快は、自然的生に有益なものをもたらすためのアメである 

2024年07月30日 | 苦痛の価値論
4-1-2. 快は、自然的生に有益なものをもたらすためのアメである     
 快は、生あるものを魅するアメとなるが、それは、自然の与える褒美であって、その快に引かれてなす営為をもって、自然は別の有益なもの・価値あるものを実現する。だが、快を求める生個体は、快自身を欲するのであって、そのことがもたらす自然的な価値ある結果を求めるのではない。その自然感性においては、美味しいものに魅されるのであって、栄養摂取を求めているのではない。性的快楽では、その快楽自体を求めているのであって、子孫を残すことを目指したものではない。個体は、あとさきを考えることもなく快に引かれて動くが、そこでは、別の、自然的生にとって客観的に価値あるものの創造が仕組まれているのである。いわば自然の狡知である。食や性の欲求充足の快楽は大きいが、この快に終わるのではなく、これを介することによって、自然は、個体保存の栄養摂取、類の再生産・生殖の営みを結果するのである。かりに食や性が快でないとすると、だれが面倒な食事をしたり性行為を求めるであろうか。快だから、これに魅されて、自然のままに放置しておいて栄養摂取がなり、種の保存が可能となっているのである。  
 快は、餌であり褒美であって、これ自体は小さく短い。その過程の終点は、快ではなく、それを通して得られる生の促進に資する別の事柄となる。性の快楽なら、生殖、種の再生産である。快楽は餌・褒美でしかない。その自然の終点にいたることが確実になるため、快楽は、自然の求めるものを実現してはじめて与えられる。食の快楽は、口に含んだだけでは得られない。喉を越して確実におなかに食物が入ることになった時点で感じられるようにできている。かつ、次の食べ物も摂取することが求められるから、のど越しのほんの瞬時、快楽になるような仕組みになっている。いつまでも快楽では、食に本来的な栄養摂取は進まない。性的快楽も、男性でいえば、確実に受精できる射精実現のほんの一瞬、与えられるだけである。 
 ひとは、苦痛を、反自然的に扱って、これを回避せず受け入れて目的となる価値創造へと展開できるが、快についても、反自然的になりうる。自然的に魅される快楽を拒否することは苦痛甘受より容易である。また、魅される快のみを受け取って、自然が仕組み求めるもの自体は拒否することもできる。自然は、快楽を餌にし、短時間、快楽を感じさせて、つぎの肝心の価値創造の過程へと進ませようとするが、ひとは、快楽のみを受け取って、つぎの肝心の過程には進まないことがある。食の快楽・美味は、栄養摂取をもたらすのだが、この栄養摂取を、肥満しないために阻止することがある。美味しいだけで栄養のないものを求めたり、食道楽の中には、満腹になると嘔吐して胃を空にし快楽享受を続ける者もいる。性的快楽は、受精を結果するが、この結果をもたらさないようにと避妊具をつかって、快楽のみを得て終わりにすることがある。快楽は、自然的には、生にとって大切な価値創造を結果する。だが、ひとは、これを拒否して快楽のみで終えようとすることがある。
 ひとの快楽のなかには、価値創造にならないのみか、逆に反価値創造となるものもある。麻薬などは、快楽だけでは済まず、長い快楽を享受することをもって、生にとっては有害な事態を結果する。その快楽に呑み込まれ中毒になって、本来的な生の営為を維持することが難しくなるようなことがある。快楽は、ここでは、反価値創造となる。ひとは、快楽のアメのみを享受して、肝心の自然的に結果するものは、拒否することしばしばである。自然の造物主がいたとすると、人間のこの快楽のみの享受を苦々しく思っていることであろう。

