お茶を入れても「お茶が入りました」という「舌切り雀」

2015年03月24日 | 日記

 主語をなくし、能動・受動を言挙げせず、あるがままの現状を見るという姿勢は、原因追求などせず、ことさらな分別もすることなく自然にまかせ、なるべく自己主張もしない、控えめの姿勢となる。それは、語り始めの、ことの原初にとどまるのではなく、終始とられる姿勢になることもある。

 日本人は、そういう、あるがままを受け入れるだけの控え目の傾向が大きいのではないか。お茶を入れても「お茶が入りました」という。だが、勝手にお茶が湯呑みに自分で入るわけがない。ひとが「入れた」のである。能動・自発であるものも、そうせず、自分の能動性などに無関与とばかりに、慎み深く、「入りました」という。

 控え目に、謙虚になれば、確かに、お茶が入るのである。自分のしたことは、単にお湯を注いだだけである。いいお茶が出るのは、いい茶葉といい水のおかげである。それは、恵まれた自然と優れたお茶製造業者や水道局のおかげである。自分の関与部分はほんの些細なものである。そう謙虚になっておれば、「入れる」などとおこがましいことは言えない。「入りました」と傍観的に現象を述べるだけとなる訳である(英語では高がお茶を入れることをmake tea(お茶を製造する)と言うようで、「入れる」でもはばかられるのに、大仰である)。

 謙虚なひとは、それが誇らしいことであれば、自分の貢献部分は微々たるものと控え目である。逆に被害者・受動者になる場合は、加害の能動者を一方的に非難はしないことにもなる。自分にも非のあることでと、慎み深い。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(原爆慰霊碑)である。原爆の非は被爆した私どもにもありますと(こういう美徳、慎み深さは、日本人の間のみに限定しなくてはならない。海外では非が自分にもあるという謙虚さは禁物である。被害者でも加害者にされてしまう)。

 日本の『舌切り雀』は、この日本的謙虚さ・慎みをもっているとも想像できる。竹やぶにはいって雀にインタビューしたら、短い舌でこういうかもしれない。「おばあさんもたまりかねて、私の舌を切ったのです。殺さないで、焼き鳥にせず、舌だけを切ったのです。落穂やおじいさんのくれたもので満足すべきなのに、大切な糊を食べるというあさましいことをした私が悪かったのです。すみません。おばあさんの立腹は当然です」と。舌切断の原因・責任はひとえにこの愚かしい自分自身にあり、「切られた」のでなく、自身の悪業が「切った」のですと、加害者をかばう、慎み深い、けなげな日本の自称自傷の「舌切り雀」である。

 

というように、『舌切り雀』の「舌切り」について、現在は考える。これも前のように、しばらくすると、「やっぱり、ここは、おかしいなあ」ということになるのかもしれない。が、今生では、これで終わりとなろう。もう逝くべき歳のことである。この「舌切り雀」の再々考は、地獄で、「舌抜き」(舌抜かれ)体験談を交えてのこととなりそうである。


「見返り美人」風に自由な解釈を許す『舌切り雀』

2015年03月24日 | 日記

 予断をまねくような能動・受動への限定はしないとか、主語の省略がある等ということは、その言表を解釈する方では、それらを適当に補うことになるから、解釈の自由が大きいということになる。この自由な解釈を楽しむことが昔話などのフィクションにはあってよい。「首を切った」「舌を切った」といえば、受動的にも能動的にも解釈可能である。聞くものの想像力がかきたてられる。

 (舌切り)雀は、いまは、かわいらしい小鳥になるが、穀物の生産者にとっては、にくたらしい雀であった。「舌切り雀」は、この感情も充たす。「ばあさん、もっと雀の舌を切れ!」と「舌切れ雀」に感情移入できる。もちろん、おじいさんお気に入りの小雀に嫉妬し血迷ったのだ、とも読める。

 ところで、「見返り美人」ときくと、男性の多くは、自分をふくんだ見る者が美人を見返すように受けとることであろう。おなじ形容でも「見返りジジイ」になると、見返るのはジジイになる。菱川師宣の「見返り美人」図(切手になっている、あれ)は、見返りジジイの見返りのようで、後ろを見返す美人を描いている。見返りジジイ扱いであるから、命名したのは女性かもしれない。現代の男性の感覚からいうと、「見返り美人」は、絶世の美女とすれちがった助べえが鼻の下を長くして振り返って見るものであろう。見返るのは、美人ではなく、助べえの方である。

 「見返りジジイ」の場合、すれ違ったものは男女を問わず悪いものをみたと思うから、だれも見返すような事はない。したがってジジイ自身のしぐさとなる。雀のお宿をあとにしたおじいさんも、名残惜しそうに何度も後を振り返っていた「見返りジジイ」である。しかし、ときには「見返り美人」と同じになってもかまわない。自由がある。「ありゃあ市長じゃったろ。なんとボケ老人かい」とみんなが後姿を振り返ってみる「見返りジジイ」である。

 いずれの場合も、その「見返る」という能動形を受動に解釈しなおすような意識展開はなかろう。「見返り」と聞いたときは、見返る能動的なすがたを描き、つぎに「ジジイ」がきたら、その見返るジジイへと具体化する。そこへ「美人」がきたら、見返りたいから、その「見返り」の主語を自分たちにする。しかし、美人自身が「見返られる」ものにと解釈変更されるといった(さき〔2011年〕のブログではそう見たのだが)、ことさらな受動へ意識展開はしていないであろう。

 想像をたくましくして自由に解釈できることは、とくに昔話などフィクションでは大切である。『浦島太郎』や『赤頭巾』など、こどもとおとなでは、まるで違った想像をしている。同床異夢でそれぞれの世界に遊ぶ。『舌切り雀』も、「舌を切る」ということにおいて、自傷にも、婆さんの致傷にも、場合によっては、加害者をかばう雀の姿さえも想像できる。


(おばあさんが)舌を切る「舌切り雀」

2015年03月23日 | 日記

 『舌切り雀』を知っているものは、当然、舌切り傷害事件の犯人がおばあさんと承知している。だが、そう知っている者も、「舌切られ」でなく「舌切り」で自然と感じることである。どうしてであろうか。

 生活の共通部分が大きく、お互いの空間的距離も小さい日本では、言挙げしなくても分かりあえることが多い。おのずと自明のことが多くなり、しばしばそれは省略される。そのひとつに、主語の省略がよく言われる。日本語では、主語は、なくても、かまわない。主語は、単なる主語修飾語にとどまり、必要がなければ省く。青空を見ながら「きれいだ」といえば、通じる。主語(修飾語)の「空は」はなくてよい。逆に、「空は、日本は、春は、朝が、春霞が、きれいだ」と幾つ主語(修飾語)があってもよい。わざわざに言挙げする必要のないものは、省略可能なら省く方がすっきりする。

 「舌切り雀」「飼い猫」「捨て子」などは、この主語修飾語の省略と見ることができそうである。「飼い猫」の「飼う」では、猫自体がその能動的な主語となることはない。「飼い主」が「飼う」ことは自明である。自明なものは、省略すればいい。ということで、「飼い猫」「捨て猫」である。「捨て子」も、子自身が捨てることはありえず、捨てるのは親に決まっているから、自明な親は省いて「捨て子」となるのであろう(先回〔といっても2011年のこと〕このブログに、「招き猫」は、自分で招くから、招く猫でいいが、「飼い猫」では、飼う能力を猫はもたないから、聞き手は、「猫」と聞いたときにこれを受動に、「飼われ猫」と解釈しなおすのだと述べた。が、まちがいであろう。そんな意識展開など通常はしない)。

 「舌切り雀」も、「おばあさんが舌を切った雀」なのだが、舌切りといえば、この「おばあさん」というぐらいの超有名人なので、その主語修飾語を省略して「舌切り雀」となっていると考えてもよいのではないか。


予断・先入見を与えない『舌切り雀』

2015年03月23日 | 日記

 『舌切られ雀』だと、もうはじめから傷害の犯人として「おばあさん」があがっている。だが、自分か他者か分からないが「舌を切った」というだけの『舌切り雀』なら、そのありのままの(能動であり、かつ受動の場合もふくむ)原初的事実を提示するだけである。予断も偏見もその題名にはない。これを見聞きしたものは、ことの展開を自分で想像し、その原初の痛ましい(舌切り)事件を前に、先入見なしで真相へといざなわれていく。

