1-5. 克己の戦い
節制は、無人の野をすすむのではない。そのはじめから、手ごわい戦う相手をもっている。その相手とは、自己自身である。敵は、己の感性であり、ときにふらつく己の理性である。節制は、しばしば克己という戦いになる。
そとの敵を排撃するのではなく、身のうちにある否定すべきものを敵に見立てて、これを制圧しようというものである。「病気と戦う」「睡魔と闘う」のと同じように、自己のうちにあって自己の思いに反するものについて、これを排除しようと攻撃的に構えるのである。
感性・欲求が素直であれば、戦いとはならない。節制は、すんなりと進む。感性がエゴに執着するようなとき、理性は、意志を強くもって、感性を抑制・制御することになり、戦うことになる。が、抵抗する感性もまた自分であり、もとより殲滅すべき敵ではなく、根本においては、傷つけてはならない大切な自分自身である。敵とか戦いと形容するのは、極端な場面における誇張である。
理性が自己自身と戦うこともある。「このおいしいケーキ、これ以上は過食になるが・・」と迷うとき、理性は、葛藤に陥る。だらしない自分(理性)を自己批判し攻撃していくのが節制の戦いとなる。
節制は、無人の野をすすむのではない。そのはじめから、手ごわい戦う相手をもっている。その相手とは、自己自身である。敵は、己の感性であり、ときにふらつく己の理性である。節制は、しばしば克己という戦いになる。
そとの敵を排撃するのではなく、身のうちにある否定すべきものを敵に見立てて、これを制圧しようというものである。「病気と戦う」「睡魔と闘う」のと同じように、自己のうちにあって自己の思いに反するものについて、これを排除しようと攻撃的に構えるのである。
感性・欲求が素直であれば、戦いとはならない。節制は、すんなりと進む。感性がエゴに執着するようなとき、理性は、意志を強くもって、感性を抑制・制御することになり、戦うことになる。が、抵抗する感性もまた自分であり、もとより殲滅すべき敵ではなく、根本においては、傷つけてはならない大切な自分自身である。敵とか戦いと形容するのは、極端な場面における誇張である。
理性が自己自身と戦うこともある。「このおいしいケーキ、これ以上は過食になるが・・」と迷うとき、理性は、葛藤に陥る。だらしない自分(理性)を自己批判し攻撃していくのが節制の戦いとなる。