主語をなくし、能動・受動を言挙げせず、あるがままの現状を見るという姿勢は、原因追求などせず、ことさらな分別もすることなく自然にまかせ、なるべく自己主張もしない、控えめの姿勢となる。それは、語り始めの、ことの原初にとどまるのではなく、終始とられる姿勢になることもある。
日本人は、そういう、あるがままを受け入れるだけの控え目の傾向が大きいのではないか。お茶を入れても「お茶が入りました」という。だが、勝手にお茶が湯呑みに自分で入るわけがない。ひとが「入れた」のである。能動・自発であるものも、そうせず、自分の能動性などに無関与とばかりに、慎み深く、「入りました」という。
控え目に、謙虚になれば、確かに、お茶が入るのである。自分のしたことは、単にお湯を注いだだけである。いいお茶が出るのは、いい茶葉といい水のおかげである。それは、恵まれた自然と優れたお茶製造業者や水道局のおかげである。自分の関与部分はほんの些細なものである。そう謙虚になっておれば、「入れる」などとおこがましいことは言えない。「入りました」と傍観的に現象を述べるだけとなる訳である(英語では高がお茶を入れることをmake tea(お茶を製造する)と言うようで、「入れる」でもはばかられるのに、大仰である)。
謙虚なひとは、それが誇らしいことであれば、自分の貢献部分は微々たるものと控え目である。逆に被害者・受動者になる場合は、加害の能動者を一方的に非難はしないことにもなる。自分にも非のあることでと、慎み深い。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(原爆慰霊碑)である。原爆の非は被爆した私どもにもありますと(こういう美徳、慎み深さは、日本人の間のみに限定しなくてはならない。海外では非が自分にもあるという謙虚さは禁物である。被害者でも加害者にされてしまう)。
日本の『舌切り雀』は、この日本的謙虚さ・慎みをもっているとも想像できる。竹やぶにはいって雀にインタビューしたら、短い舌でこういうかもしれない。「おばあさんもたまりかねて、私の舌を切ったのです。殺さないで、焼き鳥にせず、舌だけを切ったのです。落穂やおじいさんのくれたもので満足すべきなのに、大切な糊を食べるというあさましいことをした私が悪かったのです。すみません。おばあさんの立腹は当然です」と。舌切断の原因・責任はひとえにこの愚かしい自分自身にあり、「切られた」のでなく、自身の悪業が「切った」のですと、加害者をかばう、慎み深い、けなげな日本の自称自傷の「舌切り雀」である。
*というように、『舌切り雀』の「舌切り」について、現在は考える。これも前のように、しばらくすると、「やっぱり、ここは、おかしいなあ」ということになるのかもしれない。が、今生では、これで終わりとなろう。もう逝くべき歳のことである。この「舌切り雀」の再々考は、地獄で、「舌抜き」(舌抜かれ)体験談を交えてのこととなりそうである。