報復律も物(商品)の交換も、苦痛の等価交換である

2023年01月31日 | 苦痛の価値論
3-3-1-3. 報復律も物(商品)の交換も、苦痛の等価交換である 
 快と不快(苦痛)は、動物を動かす二大原理といってよかろうが、人間社会も、この快苦によって動かされることが多い。快と違い、苦痛が加えられた場合、穏やかに済ますことはできない。かりに他人が苦痛をもたらした場合、ひとは万人同等という思いがあるので、その苦痛に相当するものを返さないと収まらない。いわゆる「目には目を」という同害報復、報復律をひとは、古来、社会の大原理としてきた。「目には目を」は、損傷を受けたことへの報復を語るが、それは、同時に苦痛ということでもある。むしろ、苦痛の方が中心かも知れない。苦痛がある場合は、かりに損傷はなくても、許しがたいものとなる。ひとは、苦痛感情を生じると嫌悪・抑鬱・煩悶等の強い生否定的な事態に陥る。不当に加えられたそのような苦痛は、そっくりそのままこれを返さないではおれない。
 人は、社会的存在として他者との交わりのなかに生き、苦痛には同じ苦痛で応える報復律をもつが、身近な間では、快(の贈与)には快(のお返し)で応えることも多い。さらに、快と苦を織り交ぜた巧みな交わりもなしてきた。その代表は、他者との間の物々(商品)交換であろう。そこでは、欲しいものを手に入れ、自分からは余っているものを渡すわけだが、その交換は、本来、人同士は対等であれば、交換する物が同価値をもっていることを踏まえて行われる。相互の欲しいという欲求・快の程度は同じだとしても、コップ一杯の水とこぶし大のヒスイの原石では、後者をもった者は、その原石を得るための苦労を想起して交換に納得しない。そこで交換の価値は、結局は、かかった苦労の等しさとなる。つまり、そのものの確保に、どれだけの苦が、苦痛が必要だったか、どれだけそこに苦痛が結晶しているのかということである。苦痛の等しさをもって他者との間の交換は成り立つこととなる。報復律の、等しい苦痛という発想は、商品交換、商品社会の根底にもあるといえよう。
 ただし、報復律では、苦痛は相互にその相手が加えるものだが、商品交換では、苦痛は、自分が自分に加えたものである。さらに、報復律では、相互の個人的な痛みが中心になるのに対して、商品交換での苦痛・苦労は、作りあげた価値物(欲求充足の快)を見てその苦を推定するもので、一般的な人間的苦労の視座から見られる。つまり、いくら大きな苦痛をもって作ったものであっても、それは見られない。苦痛そのものが欲しいわけではなく、(苦痛を有効に使って)作られた物(価値物・快)が肝心で、それを享受しようというのである。一般的にどの程度の苦労で出来るものなのかということを見る。というか小さな苦痛で効率よく作ったものが(安価になり)基準になる。したがって不器用な者が大きな苦痛をもって作ったからといっても、その苦痛の大きさは顧みられない。その点、報復律では、お互いの経験する苦痛そのものをしっかりと見る。自分が被った痛みをそっくりそのまま(しばしば懲罰等の利子分を加えて)、相手に返したいのである。

