苦や忍耐が多いのが逆境だが、わがままという場合もある

2019年05月31日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-2-7. 苦や忍耐が多いのが逆境だが、わがままという場合もある

 苦も快も人ごとに異なる。苦が少なく快・欲求充足に恵まれた境遇にある者も、逆に、苦労が多く欲求不充足が多くて恵まれてない逆境に終始する者もいる。忍耐は、後者においてより多く必要となる。  
 人並みという平均から見て、相当に恵みが少なければ逆境とみなされるが、逆境も順境も、苦労が多い少ないということであれば、それは、当人の生き方によって変わってくるものでもある。スポーツの能力に秀でている者がこれに励もうとするとき、これを伸ばす環境に恵まれていなければ、いくら他の方面では恵まれていても、逆境ということになり、その能力を伸ばすには、不利な環境・境遇にあるということになる。
 恵まれているかどうかは、周囲との比較の問題であり、相対的なものである。経済的事情で大学進学ができないというのは、いまの日本でなら逆境である。が、戦前は、中等学校以上は贅沢というのが普通であれば、そのことは逆境にはならなかった。逆境にあれば、当然、まずは、能力の開発なり物事の成就にかかわって、足を引っ張られることが多く、不快・苦痛の忍耐も多く必要で、順境の者に比して不利となる。
 逆境のもと、多くの苦・不快に挑戦してこれに忍耐して足かせ手かせをもったままに努力することは、身体でいえば、大きな筋肉を身につける機会に出会うということでもある。逆境は、順境のものでは体験できず身につけられない能力を開発することになる。このため、ときに、逆境のものが秀でた結果をもたらす。苦労はひとを鍛え上げる。長い人生では、先立つ者の遺産をつかえない逆境の者が順境の者以上のことをなしとげるのが普通となる。
 苦境を忍耐して伸びてくるひとは、この苦をつぎには苦としなくなる。周囲の順境の者には、苦痛となるようなことが平気となり、苦でなくなっている。したがって、忍耐もいらないということになる。順境のひとなら苦であり、多大な忍耐がいると思えるものが苦でなく忍耐無用となる。忍耐力は、苦難・苦痛に対処することであるから、ほかの方面の苦痛にも対応できる能力になり、逆境で身につけた忍耐力は、他の方面でもすぐれた対応を可能とする。つまり、人間そのもの、人格そのものを、苦境に強い存在にと高めることになる。「若いときの苦労は買ってでもせよ」という所以である。
 ただし、苦痛を感じ、忍耐する状態にあるのは、逆境のひとであるよりは、わがままなひとである場合もある。逆境に生きるものは、苦痛を苦痛と感じることは少ない。自分は苦労していると感じ、「我慢している」ともらすのは、どちらかというと、わがままでそうなっていることが多いのではないか。普通のものなら、とっくに苦を経験し忍耐を経験して苦でも忍耐でもなくなっているのに、身勝手な者は、それをしていないから、なにかあると、苦痛に思い、この苦痛から逃げる身勝手を続けているので、いつまでも、幼児的に不快・苦痛を反復しつづける。わがままなものは、いつまでも幼児的で自制心も発育不全にとどまり、普通には不快とも苦痛とも思わないものをも苦痛と感じて我慢し、我慢することが続かないので、忍耐力も身につかず、よけいな苦痛と忍耐を反復する。世界は自分を中心にまわっているという幼児的な世界にいきるエゴイストは、町でひとが自分の気に食わない服装をしていると不快になり我慢を強いられる。だが、世界は自分中心には動いていないことを体験し苦痛と忍耐を重ねつつ育った者は、そんなものは、風景のひとつにみなして無視するから不快ではなく我慢など思いつくこともない。


苦や忍耐が多いとは、超自然の人間的な高みに生きることが多いということ

2019年05月24日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-2-6. 苦や忍耐が多いとは、超自然の人間的な高みに生きることが多いということ

