忍耐は、不快・苦痛という回避すべきものをあえて引き受ける

2019年03月29日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-1-1. 忍耐は、不快・苦痛という回避すべきものをあえて引き受ける 
 苦痛排除の自然的摂理を、ひとの忍耐は、超越し、苦痛をあえて受け入れる。苦痛を忍ぶということは、そのもとにある生に有害なものを引き受けるということである。注射は皮膚を傷めるから苦痛となる。だが、ひとは、これを我慢して皮膚を若干傷め苦痛を甘受する。それは、その犠牲をもってして、より大きな生の維持を実現できるからである。動物はもとより幼児でも、自然の摂理にしたがって動くから、苦痛の注射からは逃げようとする。だが、それを放置しておくと重大な疾病からの救済ができなくなる。無理やりに苦痛を甘受させ忍耐させることである。
 ひとは、因果世界を踏まえつつ、目的論的な世界に生きる。未来に大きな目的を描き、その実現のための手段を見つけて、この手段を実行することで未来の目的へと向かう。その手段は、苦痛・犠牲になることが多く、自然のもとの動物も幼児も回避するが、ひとは、この苦痛を甘受し忍耐することができる。その苦痛の先に、大きな価値のある目的を描いて、不可避の手段の苦痛を引き受ける。自然的には愚かしく見えるその苦痛甘受の忍耐は、自然感性の世界を超越して目的論的世界に生きることを可能にする。
 動物も忍耐するが、それは、快選択・不快排除の自然のうちでのことで、熊が蜜の快のために蜂に刺されるのを我慢するように、より多い快楽、より少ない苦痛を選ぶうちで生じる自然的営為にとどまる。だが、ひとは、そこには苦痛しかなかろうと、快より苦痛が大きかろうとも、必要ならあえて苦痛をとって苦痛甘受を踏み台にして高い価値を獲得・実現しようとする。自然の生では回避して受け入れないはずの苦痛のなかへと、無数の苦痛の渦中へと飛び込んでいく。「苦界」は、自然「畜生」界ではなく、苦痛をあえて引き受ける人間界を指すというべきであろう。苦を引き受けるのは、より大きな価値獲得がなるためであり、人間界は、苦界を忍ぶことを通して極楽世界にと近づくのである。

 


自然的生は、快・不快で動き、不快(苦痛)回避で生を保護する

2019年03月22日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-1. 自然的生は、快・不快で動き、不快(苦痛)回避で生を保護する  
 忍耐は、不快・苦痛を忍び甘受し、快・欲求の享受を抑制して耐え忍ぶ。だが、動物的自然の世界では、これは、異常なことである。自然は、快をもとめ、不快・苦痛を避けることを基本とする。快を求めることで生は促進される。不快・苦痛を避けることで有害なものを回避することができる。
 忍耐の苦痛受け入れは、自然的にいえば、愚かしいことである。苦痛とは、障害・妨害となるものが生じていること、傷害の発生を知らせるもので、苦痛になるものは、これを回避したり排撃して、苦痛を取り除き傷害を排除するのが自然的には正解である。もし、苦痛とその回避衝動に従うことがないなら、身体など、傷だらけになって、生の維持は、困難になることであろう。
 ひとも動物としては、あるいは、高度の精神生活でも、多くの場合、不快・苦痛を排撃して生を維持している。火傷をもたらすようなものは、激痛を生じるから、反射的に手をひいて、激痛を回避することで火傷を回避する。絶望・悲嘆といった精神的苦悩を感じずに生活できるようにして、精神的生を全うしようとする。
 欲求を忍耐は抑制・停止する。だが、本来、自然的に欲求があり、これを充足させるようにと動くからその生は維持可能となっているのである。食欲があるから、わざわざに栄養をつけるために努力することなく、おのずからに食べ物に引かれて生は維持できているのである。これを忍耐は、抑制する。自然的生の営為からいえば、反自然・反生の営みをするのが忍耐である。


辛苦は、この世に満ち満ちている

2019年03月15日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3.辛苦は、この世に満ち満ちている
 自分のいだく苦痛・不快は、たとえ幻覚であってもありありと体験されてしっかりと現存している。だが、他人のそれは、そとから推測するだけで、苦痛を抱いているのかどうかは、聞いてみなくては分からない。それ以上に、同じ刺激に対してもこれを苦とするものも快とするものもあって、客観的には苦痛は捉えにくく曖昧になる。客観的にはあいまいな苦痛・不快だが、各人のもとでは、いたるところに生じていて、この世は、苦に満ち満ちている「苦界」だと捉えられることもある。苦痛のためにする忍耐は、他の規範である勇気とか正義などに比して、圧倒的に多く各人のもとに必要となる。勇気が必要となるのは、ひとによっては、一生でも片手で数えられるぐらいにとどまることであろう。正義は、日本などでは、まず個人の対処すべき規範として意識されることはまれといってもいいぐらいである。
 苦痛とその忍耐に顔を合わさない日は、まず、ない。起床とともに忍耐ははじまる。もっと寝ていたいのを我慢して寝床を出る。通学や通勤もなにかと我慢・辛抱のいることである。学校・勤務先では、いやなことが連続する。不快・苦痛への忍耐がなくてはやっていけないことが多い。お腹がすいても、空腹で苦痛でもこれを辛抱して時間になるのを待たねばならない。トイレにいくのも好き勝手にできるわけではなく、しばらくの我慢を強いられることである。我慢・辛抱の忍耐と出会わない日は、まずない。苦痛と忍耐は、日々に、いたるところでひとを待ち構えている。この世に満ち満ちているということができる。


