忍耐は、苦痛にすると言い切れるか 

2020年08月28日 | 苦痛の価値論
1-1-3-1. 忍耐は、苦痛にすると言い切れるか  
 心のうちにあるものの表出を抑止して我慢することは、よくある。悲しみは勿論、快の喜び・笑いでも、これらを我慢するということがある。怒りも、「堪忍袋の緒が切れる」のを抑止して、これをうちにしっかりと閉じ込めて忍耐する。忍耐は、苦痛にするが、苦痛だけに還元して済ますことができるのであろうか。怒りとか笑いは、そのものとしては、苦痛ではなかろう。だが、これらを我慢する、忍耐するということがある。
 怒りは、攻撃して相手に苦痛を与えるものであって、自分が苦痛を被る営為ではなかろう。それでも怒りを我慢するとよくいう。これを忍耐するとき、肝心なことは、これを相手にぶつけないよう怒りの表出を自身に禁じることであろう。怒りの攻撃衝動をうちに抑え込んで外に出さないことである。うちではむかつきイライラし罵声を浴びせたいといった衝動・欲求をもつ。これを、うちに抑え込む。一方には、攻撃衝動があり、他方では、理性意志がこれをしっかりと押さえつけるという葛藤状態である。辛さは、ここでは、衝動がうちで悶々とすることと、意志が、怒りの出てこようとする場面の一々をしっかり見張りこれを出さないようにと抑えることの煩わしさ・苦痛であろうか。いずれも、不快であり、苦痛であろう。怒りの忍耐は、そういった苦痛・辛苦をそのままに受け入れ続けることである。かりに、攻撃衝動をうちに閉じ込めておくことが苦痛でないのなら、つまり攻撃的なゲームでのように「わくわく」として快であるのなら、忍耐はいらない。押さえつける意志が辛くないのなら、忍耐とまではならないであろう。忍耐は、やはり、怒りでも苦痛にするということになろう。
 笑いは、快に属するが、これも、ときに「笑いを押し殺して我慢する」と忍耐するものとなる。それは、楽しさ愉快さをいだく中でのことで、その忍耐は、苦痛ではないようにも思える。だが、やはり、苦痛があっての忍耐であろう。つまり、笑いを堪えて忍耐するという特殊な場面は、笑いの表現を慎むべきときであり、それの表出欲求・衝動を抑えるときにいう。うちからは出したい笑いであるが、これを抑える意志は、その自然衝動を抑圧する。葛藤状態になる。ストレートに出せれば愉快なこと、快である。それを出さないようにと自身の意志で抑圧するのである。それが辛ければ、苦痛になれば、我慢・忍耐ということになる。怒りとは違うが、同じように内面を偽り、外面を取り繕うのである。内面を抑圧する辛さと、外面を偽り取り繕うという作為の辛さである。忍耐は、やはり、苦痛の存在するところにいうのである。


