性的節制は、夫婦の間では用がない

2016年06月24日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-1-2. 性的節制は、夫婦の間では用がない
 節制は、快楽の節制であり、生に必須の食欲と性欲の抑制を主とした規範である(古代ギリシャのむかしからこのふたつに限定されてきた。このことに関しては『節制論(講義ノート)』(http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00040174)4-3-6-1 以下の管見を参照ください)。両欲求における快楽享受の過度を戒める。だが、性の快楽の場合、それを楽しみとする夫婦の間では、抑制は無用で、毎夜でも存分にこれを享受したらいいのである。節制は、通常、夫婦の楽しみを抑えることはない。節制は、快楽享受での健やかさを求め、性的節制では、主として社会的健全さからの逸脱を戒め、これを厳禁とする。夫婦間では快楽の抑制つまり節制は無用で、夫婦間以外への逸脱は、節制ではなく禁止である。こう見る限りでは、節する節制の出番はない。
 古来、「殺すな」とならべて、「姦淫するな」は、どこでも根本の戒となっていた。これらは、ときに強い欲求・衝動となる。多くの者が人生に一度や二度は「くそっ、死ね!」等と妄念をいだいたことはあろうが、その自然的な衝動・欲求の恣の充足は、自他と社会の安寧を著しく損なう。社会はこれに死刑などの重罰をもって厳しい対応をし、各人はこれを自身のうちでの禁戒として堅持してきた。妄想はしても、夢と現実は峻別するのがひとである。ときに破壊的で醜悪になる自然的欲求を制御・抑制できるのが人間であり、現実に殺人をするものは希で、姦淫も希である。いずれも節制することでは済まされず、姦淫は、殺人同様、厳禁である(殺人の方は、例外があり、英雄は殺害の多さを競い、仇討ちは賞賛された。だが、姦淫は、常に、唾棄すべき背徳で禁止であった)。
 長い歴史のなかで、性的節制では、売春とか一夫の多妻が言われえた。ほどほどにと。だが、これは、人間の尊厳をかかげる現代社会では、やはり禁止であって、節制して済むものではない。異常性愛も、多くは禁止であり節制では済まない。性的逸脱といえばマスコミでは不倫がしばしば話題となるが、当然、ほどほどにと節することではなく禁止が前提になってのものである。仮にそういう場に直面したとすると、過度にならないようにという節制ではなく、厳しく欲求を抑制し禁欲を貫くことが求められる。性的快楽の抑制についても、食と同様に、節制では不十分となるように思われる。

 


食の節制は、不味いものの甘受には関与しない

2016年06月17日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-1-1. 食の節制は、不味いものの甘受には関与しない
 ひとは、生の健やかさを求めて節制する。美味しいものを食べ過ぎて不健康になることがないようにと、節制は、美味の過食を抑制する。他方で、健やかであるには、必要な食物は、不味くて食が進まないとしても、これを無理してでも摂取しなくてはならない。食での「養生」をいう場合は、美味(快楽)の過食を節するとともに、他方で、きらいなニンジンや納豆でも、必要ならこれの摂取をすすめる。だが、養生とちがい、節制では、このいやなものの甘受をすすめることはない。かりに「納豆を節制する」ということがあるとすると、それは、養生のように、これが嫌いでも滋養だからと、無理して食べるのではない。これが好物で食べ過ぎるので、節食へと制限すること、快楽享受の抑制を意味するものになろう。節制は、少なめにと節することである。節制は、快楽享受を抑制する営為であって、不快なものを無理して食べることには関与しない。節制では、健康な食の促進に欠けるところがあるというべきである。
 ギリシャの古代から徳目として(食の)節制をいうが、食の快楽を充たして過食することができるようになったのは、庶民ではつい最近のことである。それまでの長い歴史においては過食の節制など無用なものであった。だが、古い時代ほど、庶民においては、食べる物がないとか、あっても不味いものが多かったであろうから、節制とちがい、我慢・忍耐は、常々必要であった。
 あるいは、現代でも、食事を用意する者は、栄養バランスを考えてするから、美味であっても多過ぎないように限定して出し、不味いものでも摂取すべきなら、これを添えてだす。美味の過食は、好き勝手にできるわけではない。そこで必要になるのは、どちらかというと、節制よりは、栄養を考えて出された苦手のニンジンや納豆を無理やり口にいれて我慢して食べることである。「節制を!」ではなく、養生のため滋養のために「我慢を!辛抱を!」という忍耐になる。


