1-1-3-1. 忍耐は、苦痛にすると言い切れるか
心のうちにあるものの表出を抑止して我慢することは、よくある。悲しみは勿論、快の喜び・笑いでも、これらを我慢するということがある。怒りも、「堪忍袋の緒が切れる」のを抑止して、これをうちにしっかりと閉じ込めて忍耐する。忍耐は、苦痛にするが、苦痛だけに還元して済ますことができるのであろうか。怒りとか笑いは、そのものとしては、苦痛ではなかろう。だが、これらを我慢する、忍耐するということがある。
怒りは、攻撃して相手に苦痛を与えるものであって、自分が苦痛を被る営為ではなかろう。それでも怒りを我慢するとよくいう。これを忍耐するとき、肝心なことは、これを相手にぶつけないよう怒りの表出を自身に禁じることであろう。怒りの攻撃衝動をうちに抑え込んで外に出さないことである。うちではむかつきイライラし罵声を浴びせたいといった衝動・欲求をもつ。これを、うちに抑え込む。一方には、攻撃衝動があり、他方では、理性意志がこれをしっかりと押さえつけるという葛藤状態である。辛さは、ここでは、衝動がうちで悶々とすることと、意志が、怒りの出てこようとする場面の一々をしっかり見張りこれを出さないようにと抑えることの煩わしさ・苦痛であろうか。いずれも、不快であり、苦痛であろう。怒りの忍耐は、そういった苦痛・辛苦をそのままに受け入れ続けることである。かりに、攻撃衝動をうちに閉じ込めておくことが苦痛でないのなら、つまり攻撃的なゲームでのように「わくわく」として快であるのなら、忍耐はいらない。押さえつける意志が辛くないのなら、忍耐とまではならないであろう。忍耐は、やはり、怒りでも苦痛にするということになろう。
笑いは、快に属するが、これも、ときに「笑いを押し殺して我慢する」と忍耐するものとなる。それは、楽しさ愉快さをいだく中でのことで、その忍耐は、苦痛ではないようにも思える。だが、やはり、苦痛があっての忍耐であろう。つまり、笑いを堪えて忍耐するという特殊な場面は、笑いの表現を慎むべきときであり、それの表出欲求・衝動を抑えるときにいう。うちからは出したい笑いであるが、これを抑える意志は、その自然衝動を抑圧する。葛藤状態になる。ストレートに出せれば愉快なこと、快である。それを出さないようにと自身の意志で抑圧するのである。それが辛ければ、苦痛になれば、我慢・忍耐ということになる。怒りとは違うが、同じように内面を偽り、外面を取り繕うのである。内面を抑圧する辛さと、外面を偽り取り繕うという作為の辛さである。忍耐は、やはり、苦痛の存在するところにいうのである。
心のうちにあるものの表出を抑止して我慢することは、よくある。悲しみは勿論、快の喜び・笑いでも、これらを我慢するということがある。怒りも、「堪忍袋の緒が切れる」のを抑止して、これをうちにしっかりと閉じ込めて忍耐する。忍耐は、苦痛にするが、苦痛だけに還元して済ますことができるのであろうか。怒りとか笑いは、そのものとしては、苦痛ではなかろう。だが、これらを我慢する、忍耐するということがある。
怒りは、攻撃して相手に苦痛を与えるものであって、自分が苦痛を被る営為ではなかろう。それでも怒りを我慢するとよくいう。これを忍耐するとき、肝心なことは、これを相手にぶつけないよう怒りの表出を自身に禁じることであろう。怒りの攻撃衝動をうちに抑え込んで外に出さないことである。うちではむかつきイライラし罵声を浴びせたいといった衝動・欲求をもつ。これを、うちに抑え込む。一方には、攻撃衝動があり、他方では、理性意志がこれをしっかりと押さえつけるという葛藤状態である。辛さは、ここでは、衝動がうちで悶々とすることと、意志が、怒りの出てこようとする場面の一々をしっかり見張りこれを出さないようにと抑えることの煩わしさ・苦痛であろうか。いずれも、不快であり、苦痛であろう。怒りの忍耐は、そういった苦痛・辛苦をそのままに受け入れ続けることである。かりに、攻撃衝動をうちに閉じ込めておくことが苦痛でないのなら、つまり攻撃的なゲームでのように「わくわく」として快であるのなら、忍耐はいらない。押さえつける意志が辛くないのなら、忍耐とまではならないであろう。忍耐は、やはり、怒りでも苦痛にするということになろう。
笑いは、快に属するが、これも、ときに「笑いを押し殺して我慢する」と忍耐するものとなる。それは、楽しさ愉快さをいだく中でのことで、その忍耐は、苦痛ではないようにも思える。だが、やはり、苦痛があっての忍耐であろう。つまり、笑いを堪えて忍耐するという特殊な場面は、笑いの表現を慎むべきときであり、それの表出欲求・衝動を抑えるときにいう。うちからは出したい笑いであるが、これを抑える意志は、その自然衝動を抑圧する。葛藤状態になる。ストレートに出せれば愉快なこと、快である。それを出さないようにと自身の意志で抑圧するのである。それが辛ければ、苦痛になれば、我慢・忍耐ということになる。怒りとは違うが、同じように内面を偽り、外面を取り繕うのである。内面を抑圧する辛さと、外面を偽り取り繕うという作為の辛さである。忍耐は、やはり、苦痛の存在するところにいうのである。