浦島の異時間と、夢で死者に感じるそれとの違い

2020年08月23日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【4-3.浦島の異時間と、夢で死者に感じるそれとの違い】時間について、ひとは、記憶で過去を描きだすとともに、未来方向への時間を想像・予期をもって描く。通常は、予期の範囲内になっている未来であり、それへの構えを作って対処しているが、それが、意外にもそうなっていないと、戸惑い、これに驚くこととなる。浦島は、故郷の記憶更新がない状態で帰郷した。いうなら昨日の今日という状態なので、故郷は変わってないと予期している。だが、それが大きく変貌していて予期を覆し、驚かされることになる。逆に、あの世のひとの夢では、死後何十年も経っていて年をとり変わっているはずとの通常の予期のもとで見たら、まったく昔の姿のままで、変わっていないことに驚かされる。その奇怪な異時間は、浦島では、長い旅とか長期の隔離の終わったところに生じる。だが、夢の中の死者では、その出会いの瞬間にその異時間を感じさせられることになる。  
 その異常な時間への関与という点では、あの世のひとの夢では、自分は夢見ているだけで、あの世のひとの異常な不変・不老の状態に、あの世の時間のなかに、巻き込まれているとは感じない。自分を含めて、夢に登場する身近な生者は皆年を取って現れているのに、あの世に行ったひとは年取らないのだなと、傍観者として観察するだけである。だが、浦島の方は、自身がその奇怪な状態に巻き込まれていると感じる。同じ時空に立っているはずなのに、自分の時間が二重になっていると感じて動転させられる。皆が自分の知らない間に何かをしていて、自分は疎外され取り残されていると感じる。あるいは、自分がおかしくなっているのであろうか、変な世界にまきこまれているのではなかろうか等と不安になることもある。異常な時間展開を傍観者として眺めて過ごすわけにはいかない。自身がその異常な時間の体現者となる。 
 浦島的異時間は、異常な時間展開の途上では、これに気づかず、それの展開を終えて故郷に帰り振り返ってそうと分かることになるが、この、長い疎隔状態から解放されたとき抱く帰郷時の異常な時間感覚は、そう長くは続かない。それが錯覚であることには、浦島では、すぐに気づくことになるのが普通である。故郷の人たちが、現実が、日々それの錯覚であることを自覚させていく。だが、夢であの世にいった者が年取らないことは、あの世という別世界を信じている者では、その信仰心を共有する人たちの間ではあの世の不老不死を当然とした言動をとることもあって、錯覚とは思わないで、あの世の永遠を信じ続けることになる。浦島体験では、その現実が、異時間感覚の錯覚であることの反省を迫るが、死者の夢では、それがないので、夢見るたびに、あの世の永遠という思いを深くしていくことになりかねない。死者は、変わりようがない。何度見ても、不老不死で現れて、永遠の世界であることへと一層思いを強くしていきかねない。
 浦島もあの世の死者も、時間を成り立たせる記憶更新のないことが奇怪さの原因である。が、記憶更新ゼロになる理由は、浦島では、自分がその世界から出ていき疎遠状態を作ったことにあり、あの世の人の不老不死の方は、あの世に行った人の方が消えていってしまったことに原因がある。浦島では、故郷全体が消えていって記憶のうちに固定して不変となってしまうが、あの世の場合は、死んだ人のみが消えて固定して不変となっているのである。浦島の場合、異時間発生の原因は、自分(が長旅に出たこと)にあるが、あの世の場合、死者(が冥土へと旅立ったこと)にあるわけである。
 異常な時間の広がり、範囲の点では、あの世にいった人の場合、その死者だけが、変わらないということで異常なのである。あるいは、死者に限らず、長らく会わなかったひとのことを想起したり夢に見る場合もそうだが、そのひとだけが年取らず、変わらないで現れる。自分や周囲はみんなその年月分変化しているのに、その夢のなかに現れた死者とか長く会っていない人物のみが変化せずということである。自分の頭の中で現在の同級生の集合写真を作ってみたら、死んだ友、卒業してから長年会ったことのない同級生だけは、卒業時のまま、死ぬ時までの姿で若々しく写っている。だが、浦島体験の方は、異常なのは、長く留守にしていた故郷の人全員がそうであるのみでなく、よく見ると、山も川も故郷のすべてが留守にした時間分変化しているのである。自分が昨日の今日と思っているものすべてが、実際には長い時間の留守分の変化を見せる。家族が一挙に10年年取ったと奇怪に思ったが、裏庭に植えたばかりだった栗の苗木は、もうたわわに実をつけており、10年の年月を感じさせずにはおかない。異時間感覚は、自分の故郷に関する記憶更新ゼロによる錯覚であると多くの現実が語る。
 