 事実の背後をさぐると意外な展開をもつものが多い。表面的現象の背後には、おどろおどろしい本質が隠されている。その真実の深みにあやまたず近づくには、まずは、ありのままの事実を見ることが大切である。その原初的事実を示すには、余計な予断を与えるようなものは、排除しておくことがふさわしい。能動か受動かもそこでは、さしあたりは、示さない方がよい。

 猫を猫じゃらしで踊らせることがある。そのときの「踊り猫」は「踊らされている猫」だが、自分で楽しく能動的に踊る「踊り猫」でもある。能動・受動の分別は、ことの進展を制御するためには大切である。だが、能動と受動、原因と結果を分けて見ることができないとか、不分明なものも多い。紙で手を切ることがあるが、紙が原因か、皮膚の弱いことが原因か、不注意が原因か、簡単には決められない。「踊り猫」現象を見ての最初の有り方は、受動・能動以前の「猫が踊る」という事実であろう。踊らされている猫か、楽しい食事を前に自身で踊り狂っているのか、水銀中毒で狂い踊っているのか、分からない。それらがつまびらかになる前の踊っている猫、「踊り猫」である。

 「舌切り雀」も、これが題名なら、多様の展開が期待できる。事件があって、ことの真実を語ろうというとき、はじめから、「性悪なばあさんが犯人だ」という体の先入観を与える「舌切られ雀」とするのは、よくない。事件の真相は、おばあさんの一方的な傷害とは限らず、責任の一端は雀自身にあるのかもしれない。予断を与える題名でない方がいい。それには、生じた原初的事実のみを、その現象を語るだけの「舌切り」がいい。そこからなら自傷も含めて真実を予断なしに展開できていく。


「切ったか切られたか」は知らないが、舌を切っている「舌切り雀」

2015年03月22日 | 日記

 ひとがぶつかってけがをしたときなど、どちらがぶつかったのか、その能動・受動はかならずしもはっきりしないことが多い。ことの原因、能動・受動を語る以前に、原初的事実として顔のけががあれば、そのことをもっぱらに意識することとなる。大量の出血でも見ると、それだけにとらわれて、強盗に切られた、おばあさんに切られたというような分別の余裕はなくなる。「腕を」「舌を」「切って血が出ている」という目の前のことでいっぱいになる。「切られた」のだから被害者であり受動形にするなどという、つきはなした客観的で冷静な態度は、よそよそしいことにもなる。切って大けがというとき、救急車に乗るときの状態では、だれが切ったかは、問わない。まずは、切って出血していることへの他事を放擲しての集中が第一である。そんなところに、悠長に刑事が「誰に切られたのですか」と手帳をさげてきたら、「切ったか、切られたかは知らん。そんなことはあと、あと。首を切っとる。邪魔だ、どけ!」ということになろう。

 食べ物にガラス片があって「舌を切った」という。ガラス片で「切られた」のだが、「切った」という。何がどう切ったか、どこに真の原因があるかは明確でないこともしばしばである。確かなのは、「切る」切断の事実であるから、受動にせず、原形の「切る」を使うのが穏当なのでもある。舌切り雀の「舌切り」も、この「舌を切った」雀ということであろうか。能動・受動以前の原形において事実をありのままに叙述するということである。その「切った」原因が他者にあって受動であろうと、自害をこころみての能動的なものであろうと、舌の切断と出血が原初的な事実なのである。その原初のありのままの事実を、「切った」「切る」というのであろう。その後、分別する必要があれば、「おばあさんに切られた」という受動・受身にと具体化していくのである。能動・受動、切った・切られたの手前で、とにもかくも「舌を切った」状態の「舌切り雀」である。

 「切られた」ことが自明ならそれは語る必要がなく、「切ったか切られたか」が不明ならそのことは語りえず、まずは、「舌を切った」と語る『舌切り雀』である。