 快不快の動物的自然状態にひとも普段は生きる。だが、それが生に不都合だとかその状態を拒絶すれば大きな価値が獲得可能というようなとき、ひとは、自然を超越して、苦痛を受け入れ忍耐し、快の欲求を抑制して不快を受け入れることができる。食や性の快不快の自然状態を抑制して不快・苦痛を甘受して、節制という、よりよい人間的な生のあり方をとる。忍耐をもって動物的自然を超越し、快不快の自然因果の世界から自由になった目的論的な世界の高みにとひとは高まることになる。
 精神的人間的に固有の社会生活において、ひとは、個我として存在していて、この個我・エゴに生きている。身体をもち感情をもった存在として、自分を世界の中心においた日々をすごしている。精神的世界の快不快の感情にしたがうことで概ね、日々はうまく生きていけるようになっている。だが、ときに、個我・エゴを超越して全体に生きる必要が生じる。全体とか普遍性・合理性の基準・規範に自分の個我があわなくなることがある。個を抑制して普遍的に合理的に生きるべきときがある。それは、個を否定したものとしては、しばしば個我には不快・苦痛となり、欲求不充足の不快をもたらす。不安とか絶望の苦痛・苦難は、これを回避することで個我のさしあたりの安寧は確保される。だが、この苦痛回避が全体にマイナスで合理性を欠くような場合、あるいは、個我としても一層の豊かな生をつくるために、これを甘受して忍耐することが必要となる場面が生じる。戦争に参加したり、家族のために自分の進学を断念するというような、個我には耐え難いことを受け入れて忍耐しなくてはならないときがある。忍耐において、ひとは、個我の自分本位の自然状態を超越して、理性・普遍・全体・利他にと生きることができる。
 苦痛・不快への忍耐は、ひとを人間的により高く広い合理的普遍的な生き方をさせる。苦痛も忍耐も、経験する度に、個我を鍛えていく。苦痛に慣れるとこれが平気になることもしばしばである。高い適応能力を身に着けたということになる。忍耐をするという経験は、忍耐力を養う。忍耐するたびに、工夫し忍耐しやすい方法を見つけることにもなる。総じてひとは、忍耐において、おのれを磨くことになる。たくさん苦労し、忍耐をたくさんしてきたひとは、おのれの自然を殺すことをより豊かに経験しているということであり、人格をたくましく鍛えていることにもなる。


精神的生においても不快・苦痛は大問題である

2019年05月17日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-2-5. 精神的生においても不快・苦痛は大問題である

 精神的生では、快は、ひとを動かす力としては小さい。それよりも各領域の価値物(お金とか名誉とか)の獲得が目的としてひとを魅了しひきつける。だが、不快の方は、それ自体が、精神的生でも重大事である。生理的レベルの不快・苦痛は、そこに損傷のあることを示すから、これをないがしろにはできない。精神的生でもその不快・苦痛つまり、絶望・悲嘆などは、価値物獲得が拒絶されたり反価値物が押付けられた状態を示し、これを軽視していたのでは、その生の維持・促進はできなくなる。絶望・不安の辛苦・苦痛は、その生に重大な障害の生じていることを語る。これを逃れて穏やかな生を取り戻そうと、動く。そのことのなるまでの間、精神的な苦痛を抱き続けるが、これに忍耐できねば、自暴自棄になって絶望の苦痛から逃れるために、麻薬をつかったり、ときには、生命自体を絶つようなこともする。だが、忍耐できるひとは、未来に希望の小さな光を見つけて、これに向かって苦痛苦悶を忍び続けることである。
 大きな破壊力をもつ絶望などの精神的な不快・苦痛を、忍耐は、受け入れ甘受しようというのであるから、自らが取り組むその忍耐は、自身の精神的な苦痛・損傷を超えたこれを犠牲にしてもよいという大きく高い価値をそこに見出しているのである。精神的生の苦痛である不安や絶望は、感情である。感情としては、各個の身体反応をもち、それは、各自のその個我のレベルに立っての反応である。個我は、自身の精神的苦痛を回避するようにと動く。忍耐は、この個我の苦痛を甘受するのであるから、これを超えるのであり、個我から自由になるのである。感性的苦痛を超える忍耐が感性を超えて自由の世界を可能とするように、精神的生の苦痛への忍耐は、この個我を超越した普遍的理性的な世界へと飛翔することを可能とする。戦争のために自分を犠牲にすることがあり、家族のために自分の絶望の人生を引き受ける覚悟をすることがある。
 ひとは、不安・絶望などの苦悶から逃げて、快適で安寧の生を営みたいと個我において動く。それが個我の自然である。日々の精神的人間的生の営みは、そのように、不快を排撃し快(快適・安心・安楽)を伴う価値を求めて展開されている。だが、忍耐は、これを拒否して、絶望の苦悶に耐えて、その苦痛を犠牲・手段にしてなりたつ高度なより大きな価値あるものを獲得しようとする。かつ、しばしばそれ以上に、その忍耐で生み出される価値として、絶望の苦悩を通して鍛えられる自身の強靭な精神的能力の形成がある。苦難を乗り越えていくなかで人格が磨かれてできあがっていくのである。 


ひとの快は、喜び・安心・幸せ等、精神的生にもある

2019年05月10日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-2-4. ひとの快は、喜び・安心・幸せ等、精神的生にもある