苦痛を生じる損傷には、広くは欲求不充足も含む

2020年08月18日 | 苦痛の価値論
1-1-3. 苦痛を生じる損傷には、広くは欲求不充足も含む  
 忍耐は、外的な損傷による苦痛を対象にするが、それがすべてではない。もう一つの大きな対象領域として、内から生じる欲求・衝動に対する忍耐がある。欲求を抑圧するとき、そのことが辛くなると、忍耐ということになる。外的な傷害は、ほぼ苦痛となるから、これを受け止めるには、忍耐がいる。内的欲求の不充足の場合は、充足を思って楽しみなのであれば苦痛ではなく、その限りでは忍耐はいらない。だが、その欲求(の不充足)が大きくなると不快・苦痛になり、そうなると、欲求不充足を続けるには、苦痛甘受が、忍耐が必要となる。
 欲求不充足は、欠損の自覚をもつことで、広くは損傷と見なせるであろう。また、外的損傷も、その個体が求め欲するものについての損傷であることが多く、その欲求が侵されているともみなされ得る。その生にとって価値があって欲求対象であるものについて、それが破壊されたり奪われて損傷になるのであれば、この損傷の苦痛は、欲求についての不充足の苦痛ともみなせるであろう。その個体のもとにあるものが破壊されたり剥奪されたとしても、もし、そのものを欲していなかったのなら、あるいは、むしろ、余計なもの・お荷物と解していたのなら、その剥奪は、ごみ処理をしてもらったということになり、快であっても、不快や苦痛をもたらすものではない。それは、かりに物理的には破壊や消失であったとしても、精神的社会的生にとっては損傷とはならない。当然、そういう事態には、忍耐は無用である。苦痛・不快になるのは、価値あるもの、欲求の対象であるものが破壊されるなどして損傷をうけてである。欲求しているものが不充足になって、そのことで欠損、喪失を意識するなら、これを損・損傷と感じる。反欲求の対象の破壊・剥奪は、損傷ではなく、利得・取得であり、求め欲求することである。欲求するものの破壊とか不充足が損傷となる。
 忍耐は、苦痛にするが、その苦痛は、損傷によって生じる。この損傷は、まずは、外的な損傷であろうが、欲求の不充足も広くは損傷のうちに含めて良いのではないか。求め欲するものが不充足になるのは、価値あるものの欠損を感じてであり、価値あるものについてマイナス状態になり傷つけられることをもってである。つまり、欲求の不充足状態は、欠損、あるいは価値物を壊され傷つけられるものとして、損傷ということになる。忍耐は、欲求不充足に生じる苦痛・不快に耐える。欲求不充足が損傷となって苦痛をもたらし、この苦痛に忍耐するのである。忍耐の対象は、苦痛である。その苦痛の生じるもととしては、外的損傷があり、しばしば欲求の不充足があがるが、後者も、広くは、損傷のうちで捉えて、忍耐は、(両)損傷で生じる苦痛にすると言っておいて良いのではないか。


