忍耐は、外面では辛苦を平然と受け入れている

2019年08月30日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-1-1. 忍耐は、外面では辛苦を平然と受け入れている
 忍耐は、苦痛を忍ぶ。これから逃げたり、これを排撃するとしたら、忍耐しないということになる。逃げるとか攻撃のそぶりをしたら、忍耐のほころびを見せることになる。怒りの忍耐をするとき、ムカッとしてそのそぶりをみせたら、忍耐は台無しである。忍耐するかぎり、怒りの内心が知られないように、怒りがなく、怒りへの忍耐もないようにと平然さを装うものであろう。
 忍耐は、ときには、「自分が犠牲になっている」ことを示すためにこれを表現することもあろうが、苦痛を甘受できないと言ってはならないであろう。苦痛から逃げたい、これを攻撃したいと騒ぎ立てていたら、忍耐を放棄したいといっているわけで、「我慢のできないやつ」と見下される。忍耐は、苦痛をめぐっては、これに平然として、なんでもないと、忍耐などしていないとばかりに穏やかに振舞うことが求められる。苦痛の甘受を示すには、自然的には、逃走し排撃するものを、これをしないということであるから、そういう苦痛回避のそぶりをしないように心がけることが求められるであろう。端的には、排除したい苦痛なのだという振る舞いをせず、苦痛でないかのように、平気でなんでもないこととして受け入れることである。忍耐は、ここでは、忍耐していない、(苦痛ではないかのようにするものとして)忍耐など無用の装いをとることであろう。もちろん、忍耐していることを示す必要がある場合は、苦痛であるということを表現する。だが、それでも、その苦痛から逃げるとか攻撃するような振る舞いは、苦痛甘受の根本を崩すから、してはならないであろう。
 うちに生じる欲求の忍耐は、欲求をしっかり抑圧できていて、欲求などないかのようにできるのが優れたものになろう。その辛苦も、甘受し受け入れている忍耐であれば、排除したい逃げたいといったことを語る不快とか辛いとかの嫌な顔などしないものでなくてはならないであろう。悲しみを忍耐するときは、それを知られても周囲に害を及ぼすことはあまりないから、表に出しても差し支えなかろう。それでも、見知らぬ者の間では(たとえば、電車の中など)、全面的に抑制して、悲しみなどないかのように、忍耐もしていないようにと装うのが、かなしみをこらえる忍耐であろう。

忍耐は、辛苦を回避せず、甘受する

2019年08月23日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-1. 忍耐は、辛苦を回避せず、甘受する 
 苦痛・辛苦は、感性・個我において自然本性的には、これを回避し排除しておきたいものである。苦痛・不快はその生に傷害が生じていることを知らせる感情で、これの回避の策をとれば、生は保護できる。だが、忍耐は、この自然的な大原則を否定して、逆に、苦痛をあえて受け入れる、甘受する。当然、苦痛・辛苦を感じる感性・個我は、これに抵抗し苦痛回避へと動き続ける。自己内でのその抵抗を抑制しつつの苦痛の受け入れが忍耐である。
 辛苦・苦痛の受け入れをする忍耐、その理性意志は、これの受容を自虐的に行っているのではない。歓迎し喜んでしているのではない。もし、苦痛を回避してもいいのなら、忍耐する意志となる理性も、当然これを回避する。忍耐の苦痛の受け入れは、これを回避できればそうしたい不愉快なものであるのを、あえて、苦痛を凌駕する他の理由から甘受するのである。苦痛を受け入れることは耐えがたいことであるが、その甘受を手段・踏み台・犠牲にすることで大きな価値獲得がなるという目的・見通しをもって、身を切らせて骨を切るという精神のもとに苦痛・辛苦を受け入れるのが、忍耐である。
 苦痛の甘受は、内心・本心においては、その苦痛を猛烈に排撃したいものであることを前提にする。それを、あえて、受け入れる、甘受するのである。忍耐では、未来の大きな目的を見通せる理性が、自己内での苦痛排撃を抑圧して、心身の自然を超越して、人間的な自由を実現するのである。
 うちに生じている辛苦・苦痛を抑圧した忍耐であるから、表面的外面的には、内面を表すことなく、淡々と穏やかに、苦痛ではないかのようにして、これを受け入れる。苦痛を隠し内に忍ぶ。そして、外向けには、苦痛を平気であるかのようにして受け入れて耐え続ける。内では、激しく苦痛を排撃しつつ、外面的には、これをなんでもないかのようにして受け入れる。外面的には平穏で、内的には怒涛の葛藤状態となる。忍耐は、辛苦について、面従腹背(外向き理性的には苦に従順で、内面・個我としては抗し背反的)の反自然の振る舞いをして、快不快の自然世界を超越した人間的自由の世界をつくる。