動物の苦痛をどう見るか

2023年01月24日 | 苦痛の価値論
3-3-1-2. 動物の苦痛をどう見るか  
 人間の苦痛は、万人に共通で普遍的と見られている。動物もおそらく同じく苦痛をもつのだろうが、これと人の苦痛は共通・同等とはせず、魚とか昆虫などになると苦痛はないかのようにして関わるのが普通である(苦痛は内面的なものだから、人間の苦痛ですら、無いかのようにして無視することができる)。だが、どんな動物にも痛覚のないはずがない。植物は、中枢をもたず、損傷をうけても中枢へと痛み伝達をするような機能はなく、その部位での損傷対応に終始することで、動物のような痛みは存在しない。これに対して動物は、中枢があって、身体はその中枢のもとに一体となって動く。腕を蜂に刺された痛覚刺激は中枢へと伝達され、それ以上の痛み(侵害)を阻止するために、足を動かし身体全体をもって蜂から逃げる。痛み情報は、動物的な生の保護・保存の大前提である。
 「動物に痛みを与えることは残酷だからやめなくてはならない」といった思いは、動物に感情移入して我が事と捉えるところでは自ずと生じてくるものであろう。自身がそういう苦痛を甘受させられるのは到底耐えられないことであり、動物でも同じだと想像する。それは、優しく尊い心構えである。だが、痛みを与えること即残酷・悪と見なすのは、単純化し過ぎであろう。ひとでも、忍耐では苦痛を甘受する。耐えがたい苦痛でも、大きな価値ある目的のためにはやむを得ないこととしてみずからに受け入れる。無意味に弱者を弄ぶ醜悪で残酷な苦痛もあるけれども、多くの苦痛は、そうではない。
 動物は、快と不快(苦痛)を二大原理にした衝動をもって動く。生の自己保存は、その二つで営まれるが、快ばかりということは無理であり、苦痛があるから損傷を免れて自己保存のなることもある。鹿は、草木の自己保存を否定してこれを食べて、その自己保存、快を実現する。虎は、自己保存のために鹿を食べ快を得る。鹿は、虎に襲われるとき、苦痛をもって応じ、その逃走力が大きければ、自己保護を実現する。が、その苦痛をもっての逃走力が弱ければ、自己保存はならず、食べられることになる。苦痛は、快とともに、生の自己保存の営為を駆り立てる根本衝動である。苦痛はなしにしたいということは自然の生の営為のもとでは、無理な相談になるであろう。虎に襲われた痛ましい鹿は見るに忍びないことではあるが、快・不快(苦痛)を根本衝動として動く動物の場合、苦痛もやむを得ないことと、この自然の大局的な見地のもとでは見なすべきなのであろう。

苦痛の普遍・共通の扱いは、社会の根本的な要請である

2023年01月17日 | 苦痛の価値論
3-3-1-1. 苦痛の普遍・共通の扱いは、社会の根本的な要請である
 苦痛は、各自における個人的主観的な反価値であるが、大きな反価値であり、社会関係のもとで生じるものとしては特に無視しがたいものであって、真剣な対応が必要となる。個人的主観的な苦痛であるけれども、体験的に、相互に同等と想定できるので、これを共通したものとみなして普遍化していく。苦痛は、どこまでも個人の主観内の出来事でしかないが、強い反価値をもったものとして、社会を動かす大きな力となる。主観的な妄念がまれに社会を騒動に巻き込むことがあるが、苦痛の場合は、まれにではなく、確実な影響力をもつ。主観的苦痛のもととなる損傷は、客観的なもので生保護が否定された状態になるから、重大事である。その主観的な警告が苦痛で、その苦痛自体、回避衝動をもった強烈な不快感情であり、無視・放置を許さない。
 苦痛は、反価値であるから、他者との間で償うとしたら、そのマイナスを計量して、それに見合う、これをゼロにするような操作が求められる。物的な損傷であれば、それに見合う物をもって埋めれば、元に返すことができる。同じようにして、苦痛は、そのマイナスを相殺できるプラスの価値の快をもって埋めることができる。それができないなら、その苦痛をもたらした者に同じ苦痛を返すことをもってする。「目には目を」の報復律である。報復律が可能になるには、苦痛が万人に共通と普遍化されているのでなくてはならないであろう。普遍化は困難な個人的主観的な苦痛であるが、これを無理やりにも普遍化し量化もすることが社会的に要請される。
 心身が、人間であれば似通っているから、苦痛も似通っているはずと前提して、苦痛を普遍化する。身体の損傷には、だれもが痛覚をもっていてその刺激を脳に伝達し、それを踏まえてほぼ同じように苦痛の反応・表現をする。似通っていることがその度に確認できる。王さまの歯痛も奴隷の歯痛も同一だと思って間違いない。所有物とか教養だと、かなり個人的階層的に違いがあろうが、苦痛を感じる度合いは、生理的なものであれば特に、万人同じと前提して通る。