 ひとは、動物とちがって高度に精神世界を築き、自然的な快不快を超越して自由の世界に生きる。だが、同時に、ひとは動物でもあるから、動物的生理的な快不快についても、多彩にこれを展開している。食欲は、美味の快楽を欲求するが、この美味について、ひとは、雑食動物として、動植物を食材にしてさまざまの料理をつくり多彩な享受をしている。性欲も、多くの動物とちがい年中発情してこの快楽享受に熱をあげている。生殖にともなう快楽でなく、生殖不能の老人などもこれを楽しむ。少なからざる産業が性欲を利用してコマーシャルを行い快楽主義へとさそっている。ひとの忍耐のうちでも、これらの動物的快楽の抑制、自制は、節制を代表にして大きな位置をしめることがしばしばである。
 高度の精神世界での欲求も、日々に快適さをもとめ安楽をもとめ、快楽を踏まえたものとなっている。生理的生は快楽を目的とするが、精神的人間的世界では、その各領域での価値物獲得が目的になるのが普通である。ただし、この獲得には、有益な好ましいことへの快の反応をもつ。有害なものに不快感をもち、有益なものに快をいだく。快感情自体を求めるのではなく、価値物が目的であるが、快でもあることになっている。その価値物獲得は、快適・安心・安楽・喜び等にと特殊化した快を随伴する。ここでは、食・性の欲求とちがい、純粋な感情的な快のみの場合は、妄想・幻想として唾棄される。目的は、価値物だから、これのない、いわば純粋な喜びは、ぬか喜びとして、不快となる。この価値物獲得に随伴する快は些細で、抑制する必要はあまりなく、忍耐は、精神的な欲求自体の抑制をすることが中心となる。
 幸福・至福は、求められるが、その感情自体は、生じなくてもよい。恵みが獲得できている状態、これが目的であり、幸せという感情・快感はこれに時たま伴うだけで、幸福感情自体は感じられなくても、幸福であればいいのである。客観的な恵みを有していない純粋な至福の感情は、妄想であり、客観性を欠くのであれば、本質的には不幸せである。酒などの麻薬では、脳を麻痺させたり快楽様物質を脳内にもたらして、多幸感が簡単に体験できるが、単なる主観的な快楽として、息ぬき以上のものにはならない。通常の幸福感は、麻薬をもっての至福の快とちがって、ささやかで過度になることはない。
 幸福ということで抑制・忍耐が問題になるのは、幸福感情ではなく、幸福追求や希望といった、各自にとって至高の価値あるものへの欲求自体の方である。これを、戦争とか貧困といったやむをえない事情で断念するような場合、忍耐が求められることになる。


精神的生では、快は些事で、価値物の獲得が肝要事となる

2019年05月03日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-2-3. 精神的生では、快は些事で、価値物の獲得が肝要事となる

 食とか性の欲求は、快楽をもとめて展開する。だが、精神的な人間固有の高度の欲求になると、快楽は、目的にはならない。もちろん、精神世界でも欲求を充足すれば、快となる。その独特の快として、喜びとか安らぎ等がある。だが、それらは目的とはならない。目的となるものは、各精神的人間的欲求のもとめる固有の価値物である。その目的である価値物を獲得すれば、獲得の快である喜びの感情をともなう。ともなうだけであって食・性の快楽のようにそれ自体が目的となるものではない。食・性の場合は、目的の栄養がなかろうと受精がどうなろうと、快楽であれば、満足する。だが、精神的領域では、純粋に喜びの快のみを味わう「ぬか喜び」は、そこに価値物の獲得がないことが判明したら不快となる。快感情は、このましい価値物獲得に単にともなうだけであり、人間的精神的生においては、些事である。幸福感にしても、単に多幸感を麻薬で得るだけの場合、むなしいこととなる。恵みいう客観的な価値の確保があっての幸福感とちがって、麻薬での幸福感は、裏づけのないむなしい幻想ということになる。 
 忍耐は、快を抑制してその辛苦に耐えるが、ひとの精神的社会的な生のレベルでは、快自体は目的として求められることはなく、この快への欲求の抑圧はほとんど無用である。快抑圧にともなう忍耐はここでは意味がない。精神的人間世界ではその諸領域の各々に固有の価値物があって、経済的価値、芸術的価値、名誉、家族の安寧、国家の繁栄などの価値が目的になり、欲求になる。それが快をともなわなくても問題ではなく、それらの価値物獲得がひたすらな目的になる。快のみで価値物がない場合は、快どころか不快になってしまう。快楽を超越した世界である。
 快楽主義は、快楽を目的とするが、快楽が目的になるのは食や性の動物的レベルにとどまる。快楽主義者は、人間的社会の高度の安全・安寧を利用し寄生しつつ、動物として生きる。社会から唾棄され軽蔑されるのはもっともなことである。