忍耐は、苦痛・辛苦を、どう扱うのか―辛苦の甘受― 

2019年08月16日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4. 忍耐は、苦痛・辛苦を、どう扱うのか―辛苦の甘受― 
 辛いこと、不快、苦痛が生じると、自然的にはこれから逃げだしたくなる。苦痛は、強い苦痛回避衝動を生にもたせる。そのことで生は損傷を回避でき自己の維持保存がかなうことになる。苦痛回避は、自然的な生の根本衝動である。だが、忍耐は、その自然的な衝動を抑止して、あえて苦痛を受け入れる。そのことで苦痛が苦痛でなくなるのでも、回避衝動がなくなるのでもない。苦痛受け入れにおいて、ひとは、苦痛・苦悩で抑うつ状態になり、回避衝動に心はいっぱいになり、いうなら、苦痛にさいなまれる状態になる。それでも逃げずに苦痛を受け入れ続けるのが忍耐である。
 忍耐する人も、その自然感性においては、苦痛に支配されるが、実はそのことを通して忍耐は、理性をもって苦痛を支配するのである。苦痛を受け入れることを通して、これを踏み台にして、ひとは、求める目的を実現していく。苦痛を利用しこれを制御・支配して自然的には実現できないものを、人間的目的を実現する。苦痛をあえて受け入れる、甘受するという、自然的には暴挙をもってして、身を犠牲・手段にし、いわば捨て身になって、その理想・目的へと飛翔する。その反自然の忍耐は、自然を超越したものとして、自律自由の人間的尊厳にふさわしい営為となる。
 苦痛は、これがある限り、その回避衝動をうちに生じさせ続ける。忍耐するものは、その苦痛を受け入れ続け、苦痛回避衝動を抑制し続けてはじめてその求めるものを実現できる。苦痛回避衝動の抑止、苦痛受け入れの反自然を堅持しているかぎり、自然は激しく苦痛甘受をやめるよう迫ってくるが、忍耐は、これに迷うことなく屈することなく、断固として自己を貫徹する意志をもつ。あるいは、その甘受において、辛いと逃げ出したくなり助けを求めたくなり騒ぎ立てたくなるが、忍耐は、苦痛を受け入れているという態度をつらぬくために、そういう騒動も抑止して、淡々と苦痛を甘受し続ける。

忍耐は、快苦の個別身体をもって、実在世界に挑戦する

2019年08月09日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-3-6-1. 忍耐は、快苦の個別身体をもって、実在世界に挑戦する
 忍耐が快苦の自然(快の欲求と、不快への反欲求・排撃欲求)を対象としているということは、この快苦が存在する個我の実在世界に踏み込んでいるということである。理性のみでは快苦はなく忍耐も無用である。理性は、実在世界の普遍的本質・道理を把握するが、実在を離れた空無の抽象におちいっている可能性もある。その理性のあり方が実在世界に根ざしているかどうかは、身近には快苦の個我の世界において実証される。
 快苦は、身体反応をもった感情であり、これらは、自然実在の因果論的法則のもとにある。忍耐は、その因果法則を踏まえつつ、自然的には回避する不快・苦痛を回避せず反自然的に振舞う。そのことで、自然因果の世界を超越して理性の描く目的をその自然因果の世界に差し込んで、実在世界において己の目的を実現する。いわば、自然因果の世界にありつつ、同時にこれを超越した理性的目的論的な自由の世界を構築しているのでもある(自由は、因果自然からの解放としての自由であり、理性が自分で自分の世界を実在世界に展開する自律の自由、支配の自由でもある)。
 苦痛は自身からは排撃したいものであるから、自分の好んで作り出すものではない。苦痛は、精神的なものを含めて、自分・個我のそとから襲来する。個我のそとの(社会を含めた)客観・実在世界から来る。苦痛をもった個我は、自分の意にそわない外的な実在世界に触れることになる。欲求は、なかなか充足できない。欲求は、自分の意を超えた、意にそわない実在世界のあることを踏まえざるをえない。快不快には、妄想もあるが、妄想か否かは、実在的な裏づけがあるかどうかということである。腕の痛みがあっても、もうその腕がなくなっていたのであれば、妄想・幻覚ということになる。快の場合も同様であるが、快は、妄想でも、好んで体験したいことであれば、実在的対応がない幻覚であっても、問題にはなりにくい。だが、苦痛は、できれば体験したくないものであり、体験するとなると、実在かどうかはこの苦痛を解消していくうえで、まったく異なった対応となる。幻想でなければ、苦痛の実在的な原因への対応が迫られることとなる。
 実在世界にいても、自己充足していてそとの世界とのつながりがない場合、あるいはそとから襲来するものを回避する手立てもしっかりしているなら、苦は生じず、安らかな状態を保つことができる。だが、ひとの生は、そとにかかわってその基本的な欲求を満たし、外に働きかけて自己実現もしていく。動きまわるものとして、外的なものの襲来も不可避であり、苦痛なしで済ますことはできない。活動的であればあるほど、内患外憂に満ち満ちた生活を送ることになる。つまりは、忍耐の対象が満ち満ちた生活ということになる。
 自然的な生では、ひともそうだが、快を欲求し不快・苦を回避して、そのことで、有益なものを得、有害なものを避けることができる。快不快のリードにしたがっての生である。だが、ひとの忍耐は、これを超越する。己の個我の快不快を踏まえつつ、これに従わずこれを否定して自由の人間世界をつくりだしていく。辛苦を甘受する反自然的な忍耐をもって、実在世界のうちに、自然を超越した自由の世界を創造していく。


