2-3-1-1. 忍耐は、不快・苦痛という回避すべきものをあえて引き受ける
苦痛排除の自然的摂理を、ひとの忍耐は、超越し、苦痛をあえて受け入れる。苦痛を忍ぶということは、そのもとにある生に有害なものを引き受けるということである。注射は皮膚を傷めるから苦痛となる。だが、ひとは、これを我慢して皮膚を若干傷め苦痛を甘受する。それは、その犠牲をもってして、より大きな生の維持を実現できるからである。動物はもとより幼児でも、自然の摂理にしたがって動くから、苦痛の注射からは逃げようとする。だが、それを放置しておくと重大な疾病からの救済ができなくなる。無理やりに苦痛を甘受させ忍耐させることである。
ひとは、因果世界を踏まえつつ、目的論的な世界に生きる。未来に大きな目的を描き、その実現のための手段を見つけて、この手段を実行することで未来の目的へと向かう。その手段は、苦痛・犠牲になることが多く、自然のもとの動物も幼児も回避するが、ひとは、この苦痛を甘受し忍耐することができる。その苦痛の先に、大きな価値のある目的を描いて、不可避の手段の苦痛を引き受ける。自然的には愚かしく見えるその苦痛甘受の忍耐は、自然感性の世界を超越して目的論的世界に生きることを可能にする。
動物も忍耐するが、それは、快選択・不快排除の自然のうちでのことで、熊が蜜の快のために蜂に刺されるのを我慢するように、より多い快楽、より少ない苦痛を選ぶうちで生じる自然的営為にとどまる。だが、ひとは、そこには苦痛しかなかろうと、快より苦痛が大きかろうとも、必要ならあえて苦痛をとって苦痛甘受を踏み台にして高い価値を獲得・実現しようとする。自然の生では回避して受け入れないはずの苦痛のなかへと、無数の苦痛の渦中へと飛び込んでいく。「苦界」は、自然「畜生」界ではなく、苦痛をあえて引き受ける人間界を指すというべきであろう。苦を引き受けるのは、より大きな価値獲得がなるためであり、人間界は、苦界を忍ぶことを通して極楽世界にと近づくのである。