夢の時間展開は奇怪だが、普通には異時間感覚は抱かない

2020年08月13日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【4-2.夢の時間展開は奇怪だが、普通には異時間感覚は抱かない】
 誰でもが思い当たる異常な時間展開というと、おそらく夢がその筆頭にあがる。自身が子供になる夢もあれば、突然、自分の葬式になったり、途中から友人の送別会になったりする。奇怪きわまりない。だが、これは、時間自体が奇怪な展開をするのではなく、夢が(実在世界の)時間を顧慮せず、夢見る当人のその夜の関心や連想のおもむくままに映像を並べて、時間の継起的な形式を無視した支離滅裂な状態にあるだけであろう。天国のようにゆっくりと時間の過ぎるのでも、カゲロウのように過激な速さの時間でもなく、時間という過去・現在・未来へと流れる継起的秩序自体を無視しているにすぎない。夢では世界の根本形式としての継起の秩序、時間自体が存在していないのである。 
 夢は、一晩の眠りのほんの一時の出来事である。その夢の中では、あたかも長期の時間展開であるかのような夢を見ることもある。自分の一生の夢をみることも可能である。それは、時間の異常さを感じさせるものではないが、現実世界とは異なる継起の様相として、夢での時間の在り方といえなくもなく、これも異時間体験の末端に置くことはできよう。浦島太郎の説話のなかには、これを夢のなかでの話にとアレンジしたものがある。川へ釣りにでかけて、乙姫に誘われて竜宮に行き、結婚し、そこで生活して、やがて帰郷するが、帰ってみたら、まだ川には釣り竿があり、その間の何年もの経過は、釣りのわずかの時間のことだったという話である(関敬吾『日本昔話大成』 角川書店 昭和53年 第6巻 28頁 参照)。夢では、主観の想像・妄想と同様、時間は支離滅裂であったり、長年月のこともあったりして、現実の実在世界からいうと奇怪だらけで、ことさらに時間自体についての奇怪な感覚になることは、あまりないし、あっても、夢のこと、妄想・妄念の観念世界のこととして実在世界の時間秩序とは無関係に、別扱いにするのが普通となる。 
 どんなに長くてもわずか一晩の夢なのだが、その一晩の夢のなかでは、何十年もの生活を展開することがある。一晩の夢において、自分が青年のときから、結婚し事業に成功し、老化して死ぬまでのことを展開することがある。「邯鄲の夢」など、粟粥を作ってもらう食事準備の間に居眠りして、その間に自分の一生の栄枯を体験する夢を見た。醒めてみたら、粟粥はまだ出来上がっていなかったと。「一炊の夢」である。ここでは、夢見る時間は、一晩とか、わずかの微睡の間とちゃんと自覚している。夢の内容が一生に渡っていることが同時に現実だと錯覚などしない。その夢のなかでは、現実の日課、毎朝顔を洗って食事してと詳細に反復するといった手間暇は一切とることがない。夢の内容自体を少し反省すれば、大事件のみを、それも勘所をつまみ食いして追っていった長期間にわたる夢だったと、自覚できる。白昼夢で壮大な自分の一生を見るのと同じで、(ただし白昼夢と違い、夢は随意にはならない)妄想・妄念であることの自覚がもてる。ただ、感情的には、夢で自分が殺されるのを見たあとは、起きて想起するとき、その内容には、自身の感情反応をもって、恐怖心をいだくことにはなる。その恐怖心から、現実を見れば、実際に今日は自分にそういうことが生じるかも知れないと、現実への影響をもつこともある。だが、それを反省してみれば、「夢で良かった」と分別でき、現実とは混同しない。夢の中での時間経過も、現実とはちがい、根本的に無秩序でしかないと自覚できる。  
 逆さ浦島とか「一炊の夢」の場合、時間経過は長大で一生に渡るようなものでも、それは、目覚めてから思うときには、夢の中、体験する当人の頭のなかだけでの夢想・幻想との自覚がある。夢の中では、肝要な出来事のその核となる断片のみを抜粋して飛び飛びに見ていく。関心事をそのエキスのみを順序不同に急いで見ていくだけであって(おそらく、継起的な時間展開の夢になるよりは、自分の葬式を見て続いて自分の結婚式の場面となり、いつのまにか子供や親せきの結婚式や葬儀に変わる等と時間的には支離滅裂な夢になるのが普通であろう)、その夢の中での時間展開が植物の生長の動画の早送りのように急速になっているわけではない。もちろん、夢から覚めた世界には何の時間的影響もない。その夢の時間が同時に、夢から覚めたときの現実の時間と一つになるのなら、二重の時間ということで奇怪であるが、そういうことになるのではない。夢でなくても、想像において、あるいは、白昼夢で、自分や子供の一生を見るとしたら、ほんの5分か10分のうちに、詳細なその生の展開を見ることができる。実在的世界でなら、日々、食事をし大小の用を済ませ歯磨きをし等々ということが延々とつづくのだが、それらは、一切省略しての、現実の要点のみの断片的な想起であり、現実と混同することはない。太陽系の一生を想像する場合は、何億年もの詳しい展開を、ものの5分で描きうるだろうが、それ自体は、時間そのものを超高速で何億年と展開するものではない。その何億年いう太陽自体の展開する時間と、その長大な時間展開を想像する時間は、無関係にとどまる。逆さ浦島で、釣りをしている間の夢に竜宮城で楽しい日々を過ごしたからといっても、その居眠りの30分と竜宮での3年は、別々の経験と自覚する。居眠り状態の心身の体験があり、その間に、心中で異世界にと遊ぶ夢の体験をもったということである。その実在世界の30分が即同時に異世界の継起の秩序としての時間の3年であった(その間、毎日、日に一回、つまり、千回以上も洗顔したり大便を繰り返したというようなうんざりする夢を見続けた)というのなら、浦島的な異時間体験になるが、そういうことではない。夢と現実は区別される。電車のつり革を握って通勤の30分の間に、サラリーマンが白昼夢に遊び、自分が社長になって世界中を駆け回り高野山に墓をつくってもらって信長たちと並んで空海のそばで安眠したというような50、60年にわたる人生を描くのと同じである。うたたねの間の夢は、自身の一生の夢であったとしても、それを現実と錯覚することはない。 