節制の物足らなさ

2016年06月10日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1. 忍耐の倫理的な位置
1-1. 節制の物足らなさ 
 おのれを制する徳として、節制がよくあげられる。自身を節し制するということであるが、節制が制するものは狭い。西洋では、古来、節制(temperance)は枢要な徳の一つとされてきたが、その狭義の対象は、快楽享受で際立つ食欲と性欲の二つにほぼ限定されていた。
 自然的には、人も動物も快にはひかれ、不快・苦痛は回避する。だが、ひとは、動物的自然を超越できる存在であり、必要とあれば、快不快の自然から自由になって、自身のこの自然を制し支配することができる。嘔吐しそうな不快なものでも薬となれば、ひとは、これを拒まず甘受することができる。快であっても有害となれば、これにのめり込まず抑制もできる。節制は、そういう自然超越・自由の営為の一つであるが、これは、広義に解されたとしても、快楽の抑制に限定され、もうひとつの自然の不快・苦痛には直接的には関与しない。
 不快や苦痛の回避という自然的対応を抑制する、ひとの超自然・反自然の営為としては、特定の領域に限定された形で、たとえば、恐怖(の不快)の自然的な回避を抑制して勇気が存在している。あるいは、寛容は、他者の有り様を不快に思いつつ、その自然の思いをうちに抑え込んで成り立っている。ひとは、これらに限らず不快や苦痛の全般について、逃げたり排撃したりせず、これを受け入れていく姿勢をとることができる。我慢とか忍耐という構えである。忍耐は、心身に生じた辛苦を甘受して、これから逃げず逆らわず忍び耐えていく卓越した人間的営為になる。


理性存在としての尊厳を自覚した節制でありたい

2016年06月06日 | 中庸としての節制(節制論5)

 

5-3-8. 食欲・性欲の昇華、高度化
 性的欲求は、生理的な充足だけでは満たされない。失恋は自慰では自慰できない。ひとの性欲は、繊細な社会的欲求となり、高度の精神文化のもとに展開されている。一層高度化しては、恋愛文学となり愛の歌となって、性欲は高尚・高貴に華ひらき昇華される。
 食の場合は、絵に描いた餅では充たされない。実際に食べるということを抜きにしたものでは満足はできない。食欲を尊重し、かつ節制のきいた食の様式として、精神的に高度化した懐石、精進料理(僧堂の粗食)のようなものがある。

 

5-3-9. 理性存在としての尊厳を自覚した節制でありたい
 ひとの尊厳は、うちなる自然感性(食欲や性欲等)を理性が制御できることにあるだけではない。自分の周囲に広がる大自然をも合理的に制御できての理性的尊厳である。自然の資源を浪費しこれを枯渇させるまでにいまの人類はなっている。地球にとって貪欲で快楽主義的な寄生虫にとどまっていてはならない。尊厳をもつ人間には、環境と共に清清しく生き、慎ましく、無欲であることが求められているのではないか。

 

〔節制論 完〕

 


「禁欲」と「欲求充足」の支え合い

2016年06月05日 | 中庸としての節制(節制論5)


5-3-7. 「禁欲」と「欲求充足」の支え合い
 美味は過食になるから抑制がいる。他方で、美味は、よい栄養のあるしるしであり摂取の必要もある。その禁欲と欲求の充足をともに満たすことがいる。禁欲は、欲求充足の快楽を大きくし、欲求充足は、禁欲を耐えやすくする。一日という単位となるところで、この禁欲と快楽享受の両方を満たせば、節制は、あまり無理がなく長く続けられることとなろう。
 性欲の節制も同様で、夫婦間以外では全面禁止であるが、夫婦間では大いに淫し乱れたらいいのである(節制は、出産時などの例外を除いて、性欲自体は抑制しない。不倫等への逸脱を禁じるだけである)。

5-3-7-1. 欲求に別の欲求をぶつける
 禁煙中は、口にたばこをもっていく代わりに、ガムや飴を口にしてごまかす。甘い果物類がいけない場合、野菜類で、トマトとか胡瓜といったものでなんとかなる。たばこの代わりのガムとちがって、一応は欲求をおさめることができる。
 遊びに夢中になれば、食欲旺盛な者でも食のことを忘れる。性欲は、ときに長期的に別の欲求がこれを忘れさせる。仕事や研究に没頭する状態では、性的逸脱の身勝手を妄想するどころか、性欲自体が消える。

5-3-7-2. 多方面に楽しみをもてば、食・性等の快楽への執着はやむ
 辛い生の慰安として、確実に得られる飲食等の快楽がときに利用される。だが、過度にのめり込んだのでは、自他に問題がでてくる。人間的な他の種々の営みを快適なものにできることが必要となろう。芸術とかスポーツはそういった楽しみとなる。発明や研究活動も夢中になれるものであろう。仕事も、熱中し生きがいのあるものにと自身で工夫することができるかも知れない。