受刑者・入院患者は、簡単に節制を実現する

2015年11月27日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2-1-1. 受刑者・入院患者は、簡単に節制を実現する
 日本の刑務所や病院は健康管理がしっかりしていて、これらに入ると節制させられて、出てくるときは、多くが健やかな身体になっている。だが、根はもとのままというひとも多くて、通常の市民生活にもどると、節制は元の木阿弥となる。その食の貪欲さは、そのままだったのであろうが、中では簡単に節制して効果抜群の感じである。節制するに際して、刑務所や病院のあり方を参考にしてみる価値はありそうである。
 僧侶の修行では、たとえば、曹洞宗の永平寺のような厳格なところで修行したというような場合、修行中に節制できているのみでなく、かなり精神的にも厳しく鍛えられて、出てきても、しばらくは変わらず節制できるのが普通である(今のご時世のこと、なかには、出所祝いとばかりに、修行終了とともに風俗街に直行する後継ぎもいるとか)。刑務所・病院は、その点でいえば、やさしいというか、甘えさせて、貪欲をそのままに放置しているということになるのかも知れない。
 刑務所に入る者は、人生をやり直そうと決意しての場合、出家の修行と似たものになり、おそらくは、刑務所での節制は、出所後も維持することであろう。病院の場合、健康の管理は重大事と意識させられる場所である。その入院が契機になって、以後、退院しても、もとの貪欲に帰るのではなく、健やかな姿を維持できるひとも結構いるように見受けられる。


節制は、まずは、外枠をはめて貪欲を閉じ込める

2015年11月20日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2-1. 節制は、まずは、外枠をはめて貪欲を閉じ込める
 節制は、「欲な」欲求を抑制し適正なところでこれを禁欲させる。まずは、「無欲」でない貪欲の「欲」な意地汚い状態であっても、適正さを踏み外せないようにと、そとから枠をはめる。これで一応、過剰な貪欲の横暴は、阻止可能である。
 外枠を定めて、そのうちならどんなに貪欲でもよいというのだが、すきをみてこれを越えてしまうことがあろう。そのとき、枠をこえてしまったと知ることは、自分の貪欲さに気づくということであり、おのれを反省するきっかけとなることでもある。おのれが「欲な」みっともない存在であることを、枠を外すたびに意識すれば、だんだんとこれを改めようということになっていくであろう。
 枠・檻といえば、刑務所や病院が想起される。享楽の外界と分離させられた状態である。自身でそれに似た状態をつくることは、節制では普通にすることであろう。禁煙では、まずは、持っているたばこを捨ててこれとの空間的隔たりをつくるようにする。欲しいと思っても、そばになければ、さしあたりは、吸うことができない。反対に自分の方を隔離して、そういう貪欲を活性化させる場所に行かないこともある。歓楽街へいけば、おいしい物がならんでいて、つい、お腹がすいてもくる。欲求をかき立てるような場所と自分を引き離すことである。性的なものでも、同様である。挑発されるようなものに近づかないことである。食・性の欲求自体は、意地汚く貪欲なままであっても、欲求対象と空間的隔たりを設けておけば、節制のもとめる適正さを踏み外す機会は少なくなる。


節制は、貪欲から無欲へと向かう

2015年11月13日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2. 節制は、貪欲から無欲へと向かう
 節制の対象である快楽欲求は、ある限度までは生にとり有益で、それを越えると有害になる。だが、その欲求自体は、その限度を越えたところから悪しき欲求に変じるものではなかろう。同じ一つの欲求である。過剰となる限度あたりから悪しき欲求になるのではなく、はじめから貪欲だから、限度に到ってもやまず過度な快楽追求を続けてしまうのであろう。その欲求の根本の姿勢が貪欲なものになっているのではないか。
 節制の意志は、欲求充足の一定の限度に到って抑制・禁止として顕在化するとしても、はじめから、欲求の貪欲さ、むさぼる姿勢を戒めるものとして存在しているというべきであろう。好物が並んでおれば、食卓についた当初から今日は控え目にしなくてはと思う。食べ物をガツガツとむさぼる振る舞いを節制は、はじめから戒めて、ゆっくりとよく味わって美味しさ(快楽)を大切にしつつ欲求充足するようにと仕向ける。
 節制をしなくてはと思い立った時には、おそらく過食など快楽をむさぼる欲求は、いわゆる「欲な」状態にある。その欲張りな欲、貪欲を、まずは、節制の枠に押し込めて抑え込み、しだいに、この欲求自体を変えて、「欲な」欲のなくなった「無欲」な欲求にまで変えていくのである。限度を設けて、それ以上が過剰になるから禁じるというのではなく、欲求自体がそのあたりで自然とやむようにと、貪欲でなく無欲なものにと欲求を変えていくのが理想である。節制のもとでの禁欲主義的展開は、最後は、禁欲を無用とする「無欲」にまで到る道となる。


悪習の持続可能性と、良習の永続可能性

2015年11月06日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-1-6-6. 悪習の持続可能性と、良習の永続可能性

 節制では、持続性が求められるが、単に食や性の営みが持続性をもてるようにするだけでよいのではない。悪習も持続する。肥満にせよ、不倫や売春にせよ、それなりにこれを持続可能な形で維持していくことができる。悪習の持続可能性がありうる。節制の求める持続可能性は、食欲と性欲についての良習の持続、永続である。

 現代社会は、食欲も性欲も生に必要以上のものを満たすことができ、その快楽を過剰に享受できる状態にある。慣れてそれが普段のこととなれば、その過剰享受が自身の悪習として持続する。これをいましめ、過剰を抑制して適正な限度にあらため、これを維持し続けようというのが節制である。感性的欲求をほどよく満たしつつ、過剰になって不健全になることを阻止する節制の適正な中庸への制御は、生を健やかなものにする。

 節制は、ほしいままの不健全を抑制する。性的節制では、社会的な秩序をはみ出すものを抑制・禁止することが中心になる。食では、過食とか高価な珍味の贅沢のみのことではなく、資源の浪費とか環境破壊が最近は大きな問題であり、その不健全さを抑制することも節制であろう。自然の頂点に立ってこれを支配する人間にふさわしい適正な営みがなされるべきである。ひとの尊厳は、理性をもっての自然と社会の至高の支配にある。その尊厳にふさわしく、合理的な良習を確立しこれを永続可能性のあるものとして節制に心がけたいものである。