3-3-1-3. 報復律も物(商品)の交換も、苦痛の等価交換である
快と不快(苦痛)は、動物を動かす二大原理といってよかろうが、人間社会も、この快苦によって動かされることが多い。快と違い、苦痛が加えられた場合、穏やかに済ますことはできない。かりに他人が苦痛をもたらした場合、ひとは万人同等という思いがあるので、その苦痛に相当するものを返さないと収まらない。いわゆる「目には目を」という同害報復、報復律をひとは、古来、社会の大原理としてきた。「目には目を」は、損傷を受けたことへの報復を語るが、それは、同時に苦痛ということでもある。むしろ、苦痛の方が中心かも知れない。苦痛がある場合は、かりに損傷はなくても、許しがたいものとなる。ひとは、苦痛感情を生じると嫌悪・抑鬱・煩悶等の強い生否定的な事態に陥る。不当に加えられたそのような苦痛は、そっくりそのままこれを返さないではおれない。
人は、社会的存在として他者との交わりのなかに生き、苦痛には同じ苦痛で応える報復律をもつが、身近な間では、快(の贈与)には快(のお返し)で応えることも多い。さらに、快と苦を織り交ぜた巧みな交わりもなしてきた。その代表は、他者との間の物々(商品)交換であろう。そこでは、欲しいものを手に入れ、自分からは余っているものを渡すわけだが、その交換は、本来、人同士は対等であれば、交換する物が同価値をもっていることを踏まえて行われる。相互の欲しいという欲求・快の程度は同じだとしても、コップ一杯の水とこぶし大のヒスイの原石では、後者をもった者は、その原石を得るための苦労を想起して交換に納得しない。そこで交換の価値は、結局は、かかった苦労の等しさとなる。つまり、そのものの確保に、どれだけの苦が、苦痛が必要だったか、どれだけそこに苦痛が結晶しているのかということである。苦痛の等しさをもって他者との間の交換は成り立つこととなる。報復律の、等しい苦痛という発想は、商品交換、商品社会の根底にもあるといえよう。
ただし、報復律では、苦痛は相互にその相手が加えるものだが、商品交換では、苦痛は、自分が自分に加えたものである。さらに、報復律では、相互の個人的な痛みが中心になるのに対して、商品交換での苦痛・苦労は、作りあげた価値物(欲求充足の快)を見てその苦を推定するもので、一般的な人間的苦労の視座から見られる。つまり、いくら大きな苦痛をもって作ったものであっても、それは見られない。苦痛そのものが欲しいわけではなく、(苦痛を有効に使って)作られた物(価値物・快)が肝心で、それを享受しようというのである。一般的にどの程度の苦労で出来るものなのかということを見る。というか小さな苦痛で効率よく作ったものが(安価になり)基準になる。したがって不器用な者が大きな苦痛をもって作ったからといっても、その苦痛の大きさは顧みられない。その点、報復律では、お互いの経験する苦痛そのものをしっかりと見る。自分が被った痛みをそっくりそのまま(しばしば懲罰等の利子分を加えて)、相手に返したいのである。
快と不快(苦痛)は、動物を動かす二大原理といってよかろうが、人間社会も、この快苦によって動かされることが多い。快と違い、苦痛が加えられた場合、穏やかに済ますことはできない。かりに他人が苦痛をもたらした場合、ひとは万人同等という思いがあるので、その苦痛に相当するものを返さないと収まらない。いわゆる「目には目を」という同害報復、報復律をひとは、古来、社会の大原理としてきた。「目には目を」は、損傷を受けたことへの報復を語るが、それは、同時に苦痛ということでもある。むしろ、苦痛の方が中心かも知れない。苦痛がある場合は、かりに損傷はなくても、許しがたいものとなる。ひとは、苦痛感情を生じると嫌悪・抑鬱・煩悶等の強い生否定的な事態に陥る。不当に加えられたそのような苦痛は、そっくりそのままこれを返さないではおれない。
人は、社会的存在として他者との交わりのなかに生き、苦痛には同じ苦痛で応える報復律をもつが、身近な間では、快(の贈与)には快(のお返し)で応えることも多い。さらに、快と苦を織り交ぜた巧みな交わりもなしてきた。その代表は、他者との間の物々(商品)交換であろう。そこでは、欲しいものを手に入れ、自分からは余っているものを渡すわけだが、その交換は、本来、人同士は対等であれば、交換する物が同価値をもっていることを踏まえて行われる。相互の欲しいという欲求・快の程度は同じだとしても、コップ一杯の水とこぶし大のヒスイの原石では、後者をもった者は、その原石を得るための苦労を想起して交換に納得しない。そこで交換の価値は、結局は、かかった苦労の等しさとなる。つまり、そのものの確保に、どれだけの苦が、苦痛が必要だったか、どれだけそこに苦痛が結晶しているのかということである。苦痛の等しさをもって他者との間の交換は成り立つこととなる。報復律の、等しい苦痛という発想は、商品交換、商品社会の根底にもあるといえよう。
ただし、報復律では、苦痛は相互にその相手が加えるものだが、商品交換では、苦痛は、自分が自分に加えたものである。さらに、報復律では、相互の個人的な痛みが中心になるのに対して、商品交換での苦痛・苦労は、作りあげた価値物(欲求充足の快)を見てその苦を推定するもので、一般的な人間的苦労の視座から見られる。つまり、いくら大きな苦痛をもって作ったものであっても、それは見られない。苦痛そのものが欲しいわけではなく、(苦痛を有効に使って)作られた物(価値物・快)が肝心で、それを享受しようというのである。一般的にどの程度の苦労で出来るものなのかということを見る。というか小さな苦痛で効率よく作ったものが(安価になり)基準になる。したがって不器用な者が大きな苦痛をもって作ったからといっても、その苦痛の大きさは顧みられない。その点、報復律では、お互いの経験する苦痛そのものをしっかりと見る。自分が被った痛みをそっくりそのまま(しばしば懲罰等の利子分を加えて)、相手に返したいのである。