苦も忍耐も、個我の心の内にあるが、苦の原因は内外にある

2019年08月02日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-3-6. 苦も忍耐も、個我の心の内にあるが、苦の原因は内外にある
 仏教は、ひとが意識するもの(色)はこころが作り出したもの(妄念)で真実は空無だという(色即空)。色や音などは、確かに心の中にあるだけであり、主観のそとには色も音もない。光や空気の振動があるだけである。これと同じことで、不快・苦痛は、心のうちにのみあるもので、客観的にみれば、空無だとも言える。それに忍耐するのも主観のうちにとどまることで、その限りではこれも客観的には無ともいえる。だが、心中にあるのみの色や音が外界に光の振動や空気の振動をもつように、主観の苦痛も外的世界の傷害・妨害という原因をもっているのが一般である。 
 個我が勝手に苦痛をいだき忍耐をしているという面がなくはない。怒りに我慢するが、怒りは、しばしば無知や僻みなどによる誤解・曲解で生じている。個我が勝手に妄想をいだき、自分の妄想に苦しんでいるだけの場合がある。だが、ひとは、わざわざに苦痛を自らに抱え込もうとすることは、少ない。苦痛・不快の原因は、圧倒的にはそとにあり、個我のそとから襲来するものである。「大木の下敷きになって」「熱湯の風呂に入って」等と、外的な原因をもって傷害を受けて苦痛は生じる。マイナスの物事の襲来が苦痛を生じさせているのである。さらにプラスの享受が断たれての不快・苦痛も個我は抱く。個我の生は、そとのものとの同化・異化をもってなりたつから、このことをとり行う欲求が不充足になるというプラスの断念は、やはり、不快・苦痛となる。個我が欲求しなければ、不快・苦痛は生じないとはいえ、生は外的世界とのかかわりなくしては存続不可能であり、それが欲求となっているのであって、これを抑制・断念することは生の否定として苦痛である。欲求という主観の営為を断てば苦痛はなく忍耐無用となるが、それは、生自体を否定することとなる。食欲を絶てば死ぬ。うちに成立する欲求であるが、そとにその価値あるものの充足を求めるのであり、その不充足で生じる苦痛もまた、単に主観の事柄ではなく、客観的な不充足ということである。個我のうちで勝手に作った苦痛と忍耐ということでは済まない。欲求(不充足)の苦痛の原因は、根本的にはそとの価値物の確保ができないというところにある。
 忍耐を無用とするには、こころの不快・苦痛をなくすればいいことである。それは、できなくはない。だが、生産的創造的な解決には、苦痛を生じる原因にさかのぼってこれを適切に処理することが必要となる。忍耐して苦痛を保存し甘受しつづけるのは、それを手段・犠牲にして、客観的に大きな価値あるものを獲得することができるからの営みであろう。忍耐は、主観のうちの苦痛と主観内での忍耐にとどまるものではない。苦痛の原因にさかのぼり、客観世界に向かい、その原因(=苦痛)を排撃せず甘受することでなる大きな成果の獲得のために、忍耐するのである。