苦痛は、個人も社会も無視できない反価値 

2023年01月10日 | 苦痛の価値論
3-3-1. 苦痛は、個人も社会も無視できない反価値  
 苦痛は、生の損傷において抱くもので、シビアな問題となる。苦痛を抱くのは、本源的には損傷が生じるからであろうが、かりに損傷はなくても、苦痛があった場合、苦痛回避の反応を伴い、嫌悪される反価値であり、苦痛は、無視・放置することができない。他人が苦痛をもたらした場合、許しがたいものとして、排撃・反撃の構えを作らずにはおれない。犯罪者には懲罰を加えるが、損傷よりは苦痛をもってすることが主となる。かつてポピュラーだった鞭打ちの刑は、激痛があってのもので、痛みがなく皮膚が損傷するのみだったとすると、髪の毛を切るのと同じで、さして懲罰とは感じられないことであろう。しかし、その刑の痛みは、こたえ、想像するだけで顔をしかめたくなる反価値で、犯罪抑止への効果をもちえた。
 共同的に生きる者において、快をもたらす物事には手助けなど無用で、余裕もあって、切迫的な関りはしなくてもよい。だが、苦痛は、損傷がなくても、その苦痛を火急に回避するようにと衝動を生じることで、その苦痛から逃走するための反応を持ち、しばしば救助や慰めを求める。無視・軽視することのできない感情である。苦痛がそとから加えられたのであれば、ただちに報復もしたくなる。その本源的な感情を定着させたのが「目には目を」の報復律であろう。損傷には、同じ損傷で報いるということであるが、それ以上に、苦痛には苦痛でということを思い描くであろう。苦痛は、万人が同じものをもっていると前提して、そう報復したくなるのである。人間は、身体的外見からして、かなり同一性が高く、内面も同一とみなしやすい。これが、ひとりは、雨蛙大で、もう一人は、象のようなものだったとすると、同じ刺激では、その抱く苦痛は相当に異なる。したがって自分の苦痛を前提にして相手の苦痛を測ることも、相当に困難となろう。だが、ひと同士は、心身がほぼ同じなので、同一の苦痛をいだくものと想定しやすい。
 同じ苦痛というが、あくまでも、他人のそれは、自分の苦痛から推測してのことである。他人の苦痛を直に感じることはできない。しかし、一般的に、似通っていることが相互の体験の反復から想像でき、弁慶の泣き所を強打すれば万人が涙の出るような痛みを生じるのであり、そう判定していて間違いなさそうなので、痛みは、みんな同じだと前提していくことになる。快は、同じであろうと同じでなかろうと、切迫的な危険な事態などにはならないから、放置しておいてもよい。だが、苦痛は、損傷をもたらし、その苦痛は放置しがたく辛いものなので、自身のそれと同時に他者のそれにも細心の注意が求められる。

個の主観的な痛みだが、万人に共通で普遍的と見なされる

2023年01月03日 | 苦痛の価値論
3-3. 個の主観的な痛みだが、万人に共通で普遍的と見なされる
 苦痛は、個人のうちの主観的なものであって、直接的には当人しかそれを知ることはできない。だが、苦痛は、反価値で回避・排除したい筆頭になるといってもいいもので無視しがたいものとして、自身は勿論、何らかの対応を周囲の者にも迫る。家族など周囲の者は、苦痛を感じて救済を求める身近な者の様子を見て、わが身に体験した苦痛を踏まえて、その反価値回避の強い衝動を感じ取り、放置しがたいものとする。苦痛は、主観的で個別的であり、客観化・普遍化し難いものではあるが、誰にも共通と見なして普遍化する必要にせまられる。
 苦痛の発生源になる損傷は、客観的なもので、身体の損傷など、本人が気づかなくても周囲は気づくことができるぐらいである。これに対して苦痛は、あくまでも本人の内的な出来事であり、だれも直接的には知りえない。周囲に知られたくないと思えば、どんなに苦痛が大きくても、これに知らぬ顔をして、内的なその苦痛は、ほかの者には無にとどめて置ける。だが、当人には、苦痛は、回避・逃走への強い衝動をもったマイナスの重大事であり、外的には清朗の装いをするとしても、内面においては狂瀾怒濤の状態である。であればこそ、その苦痛を知った周囲の者は放置できず、苦痛を小さくしたり消滅させることができないものかと気をもむことになる。快ならその感情状態がどうであろうと、放っておいてもよいことが多いが、苦痛では、救済や慰めを求めずにはおれない窮状に陥るのであり、身近な者は放置できないこととなる。どこまでも主観的な苦痛であるけれども、それをそとから推定して測り、自他において共通とみて、これを普遍化し、それに見合う対応が迫られる。
 ひとの苦痛は、主観的なものだから直接には感じえないが、自身の苦痛の体験、表現や振る舞いをもとにし、他者のそれらを見ながら、万人同じに違いないという思いを重ねる中で、苦痛は、普遍的なもの、共通と見なすことになっていく。人は、社会的動物であり、相互の関りを必須とする。苦痛は、しばしば周囲との関りの中で生じるもので、耐えがたい苦痛であることを承知し合って、万人に共通・普遍とみなして、苦痛をやり取りし助け合いながら交わることである。