アリストテレスは、節制の「抑制」では、「忍耐」にもふれる

2016年07月29日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-2-2. アリストテレスは、節制の「抑制」では、「忍耐」にもふれる
 アリストテレス『ニコマコス倫理学』は、節制は、快楽への「抑制enkrateia」(1149a21)だと捉える。食と性の触覚の節制論(1117b23ff.)とほぼ同等のページを費やしてこの「抑制」を論じるところには、「忍耐karteria」も取り上げている(cf.1145a14ff.)。節制の具体的な営為として忍耐・抑制を論じるのである。「抑制」は、快楽欲求に挑戦してこれに打ち勝とうと「強力であるkrateō」(1150a35)ことで、力をいれて能動的に働く。「忍耐」は、不快・苦痛に負けないでこれを受動する状態に「持ちこたえるantechō」(1150a34)ものになると言われている。
 「抑制」するのは、動くものを動かないようにと抑えつけることであろう。美味(快楽)を求めて動く食欲をそれが動かないように食を充足させないようにと、力ずくで強引に抑えて制するのである。「忍耐」は苦痛に耐えるが、それは、不快や苦痛を前にこれに逆らわないで受動状態を甘受し、逃げ出したり助けを求めて騒ぎ立てたりしたいのを、しないで、忍び耐えて、じっと持ちこたえることであろう。快楽の抑制である節制では、不快・苦痛に耐える忍耐は、あまり出てくることはない。だが、抑制は辛くなれば忍耐すべきものになるからであろうか、これをアリストテレスは抑制=節制を論じる場に登場させている。
 (なお、トマス・アキナスの『ニコマコス倫理学注解』は、この辺りの注解では、karteriaについて、感性的で短期のpatientia(我慢)などではなく理性的で長期のperseverantia(辛抱・忍耐)で捉えている(第7巻第1講)。karteriaは、ここでも「忍耐」と訳しておきたい。)


仕事や勉強に、節制は無力だが、忍耐は頼もしい力となる

2016年07月22日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-2-1. 仕事や勉強に、節制は無力だが、忍耐は頼もしい力となる
 ひとは、動物的自然を超越できる自由の存在である。快不快の自然にひとも動物も生きるが、ひとは、これを基礎におきつつも、これを超越して、必要なら、この自然にそむくことができる。自然的には快楽に引かれるが、この快をひとは拒否できる。節制は、快楽抑制の一典型である。しかし、節制は、他方の、不快・苦痛には関与しない。ひとは、これに対しても超自然的に振舞うことが可能である。自然的には避ける苦痛を避けることなく、受け入れ、これを手段・踏み台にして、より価値あるものを得ることができる。この苦痛・不快の超自然的な受け入れを担うのは、忍耐である。
 仕事も勉強も、食べたり遊んだりするのとはちがい、苦しい事、不快となることがしばしばである。不快を避けていたのでは、仕事も勉強もさきには進められない。つらいことを乗り越えていくために、「我慢」とか「辛抱」といった言葉が、たびたび登場する。「辛抱」は、排除したい「辛」いものを逆に受け入れて「抱」く。忍耐は、辛苦を甘受する。嫌なこと(したくないこととか苦痛・不快なもの)を嫌がらないで受け入れ、逆に、欲するもの(したいこととか快であるもの)を欲さないようにと押しとどめる。そのことで生じる辛苦から逃げることなく、これを甘受して、ひとは、快不快に従う自然のもとでは達成不可能な、超自然的な人間世界の諸目的を実現する。仕事や勉強は、困難を引き受け、辛苦を甘受する姿勢なくしては成就できない。忍耐が必須である。
 


快楽の節制(抑制)、不快の忍耐

2016年07月15日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-2. 快楽の節制(抑制)、不快の忍耐 
 こどもの場合、食べる事を気ままにさせておくと、当然美味(快楽)の方に流れるから、これを節制させることがいる。それ以上に、不味いものには手をつけようとしない。したがって、大人以上に、我慢して食べることをしつけることがいる。この、不味いもの(不快)の甘受をいうのは、節制ではない。不味いがこれは健康に必須ということで、養生とか健康管理で言われることであろう。我慢し辛抱して食べるのであり、忍耐になる。
 狭義の節制である食欲・性欲の抑制においても、その抑制が欲求不満をもたらすなら、その不快には当然、節制は関与する。空腹の苦痛に我慢し、出産を控えている状態では性的営みを我慢する。しかし、それは、あくまでも、快楽の享受にかんしてのことで、それを抑制することでの不快・不満に忍耐するだけのことである。食欲自体をそぎ嘔吐するようなものを、いやなもの・反欲求となるものを我慢して食べることは節制ではいわない。健康・養生のためには、嘔吐したくなる嫌いな食べ物も、我慢して食べなくてはならない。だが、こういう食欲のわかない、本質的にうけつけがたい苦痛・不快なものは、節制では甘受せよとはすすめないであろう。
 節制は、広義には快楽全般を節するものになろうが、逆の不快なもの・苦痛になるものの全般については対象にすることはない。快楽の欲求を抑制し遊びすぎを節制するようにとはいっても、つらい勉強とか仕事をしっかりやるべきことは節制ではいわない。それをいうのは、辛抱とか忍耐になろう。


