1-1-2. 性的節制は、夫婦の間では用がない
節制は、快楽の節制であり、生に必須の食欲と性欲の抑制を主とした規範である(古代ギリシャのむかしからこのふたつに限定されてきた。このことに関しては『節制論(講義ノート)』(http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00040174)4-3-6-1 以下の管見を参照ください)。両欲求における快楽享受の過度を戒める。だが、性の快楽の場合、それを楽しみとする夫婦の間では、抑制は無用で、毎夜でも存分にこれを享受したらいいのである。節制は、通常、夫婦の楽しみを抑えることはない。節制は、快楽享受での健やかさを求め、性的節制では、主として社会的健全さからの逸脱を戒め、これを厳禁とする。夫婦間では快楽の抑制つまり節制は無用で、夫婦間以外への逸脱は、節制ではなく禁止である。こう見る限りでは、節する節制の出番はない。
古来、「殺すな」とならべて、「姦淫するな」は、どこでも根本の戒となっていた。これらは、ときに強い欲求・衝動となる。多くの者が人生に一度や二度は「くそっ、死ね!」等と妄念をいだいたことはあろうが、その自然的な衝動・欲求の恣の充足は、自他と社会の安寧を著しく損なう。社会はこれに死刑などの重罰をもって厳しい対応をし、各人はこれを自身のうちでの禁戒として堅持してきた。妄想はしても、夢と現実は峻別するのがひとである。ときに破壊的で醜悪になる自然的欲求を制御・抑制できるのが人間であり、現実に殺人をするものは希で、姦淫も希である。いずれも節制することでは済まされず、姦淫は、殺人同様、厳禁である(殺人の方は、例外があり、英雄は殺害の多さを競い、仇討ちは賞賛された。だが、姦淫は、常に、唾棄すべき背徳で禁止であった)。
長い歴史のなかで、性的節制では、売春とか一夫の多妻が言われえた。ほどほどにと。だが、これは、人間の尊厳をかかげる現代社会では、やはり禁止であって、節制して済むものではない。異常性愛も、多くは禁止であり節制では済まない。性的逸脱といえばマスコミでは不倫がしばしば話題となるが、当然、ほどほどにと節することではなく禁止が前提になってのものである。仮にそういう場に直面したとすると、過度にならないようにという節制ではなく、厳しく欲求を抑制し禁欲を貫くことが求められる。性的快楽の抑制についても、食と同様に、節制では不十分となるように思われる。