苦痛の感情は、損傷との解釈と、生防護の反応からなる

2020年08月08日 | 苦痛の価値論
1-1-2. 苦痛の感情は、損傷との解釈と、生防護の反応からなる
 感情は、感覚等の情報をふまえその事態の自分への価値・反価値を解釈・判定して、その価値判定に見合う個我主体の心身反応をもつ。怒りの感情なら、相手のことを気障りと解し判定して、これに懲罰・攻撃を加えようといきり立って身体的に反応する。悲しみなら、自分への価値喪失が生起したと判定して、これに自己防衛的に対応し、身体的に萎縮し血流を滞らせ自己閉鎖的にと反応をする。
 身体をめぐっての苦痛の感情は、苦痛の感覚をもって、個我主体が損傷との解釈をして、これに緊張・嫌悪や抑鬱の反応をし、不安や焦燥、ひどくなると虚脱の反応までする。その反応は、生の防衛反応であろう。そう反応するのは、生が損傷を受けたと判定しているからである。生理的な場合、苦痛刺激が生じてそこが損傷を受けているという情報をその部位が発する。「手が痛い」という苦痛の感覚である。そのことで、「手」ではなく、(心身全体をもって緊張等の反応をして)「私は、苦痛だ」「私は、苦しい」というのが苦痛の感情になる。苦痛の感覚と感情は、ずれることもある。放尿では、これを我慢しているときは、尿意は、緊張・焦燥等の苦痛の感情となる。放尿しはじめると、そこにしばらくは苦痛(感覚)が残っているが、これは、苦痛の感情反応にはなっていかない。逆に、その放尿中の残存する苦痛は、ほっと安堵しての快感のなかで、解放感を確かなものにする、心地よい苦痛(感覚)になる。
 精神的な苦痛・苦悩は、その主体が価値あるものを奪われたり損傷を被ったところに抱く。個我にとっての損傷(肉親の死、財貨の損失等)との判定をまず知性が行う。そのうえでこれに個我主体として対応、感情的反応をする。苦痛(感情)は、損傷を前に防衛的な、あるいは、排撃的な反応をし、萎縮したり緊張の反応を見せる。あるいは、その損傷から遠ざかりたいと、これに嫌悪感を生じ回避の反応をもったりする。苦痛の感情は、単に損傷との判定・解釈をするだけでは成立しない。これへの生主体からの萎縮や拒否・排撃等の反応・対応をもっているのでなくてはならない。
 怒りでは単に気障りと判定しているだけでは怒り(の感情)にならない。困ったことだと見つめるだけで心静かである。身体がむらむらとし熱気をおびて攻撃的に反応してはじめて怒りとなる。肉親の死を前にしたとき悲しむのが一般だが、死を冷静に受け止めるだけでは、悲しみにならない。それを喪失と価値判断するのでなくてはならない。かつ、身体がその喪失に見合うように反応して、萎縮し虚脱の様相をもち、目頭を熱くするようなことがあって、つまり、身体が泣くことをもって悲しみの感情は成立する。身体の反応が感情には必須であり、ときには、悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのだということがあるぐらいである。