2-3-2-7. 苦や忍耐が多いのが逆境だが、わがままという場合もある
苦も快も人ごとに異なる。苦が少なく快・欲求充足に恵まれた境遇にある者も、逆に、苦労が多く欲求不充足が多くて恵まれてない逆境に終始する者もいる。忍耐は、後者においてより多く必要となる。
人並みという平均から見て、相当に恵みが少なければ逆境とみなされるが、逆境も順境も、苦労が多い少ないということであれば、それは、当人の生き方によって変わってくるものでもある。スポーツの能力に秀でている者がこれに励もうとするとき、これを伸ばす環境に恵まれていなければ、いくら他の方面では恵まれていても、逆境ということになり、その能力を伸ばすには、不利な環境・境遇にあるということになる。
恵まれているかどうかは、周囲との比較の問題であり、相対的なものである。経済的事情で大学進学ができないというのは、いまの日本でなら逆境である。が、戦前は、中等学校以上は贅沢というのが普通であれば、そのことは逆境にはならなかった。逆境にあれば、当然、まずは、能力の開発なり物事の成就にかかわって、足を引っ張られることが多く、不快・苦痛の忍耐も多く必要で、順境の者に比して不利となる。
逆境のもと、多くの苦・不快に挑戦してこれに忍耐して足かせ手かせをもったままに努力することは、身体でいえば、大きな筋肉を身につける機会に出会うということでもある。逆境は、順境のものでは体験できず身につけられない能力を開発することになる。このため、ときに、逆境のものが秀でた結果をもたらす。苦労はひとを鍛え上げる。長い人生では、先立つ者の遺産をつかえない逆境の者が順境の者以上のことをなしとげるのが普通となる。
苦境を忍耐して伸びてくるひとは、この苦をつぎには苦としなくなる。周囲の順境の者には、苦痛となるようなことが平気となり、苦でなくなっている。したがって、忍耐もいらないということになる。順境のひとなら苦であり、多大な忍耐がいると思えるものが苦でなく忍耐無用となる。忍耐力は、苦難・苦痛に対処することであるから、ほかの方面の苦痛にも対応できる能力になり、逆境で身につけた忍耐力は、他の方面でもすぐれた対応を可能とする。つまり、人間そのもの、人格そのものを、苦境に強い存在にと高めることになる。「若いときの苦労は買ってでもせよ」という所以である。
ただし、苦痛を感じ、忍耐する状態にあるのは、逆境のひとであるよりは、わがままなひとである場合もある。逆境に生きるものは、苦痛を苦痛と感じることは少ない。自分は苦労していると感じ、「我慢している」ともらすのは、どちらかというと、わがままでそうなっていることが多いのではないか。普通のものなら、とっくに苦を経験し忍耐を経験して苦でも忍耐でもなくなっているのに、身勝手な者は、それをしていないから、なにかあると、苦痛に思い、この苦痛から逃げる身勝手を続けているので、いつまでも、幼児的に不快・苦痛を反復しつづける。わがままなものは、いつまでも幼児的で自制心も発育不全にとどまり、普通には不快とも苦痛とも思わないものをも苦痛と感じて我慢し、我慢することが続かないので、忍耐力も身につかず、よけいな苦痛と忍耐を反復する。世界は自分を中心にまわっているという幼児的な世界にいきるエゴイストは、町でひとが自分の気に食わない服装をしていると不快になり我慢を強いられる。だが、世界は自分中心には動いていないことを体験し苦痛と忍耐を重ねつつ育った者は、そんなものは、風景のひとつにみなして無視するから不快ではなく我慢など思いつくこともない。