慣れて苦痛を感じなくなったら、忍耐はいらなくなる

2019年03月08日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-2-7. 慣れて苦痛を感じなくなったら、忍耐はいらなくなる
 強いにおいのある食べ物は、ときに不快であるが、我慢して食べはじめていくと、だんだん、においの不快は気にならなくなる。不快でなくなり、美味しさが前面に出てくると、我慢など無用となりかわる。
 苦痛も忍耐も、永続するものは少ない。自然的には苦痛からは逃げるから、自然においては苦痛を放置しての苦痛持続は少ない。苦痛を回避するまでの時間は、苦痛への忍耐が必要となるが、苦痛を回避する行動をとって回避に成功すれば、当然、それへの忍耐は無用になる。ひとの忍耐は、苦痛回避を抑止して、これを受け入れ続ける。ここでは、苦痛甘受を手段として、目的を実現していくことで、その成就までは苦痛が持続し、したがってその間、忍耐を持続させる。それでも目的成就をもって、苦痛の手段は無用となり苦痛への忍耐は無用となる。
 外的な損傷を受けての苦痛の場合、その損傷から癒えるまでは、苦痛がつづき我慢が続けられる。その治癒がなるとともに、苦痛は消滅し、おのずと忍耐も不要になる。あるいは、生は、障害や損傷に自身を適応させてもいく。抵抗力がつき、抗体ができて傷つくことがなくなり苦痛とならず、したがって、忍耐無用にとなっていく。勉強とか仕事は、はじめは苦痛で忍耐のいることであったとしても、慣れて適応してくると、不快などではなくなっていく。はじめは嫌々の義務として忍耐していたものが、やがては快適なものとなり忍耐無用となって享受したいものに、権利にと転じることである。正座の忍耐では、正座することに慣れてくると、何時間座っていても足には苦痛を生じなくなる。そうなると忍耐など無用となり、これが一番快適な座り方になってもくる。苦痛がなくなれば、忍耐は、したくても、する対象がなくて、できなくなる。


耐え難くなるのは、苦痛増大にである

2019年03月01日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-2-6. 耐え難くなるのは、苦痛増大にである
 忍耐は、苦痛甘受を続けていると、だんだん忍びがたく耐えがたくなる。何にであるか。やはり、苦痛にである。忍耐は苦痛を甘受する。忍耐している限り苦痛は続く。苦痛が増大すると耐えうる限度となり、忍耐は、持続できなくなってしまう。息を止めていると、苦しくなる。呼吸停止が耐えがたくなるのは、横隔膜等の筋肉を動かさずじっとしていることもあろうが、なんといっても、耐え難くなるのは、酸素不足(と炭酸ガスの過剰化)での苦痛であろう。その苦痛の増大・激化が忍耐を断念させる。苦痛(の受け入れ)の限度が忍耐の限度になる。
 軽い不快・苦痛だと、忍耐しているといっても、なにに耐えているのか明確でないこともある。尿意の忍耐など、高速道で、つぎの休憩所まで「我慢してください」と言われてそうするとしても、「そう言われてみれば尿意がなくもない」という程度なら、苦痛に我慢するというのではなく、トイレのあるところまでは(出そうと意志)しないでおくというだけの、我慢といえばそうかもという程度の我慢であろう。だが、尿意が自覚的になると、苦痛がはっきりしてくる。苦痛に耐えるということになる。しかも尿漏れにならないようにと切迫的になると、出るのを抑止することの苦痛も出てきてこれとの闘いという忍耐になる。トイレで放尿する段になると、その抑止の辛さ・苦痛からの解放感をいだき、苦痛に耐え切ったのだと胸を張ることである。
 熱さに我慢するとき、ときには、皮膚がやけどするまでがんばれるが、その忍耐は、熱さへの苦痛にする。苦痛に耐ええなくなって熱い風呂をとびだし、あるいは、お灸の火を振り払うことになる。苦痛を振り払うのである。ひとに忍耐を断念させるための方策を考える場合、忍耐しがたくする正攻法は、耐えている苦痛を耐えがたいものにと大きくすることであろう。苦痛の限度を超えるようにすれば忍耐は放棄することになる。忍耐できなくなるのは、苦痛にである。忍耐は、常に、苦痛にしているのである。