はじめから全面禁止にする節制対象もあろう

2015年07月31日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-1-4-2. はじめから全面禁止にする節制対象もあろう
 節制は、快楽享受の過度を禁じるが、そこでは、はじめから禁じてゼロにと節すべきものもある。性的節制の場合は、不倫ということなら、当然、はじめから禁止である。
 食の節制でも、糖類の入った清涼飲料は全面禁止にすることがあろう。夕食では、ケーキ類は禁止とか、肉類は、今日は禁止ということもあろう。サッカリンなどの有害なものは、原則、永続的に全面禁止であろう。特定の料理法に関する全面禁止もある。魚類の刺身は、寄生虫のいることが多いからと禁止で通すひとがある。煮つけたり焼いたものは食べるのであれば、禁欲ではなく、健康を慮って美味の飽食を若干抑えての、刺身は全面禁止の節制である。
 ぜいたく品、たとえば、マツタケは禁止するというのは、それが美味で快楽享受の抑制になるのであれば、節約であり、かつ節制であろう。もっとも、ながらく口にしていない場合、それを食べたいという欲求自体が生じず、快楽抑制の意識がなければ、単なる贅沢禁止の節約にとどまるであろうか。
 飲酒では、「病気がなおるまで禁酒」ということがある。これは特殊の期間のみ全面禁止の節制である。酩酊の快楽を肯定し、それへの欲求を維持し飲める日を楽しみにしているのである。その禁酒は、「しばらくの節制」であろう。


はじめから抑制をきかせる場合もある

2015年07月24日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-1-4-1. はじめから抑制をきかせる場合もある
 欲求充足をしていて、過剰となる限度点から節制して充足を禁止する。が、欲求充足のはじめから抑制をきかすものもある。どの食品にも含まれていてそれの総量の限度があるという場合、甘味料とか塩のように、はじめから、促進しつつ同時に禁止することになる。各食品に加える量をその度に限度量を設けて抑制し調整することになる。促進のみ、禁止のみなら、その意志も行動も同一の惰性ですすむが、その都度、促進と禁止、ブレーキとアクセルを意識しなくてはならない。性欲の場合、恋人との間では、夫婦とちがって、欲求充足に歯止めをかけ、促進しつつ抑制をきかせているものであろう。
 食の節制では、一般的には、快楽享受を現にしていてこれをある量的な限度になったら禁じて節するが、この場合でも、節制の意識としては、はじめから抑制の構えをもっているものであろう。抑制する以前にその意識がなくては、どこが限度になり抑制されるべき点かが自覚できない。はじめから禁じている場合は、その欲求は快楽を想像で描くのみで抽象的であるが、欲求充足していたものの特定の限界点からの禁止では、直前まで味わっていたのであり、まだ目の前にそれがある状態でのことである。単に想像の快を禁じるのとちがい、挑発するものが具体的であり節制はより困難となる。これが簡単にできるのなら、過食や肥満は、ごく例外にとどまることであろう。


摂食の促進・抑制・無抑制の同時進行

2015年07月17日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-1-4. 摂食の促進・抑制・無抑制の同時進行
 節制は、快楽享受を抑制するが、食の場合、単純に抑制するだけでは済まない。たばこや酒の節制は、ごく単純で、減らすか呑まなければよいのである。だが、食は、麻薬とちがい、快楽(美味)を享受するのか否かという単純な選択では片付かない。快楽(美味)でなかろうとも栄養摂取・食事はすすめなくてはならない。飢餓の多かった時代には、飢えをしのげれば上々であり、美味の快楽など無縁であった。飽食の現代でも、具体的な食においては、美味のみとはいかない。美味も混ざった食事にとどまるのが普通であろう。嘔吐しそうな食べ物であっても、それしかないのであれば、これを無理矢理のどに押し込むこともある。節制とは逆の意識で、食の促進をはからねばならない。抑制対象の美味の快楽であっても、そこに出されている量がほどほどで全部食べても栄養過多にならないのなら、抑制の意識をもつことはない。抑制するだけではなく、促進、無抑制も平行するのが食の実際である。
 美味でなくても、栄養の点から過剰になるのなら、これの過食はすすめられない。抑制する必要のない食品のうちでも美味しいものもある。それによって快楽も確保され、満腹感にも寄与することなら、この美味のものは存分に食べてよい。野菜は、ふつう、美味しいわけではないが、まずいものでもない。これは、栄養価の低いものも多く、満腹感を充たすために好都合なものとなる。


量的抑制が節制の目的に合致しないことも生じる

2015年07月10日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-1-3-8. 量的抑制が節制の目的に合致しないことも生じる
 ダイエットに取り組む者は、体重が200グラムふえたとか、体脂肪率が1%あがったとかといってこれを気にする。ときに気に病む。だが、体重が減ればいいというものではない。急激な減量は、おそらくは、栄養不良をもたらす。体重を減らすことが健やかな痩身をもたらすためであったとすると、栄養不良はその肝心の健やかさを失わせることになる。減量は、目的ではなく、健康な身体を得るための手段にすぎない。体重は、そのひとつの指標にすぎない。手段と目的をとりちがえてはならない。
 節制の意識が、体重減少ということにむかうと、体重の日々の増減が気になり、ときに減少させることが至上命令のようになる。健やかな痩身(筋肉など身体諸機能の弱体化のない健やかなもの)という目的を再確認しなくてはならない。健やかさということでは、贅沢とか浪費とかの社会的な方面での健全・不健全も留意されるべきであろう。また、直接的には節制ではなかろうが、健やかな心身には日々の運動が大切であることなども振り返る余裕がなくてはならない。贅沢とか運動とかの健康度は、体重計では計れない。
 体重は、節制の度合いを計ることができ、その目的の健康の度合いも計れる。だが、健康そのものを示すのではない。間接的に計っているのみである。体重の減少が栄養不良となり病的になっていることもありうる。体重は、数値は、健康度にかんして、あくまでも、参考となるにすぎない。体重計のない古代から節制はあった。


量的な少しずつが、最後には質的変化をもたらす

2015年07月03日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-1-3-7. 量的な少しずつが、最後には質的変化をもたらす
 肥満は、一日ではならない。何年もかけて脂肪をためこんだのである。逆に減量して痩身になるのは、肥満になるよりは単純なことで、絶食したり病気になって栄養摂取ができなくなれば、一二週間もあれば骨と皮だけになる。が、健康体のままで痩身になるには、肥満したときと同じような年月が必要である。徐々に、少しずつ減量していくのでないと、無理がでてくる。減量という節制は、一気にではなく少しずつ減らすのでないと、うまくいかないのが普通であろう(人によっては、過激に減量してそれを維持してうまくいくこともある)。減量といっても、それは、昨日と今日では、ほとんど同じで、質的にはおそらく同一の食事であり、おなじ肥満の体型である。わずかな量的な変化であり、その質的には同じものの量的変化をつづけることで、ある量にいたったとき、質的な変化まで起していることに気づく。量から質への転化、「塵も積もれば山となる」である。
 食の節制をして体重の減量を企てる場合、日々はわずかな量的変化にすぎないから、痩身へと質的変化をもとめることからいうと、じれったくて、いらつく。だが量に注目している者は、日々のわずかの変化を知ることになり、よい方向へと少しでも変化しているならば、やり甲斐をもち、量的変化を質的変化への励みとすることができる。体重変化のグラフでもつけておれば、前日の摂食の良し悪しが明確にわかり、改善をさそうことでもある。