克己の戦い

2010年12月30日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-5. 克己の戦い
 節制は、無人の野をすすむのではない。そのはじめから、手ごわい戦う相手をもっている。その相手とは、自己自身である。敵は、己の感性であり、ときにふらつく己の理性である。節制は、しばしば克己という戦いになる。  
 そとの敵を排撃するのではなく、身のうちにある否定すべきものを敵に見立てて、これを制圧しようというものである。「病気と戦う」「睡魔と闘う」のと同じように、自己のうちにあって自己の思いに反するものについて、これを排除しようと攻撃的に構えるのである。
 感性・欲求が素直であれば、戦いとはならない。節制は、すんなりと進む。感性がエゴに執着するようなとき、理性は、意志を強くもって、感性を抑制・制御することになり、戦うことになる。が、抵抗する感性もまた自分であり、もとより殲滅すべき敵ではなく、根本においては、傷つけてはならない大切な自分自身である。敵とか戦いと形容するのは、極端な場面における誇張である。
 理性が自己自身と戦うこともある。「このおいしいケーキ、これ以上は過食になるが・・」と迷うとき、理性は、葛藤に陥る。だらしない自分(理性)を自己批判し攻撃していくのが節制の戦いとなる。

気力

2010年12月24日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-4-3. 気力
 変革の意志は、しばしば自他の抵抗をうける。打撃をうけて意欲を喪失させられることもあろう。「無気力」になるかもしれない。だが、意志が目的を堅持しておれば、残った力をそこへ注ごうという「気力」を奮い起こすことが可能である。
 意志がはるかな理念をかかげつづけるのに対して、気力は、根気と同様、身体レベルからこの意志を担う。気力は、気持ちを張り注意を集中して意志の支えをする。意志の活動のための気・エネルギーが身体に満ちておれば、「やる気」の「気力」が充実しているのである。
 「最後の気力をふりしぼって」という。意欲等が退散するなか、意志は、最後、気力だけで耐え続けることになる。マラソンでゴール目前、意識は朦朧としつつも、気力を維持してゴールする。意志は、気力をもって、身体的緊張を持続させ、注意集中をはかる。意志が高邁で堅固であれば、気力は鼓舞され持続力を高める。
 節制でも、ときに気力がもとめられる。大食漢が、歯を食いしばって空腹を我慢する状態では、気力がものをいう。あるいは、周囲の大食漢たちが節制の心を乱し「やる気をそぐ」ようなとき、気力をふるいおこすなら、ふらつく気持ちを引き締め注意を節制に集中していくことができる。


根気

2010年12月17日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-4-2. 根気
 困難な課題に、こつこつと取り組み、あきらめず、飽かず、これに耐えつづけるのは、「根気」である。ほかからの誘惑があっても、ことに嫌気がしても、まよわず、一貫して、その課題達成のための活動を続けていく。節制には、単純な食の抑制を、ねばり強く、どこまでも維持・貫徹する「根気」が不可欠である。
 根気の「気」は、身体に即して働く。意志の持続は、理想・理念への信念的な不動であるが、根気の持続は、身体的レベルからの支えをもち、反復をいとわず、手を抜かないで現前の課題との取り組みを黙々とすすめていく姿勢である。
 根気には何といっても忍耐力であるが、工夫・洞察力に富むことも大切である。飽きないように新規のことを加えたり、未来かなたまでを見通して反復の意義を高く評価することである。意志が高遠な世界を目指し高邁で堅固であればあるほど、根気もしっかりしたものになる。
 風雪に耐えて根っこをしっかり張った状態、ねばり(根張り=粘り)が、根気にはある。意欲や情熱を失い、いやになり飽いてきても、根気は、意志の命じた課題を断念することなく堅持しつづけ、身をもって困難に耐え続ける。節制の持続にふさわしい心身の構えである。

意欲

2010年12月09日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-4-1. 意欲
 いやいやでは節制は続かない。これと積極的に取り組もうという姿勢がいる。自発的能動的な「やる気」をもち、意志を進んで貫徹するこころがまえが求められよう。「意欲」がいる。やる気としての意欲は、意志とちがい、おそらくは、困難に出会ったりすると、ときに「意欲をそがれる」。意欲についての浮き沈みは、ふつうに見られる。嫌なことでも「意志」は貫かれるが、いやでは「意欲」はわかない。
 意欲は、まずは根本において「意志」をもち、かつ、それを好み進んで求めるものとしての「欲求」・「欲望」もこれに荷担できているので、「意」「欲」なのであろう。意欲を大きくするには、ことの合理性・意義等をしっかり踏まえていく必要があるが、自身の「欲」に働きかけることもひとつの手となる。それと取り組むことで自分に大きな利益が得られるとか、逆にそれをしないと手ひどいムチが待っていると知ることである。
 「意欲が湧いてきた」という。「意」とすることを好み「欲する」という自発性・能動性に満ち溢れたこころの状態である。やる気満々ということになる。意欲は、意志のように堅いということはない。しばしば、強いで形容する。意欲的であるほどに、妨害等に抗して強くことを進めていくことができる。

まずは意志、そして意欲・根気・気力

2010年12月02日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-4. まずは意志、そして意欲・根気・気力
 節制を持続させるのは、それを貫こうという意志である。さらに、個別主体が節制を積極的に進めていくには、意欲が欲しい。へこたれそうになったときには、根気や気力が求められるであろう。
 まずは、実践理性は、おのれの原理・原則を貫き通す基本姿勢を「意志」でもって示す。最終の目的を明確にし、その意義を十分吟味して、理性は、自己の行動の方向を未来かなたまで明確にしていく。目的と諸手段の連綿とつづくプロセス、途中での妨害・困難を踏まえて、意志はおのれを貫く。意志貫徹は、その対象・客観に対してであり、かつ、反理性となることのある感性・欲求と、ふらつく理性自身に対してである。妨害を排除しておのれを貫くことに優れておれば、「強い意志」が言われる。
 食の節制は、長い期間の後に結果がでる。その途中では、少しぐらい過食したり不摂生であっても、その期間の全体において減量等の目的が達成されておれば、成功である。浮き沈み・臨機応変を可としつつ、節制を貫きとおすものは、意志である。意志は、ことの全体をしっかりと把握し、標的に向けられたレーザー光線のように、冷静にその原理・原則を貫いていく。意志については「堅い意志」をいう。己を貫いて不変・不動である。