2-5-4. 広義と狭義の忍耐への区別
忍耐は、苦痛にすることはまちがいないが、苦痛の原因については、関与しない場合もあれば、忍耐する対象に含める場合もある。苦痛の原因への忍耐は、一律には決められない。単純化していえば、狭義の忍耐は、主観のうちの苦痛のみを対象にし、広義には、苦痛だけではなく、その客観的な原因も対象にするということになろうか。
忍耐は苦痛にする。苦痛は、主観のうちのみにあるものだから、忍耐は、主観内の苦痛にかかわるのみで、その限りでは、そとの事物(原因物)には直接にはかかわらない。狭義の忍耐はこれである。だが、内の苦痛と外の物が密着している場合、うちの苦痛ではあるが、苦痛(たとえば、熱さの苦痛)を取り扱うことは、同時にそとの原因物(熱湯)に対処することともなる。さらに、離れている原因でも、苦痛発生の原因になるのであれば、苦痛への忍耐をするに際して、無視できないことも生じる。客商売などでは、苦痛が生じそうなら、つまり、そとの原因があれば、「我慢願います」という。広義の忍耐を問題とすべきこととなる。
忍耐する意志が現にそこで働いておれば、忍耐である。だが、苦痛が断続的であったり、時々しか生じないとすると、その間は忍耐の構え・準備をしているだけになる。苦痛がなくても、その間、苦痛向けの姿勢はとって忍耐の構えをとるのであれば、これは、忍耐のうちのこととなるであろう。苦痛はなくても、その原因があれば、その原因を注視して苦痛発生を招かないように、あるいは、発生したら苦痛回避の衝動を抑止するためにと、その構えをとっているのである。だが、実際にそれが働いて苦痛回避衝動を抑止する忍耐は、苦痛顕在化の時点のみでのこととなる。狭義には、発生した苦痛と対決するのが忍耐である。
忍耐としての辛抱では、実際に苦痛に対決する場面は一時のことであろう。それでも、姿勢としては、その全期間にわたって、その苦痛から逃げないという姿勢をもって構えているのである。禁煙の忍耐(辛抱)は、実際に喫煙衝動とその苦痛がなくても、持続して、衝動が生じないようにアメをなめたり、たばこをそばにおかないなどの苦労をする。それらもふくめて辛抱・忍耐であろう。苦痛の原因に関与しているだけの段階も忍耐のうちとなろう。「我慢」は、現に苦痛があり苦痛を対象にする狭義の忍耐が中心になり、「辛抱」は、苦痛になりそうなことを含めての対応となり、広義の忍耐になることが多くなろうか。
欲求への忍耐では、その快欲求を抑制することが苦痛でなければ、忍耐ではなかろう。その抑制が苦痛になってからは、間違いなく忍耐である。しかし、どの時点から苦痛になるかは、周囲はもちろん本人にも決めにくいところがあるなら、欲求の抑制自体を忍耐とすることがあろう。とくに、商売などで、客の欲求を抑制することがあるときは、苦痛が生じるかどうかは分からないがその可能性があれば、「我慢願います」と忍耐をもってするのが普通であろう。外部から見る場合、苦痛は見えにくいから忍耐も見えにくい。広く忍耐をとるべきことになっていく。苦痛の可能性がありそうなら、実際には、だれも苦痛ではなく、忍耐も無用だったとしても、「我慢してください」ということになる。客の方も、我慢・忍耐への構えはとることになろう。あとで、その広義の忍耐について、「我慢が必要でしたか」と聞いて、必要だったかどうかを判断するのは、そこで苦痛が生じたかどうかにかかるであろうから、その場合は、狭義の、苦痛の忍耐を忍耐として意識することになる。
忍耐は、苦痛にすることはまちがいないが、苦痛の原因については、関与しない場合もあれば、忍耐する対象に含める場合もある。苦痛の原因への忍耐は、一律には決められない。単純化していえば、狭義の忍耐は、主観のうちの苦痛のみを対象にし、広義には、苦痛だけではなく、その客観的な原因も対象にするということになろうか。
忍耐は苦痛にする。苦痛は、主観のうちのみにあるものだから、忍耐は、主観内の苦痛にかかわるのみで、その限りでは、そとの事物(原因物)には直接にはかかわらない。狭義の忍耐はこれである。だが、内の苦痛と外の物が密着している場合、うちの苦痛ではあるが、苦痛(たとえば、熱さの苦痛)を取り扱うことは、同時にそとの原因物(熱湯)に対処することともなる。さらに、離れている原因でも、苦痛発生の原因になるのであれば、苦痛への忍耐をするに際して、無視できないことも生じる。客商売などでは、苦痛が生じそうなら、つまり、そとの原因があれば、「我慢願います」という。広義の忍耐を問題とすべきこととなる。
忍耐する意志が現にそこで働いておれば、忍耐である。だが、苦痛が断続的であったり、時々しか生じないとすると、その間は忍耐の構え・準備をしているだけになる。苦痛がなくても、その間、苦痛向けの姿勢はとって忍耐の構えをとるのであれば、これは、忍耐のうちのこととなるであろう。苦痛はなくても、その原因があれば、その原因を注視して苦痛発生を招かないように、あるいは、発生したら苦痛回避の衝動を抑止するためにと、その構えをとっているのである。だが、実際にそれが働いて苦痛回避衝動を抑止する忍耐は、苦痛顕在化の時点のみでのこととなる。狭義には、発生した苦痛と対決するのが忍耐である。
忍耐としての辛抱では、実際に苦痛に対決する場面は一時のことであろう。それでも、姿勢としては、その全期間にわたって、その苦痛から逃げないという姿勢をもって構えているのである。禁煙の忍耐(辛抱)は、実際に喫煙衝動とその苦痛がなくても、持続して、衝動が生じないようにアメをなめたり、たばこをそばにおかないなどの苦労をする。それらもふくめて辛抱・忍耐であろう。苦痛の原因に関与しているだけの段階も忍耐のうちとなろう。「我慢」は、現に苦痛があり苦痛を対象にする狭義の忍耐が中心になり、「辛抱」は、苦痛になりそうなことを含めての対応となり、広義の忍耐になることが多くなろうか。
欲求への忍耐では、その快欲求を抑制することが苦痛でなければ、忍耐ではなかろう。その抑制が苦痛になってからは、間違いなく忍耐である。しかし、どの時点から苦痛になるかは、周囲はもちろん本人にも決めにくいところがあるなら、欲求の抑制自体を忍耐とすることがあろう。とくに、商売などで、客の欲求を抑制することがあるときは、苦痛が生じるかどうかは分からないがその可能性があれば、「我慢願います」と忍耐をもってするのが普通であろう。外部から見る場合、苦痛は見えにくいから忍耐も見えにくい。広く忍耐をとるべきことになっていく。苦痛の可能性がありそうなら、実際には、だれも苦痛ではなく、忍耐も無用だったとしても、「我慢してください」ということになる。客の方も、我慢・忍耐への構えはとることになろう。あとで、その広義の忍耐について、「我慢が必要でしたか」と聞いて、必要だったかどうかを判断するのは、そこで苦痛が生じたかどうかにかかるであろうから、その場合は、狭義の、苦痛の忍耐を忍耐として意識することになる。