小学生には狭義の節制は、あまり意味がない

2016年07月08日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-1-3. 小学生には狭義の節制は、あまり意味がない
 「節制」は、道徳教育では、自分自身を律する徳目として挙げられる。だが、節制は、狭義には食欲と性欲を対象とし、後者は、未熟なこどもには言う必要がない。食欲の方は、旺盛だから節することがいるが、こどもの場合、通常、食は学校や親が用意するもので、美味で過食しそうなものは余分には出ない。つまり、快楽(美味)の食は節するまでもなく必要量しか摂食できない。逆に不味いものは、こどもは食べたくはないが、必要な栄養であれば、摂食を強制される。こどもは涙をだしながらでも無理やりに食べなくてはならない。先生や親は、そのとき、きらいなニンジンを「節制しなさい」とはいわない。いやでも「我慢して、食べなさい」ということであろう。節制は、きらいなものの摂食をすすめるものではない。こういう場面で、こどもに自身を律する規範をあげるのなら、我慢とか辛抱、忍耐ということになろう。
 狭義の節制は、こどもにはあまり用がなさそうであるが、広義の節制、快楽全般についての節制は、現代社会では結構こどもにも意味がある。最近は、多様な快楽がある。パソコンゲームとか携帯電話での遊びでは依存症になるぐらいだから、「夜更かしはいけない」などと節制をいう必要がでてきている。ただし、ここでも節制では一面的になる。過度に遊びほうけていたら「節制しなくては!」という。が、節制は、不快な苦痛になることの甘受は、よりよい生に必要であっても進めることはない。いやな勉強・宿題も、これをこどもはしなくてはならない。近所のこどもの歓声が聞こえると、宿題をしていても身がはいらない。そこで、親は宿題について、「もう少し我慢しなさい、辛抱しなさい」と忍耐をいう。こういう宿題を、「節制しなさい」とすすめられたら、子供は大喜びで遊びに出かけることであろう。


性的節制は、食の節制とあり方がちがう

2016年07月01日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-1-2-1. 性的節制は、食の節制とあり方がちがう
 節制は、性的逸脱を抑制するが、それは、単に節するのではなく、逸脱の全面禁止を求めるものである。不倫などの逸脱をほどほどに節するとなると、逸脱を許容したものとなろう。健全さを求める節制の精神にはふさわしくないこととなる。
 だが、大局的見地から見ると、節制は、性欲の規範として妥当性を有する。つまり、夫婦間では楽しみ、それ以外への逸脱を禁じるのであり、性欲の発現の場を制御・制限し節しているのである。食の節制で、お膳や弁当箱に盛り切りにして、それ以外は駄目とするのと同じことである。不倫などの逸脱は、自分のお膳のものでなく、となりのお膳を盗み食いすることに相当するわけである。
 食の場合、快楽享受の節制とはいっても、美味(快楽)のみを問題にしているわけにはいかない。通常の食の第一の関心は栄養補給にある。美味の享受は食の一部のことである。不味いものでも栄養ということからは食べる必要もあって、それは節する節制の対象ではない。あるいは、美味でも、栄養のあまりないものなら、抑制、つまり節制の必要はほとんどない。さらに過食の逸脱は、翌日粗食にして、なかったことにもできる。食の節制は、いうなら複雑で節制に当てはまらないことも多々ある。だが、性欲の場合は、その一般的な状態においては、食とちがい常に快楽が主目的となり、性行為では、節制の対象である快楽がつねに実現される。そして、その性的な欲求・行為は、夫婦の間では無抑制でよく、それ以外は厳格に禁止である。節制は、快楽欲求に関して、健やかなものは肯定し、その過度・逸脱を禁じて抑制する。この節制における肯定(快楽の享受・推進)と否定(快楽の抑制・禁止)に、性欲の節制は、単純明快ぴたりと当てはまる。