棄したいといっているわけで、「我慢のできないやつ」と見下される。忍耐は、苦痛をめぐっては、これに平然として、なんでもないと、忍耐などしていないとばかりに穏やかに振舞うことが求められる。苦痛の甘受を示すには、自然的には、逃走し排撃するものを、これをしないということであるから、そういう苦痛回避のそぶりをしないように心がけることが求められるであろう。端的には、排除したい苦痛なのだという振る舞いをせず、苦痛でないかのように、平気でなんでもないこととして受け入れることである。忍耐は、ここでは、忍耐していない、(苦痛ではないかのようにするものとして)忍耐など無用の装いをとることであろう。もちろん、忍耐していることを示す必要がある場合は、苦痛であるということを表現する。だが、それでも、その苦痛から逃げるとか攻撃するような振る舞いは、苦痛甘受の根本を崩すから、してはならないであろう。
うちに生じる欲求の忍耐は、欲求をしっかり抑圧できていて、欲求などないかのようにできるのが優れたものになろう。その辛苦も、甘受し受け入れている忍耐であれば、排除したい逃げたいといったことを語る不快とか辛いとかの嫌な顔などしないものでなくてはならないであろう。悲しみを忍耐するときは、それを知られても周囲に害を及ぼすことはあまりないから、表に出しても差し支えなかろう。それでも、見知らぬ者の間では(たとえば、電車の中など)、全面的に抑制して、悲しみなどないかのように、忍耐もしていないようにと装うのが、かなしみをこらえる忍耐であろう。
忍耐は、苦痛を忍ぶ。これから逃げたり、これを排撃するとしたら、忍耐しないということになる。逃げるとか攻撃のそぶりをしたら、忍耐のほころびを見せることになる。怒りの忍耐をするとき、ムカッとしてそのそぶりをみせたら、忍耐は台無しである。忍耐するかぎり、怒りの内心が知られないように、怒りがなく、怒りへの忍耐もないようにと平然さを装うものであろう。
忍耐は、ときには、「自分が犠牲になっている」ことを示すためにこれを表現することもあろうが、苦痛を甘受できないと言ってはならないであろう。苦痛から逃げたい、これを攻撃したいと騒ぎ立てていたら、忍耐を放棄したいといっているわけで、「我慢のできないやつ」と見下される。忍耐は、苦痛をめぐっては、これに平然として、なんでもないと、忍耐などしていないとばかりに穏やかに振舞うことが求められる。苦痛の甘受を示すには、自然的には、逃走し排撃するものを、これをしないということであるから、そういう苦痛回避のそぶりをしないように心がけることが求められるであろう。端的には、排除したい苦痛なのだという振る舞いをせず、苦痛でないかのように、平気でなんでもないこととして受け入れることである。忍耐は、ここでは、忍耐していない、(苦痛ではないかのようにするものとして)忍耐など無用の装いをとることであろう。もちろん、忍耐していることを示す必要がある場合は、苦痛であるということを表現する。だが、それでも、その苦痛から逃げるとか攻撃するような振る舞いは、苦痛甘受の根本を崩すから、してはならないであろう。
うちに生じる欲求の忍耐は、欲求をしっかり抑圧できていて、欲求などないかのようにできるのが優れたものになろう。その辛苦も、甘受し受け入れている忍耐であれば、排除したい逃げたいといったことを語る不快とか辛いとかの嫌な顔などしないものでなくてはならないであろう。悲しみを忍耐するときは、それを知られても周囲に害を及ぼすことはあまりないから、表に出しても差し支えなかろう。それでも、見知らぬ者の間では(たとえば、電車の中など)、全面的に抑制して、悲しみなどないかのように、忍耐もしていないようにと装うのが、かなしみをこらえる忍耐であろう。