量的計算ではなく、真偽、善悪の質が決定的なことも  

2024年07月23日 | 苦痛の価値論
4-1-1-3. 量的計算ではなく、真偽、善悪の質が決定的なことも 
 価値計算は、葬儀の場では、儀式を最大の価値とし、自身の悲しみの感情など些事として、その量的な比較をもって動くもののように想像できる。が、こういう場合は、異質のものを異質のままに受け止めて、いくら主観的感情としては深い悲しみにあっても、これを抑止し、社会的習慣としての葬儀をなんとしても無事に終えることが良識ある振る舞いだと判断しているのであり、量的大小での価値判断はしていないのではないかとも思う。比較していずれかを選択するときには、しばしばその量的差異をもってプラスになる方を選択するが、何でもそうできるわけではない。等質化、量化しえない物事もある。それを無理やりに量化することがあるとしても、限界があろう。
 量化して多い方をとるということでは決まらないものがある。多数決で量化して決定することが民主主義下では多くなるが、多数決では真実も正義も決まらない。2+3=11としたら、十進法のみを前提にしている多くは嘲笑するであろう。だが、四進法をとっている者は、たった一人になっても、真実だと言い張ることになる。真実は、ここでは、量化して多数をもって決めることはできない。正義も同様である。古代アテネでソクラテスは、多数決をもって死刑となった。イエスは、数の暴力で十字架にかけられた。総督のピラトは、イエスに罪を見出せないと言ったが、群衆の声に押されてしまった。だが、のちの人々は、それが多数によって押し切られたことは不当と思ったはずである。その時でさえ、人々は、不愉快な奴だと多数を頼んで死刑にしたのではない。少なくとも表向きは、ソクラテスもイエスも、市民を惑わし自分たちの神を冒涜した許しがたい犯罪・悪だと判断して死刑にしたのである。不愉快な奴だから殺せといったのではなく、その悪を罰して死刑にするのが正義だと判断したのであり、それが多数だったということであろう。真実か虚偽か、正義か不正義かは、多数という量化しての選択には服さない。異質のものは、異質のままであり、多数だからといって、虚偽が真実に変わることはない。多数を占めたからといって犯罪が正義に変わるわけではない。裁判において有罪とするのは、多数がそう望んでいる(快とする者が多い)からということで決めるのではない。法(正義)に照らして、それが法を逸脱している、不正義だと判断して有罪とするのである。それを正義と理解する人が少なかったとしても、真に正義なら、これに万人がやがて納得することであろう。2+3=11を虚偽だと笑った多数でも、それが四進法ならそうなるのだと説明すれば、みんなこれに納得して真実だと思うことになるはずである。
 真実は、多数決に服さない。木造船から鉄の船になり始め、多数は、木とちがって鉄は水に沈むから、そんなこと不可能だと嘲笑した(と聞く)。鉄の船も可能だと真実を語るものは少数派であったが、現に鉄の船を作り、以後は、万人がその真実を受け入れることになった。道徳的な善悪や正義なども、量化して多数をもって決めることはできない。法(法律、法則)に照らして、これにかなっている(=正しい)かどうかの(本)質の問題であり、量の問題ではない。もちろん、真実や正義、善が多数の支持を得ることは、大いにあることである。 

快楽計算ではなく、価値計算という方がいいだろうか

2024年07月16日 | 苦痛の価値論
4-1-1-2. 快楽計算ではなく、価値計算という方がいいだろうか  
 精神的領域でも、快はあるにはある。が、ほんの些事である。ものを獲得しての喜びの快は、喪失しての悲しみの苦痛と違い、かならずしも生じないこともある。かつ、かりに喜んだとしても、その快のみだとすると、つまり、そこでの喜びの原因となる価値ある物の獲得という事実はなく嘘だったとすると、「喜ばせて快を与えてやったのだからいいだろう」とはいかない。そういう「ぬか喜び」は、嫌悪される。こういう精神的生のレベルでは、快の感情(喜び等)ではなく、有益な価値ある物の獲得が肝要ということであろう。動物的生のレベルでは、快不快が主観的には肝心で、食べ物は、栄養価値の問題もあるが、栄養ゼロでも美味なら高評価されるであろう。性欲の快など、受精という自然の求める事柄など論外で、性的快楽こそが目指すものとなっているのが普通であろう。動物的世界は、快不快で動き、その快楽計算で片付けることが多かろうが、人間的精神的生のもとでは、単純に快不快の快楽計算では通じないことがしばしばとなりそうである。
 ただし、快とちがい、苦痛・不快の方は、精神的領域でも、そのもとの原因(損傷)がなかったとしても、その苦痛自体が大問題である。絶望とか不安は、その感情のもとになる希望の断絶とか、危険の可能性の生起といった客観的事態が些事であったり、実際にはなくても、その感情自体が大きな問題となる。なにかは分からないが漠然とした不安は、ひとを焦燥・苦悶させ、原因が不明か、無い場合、対処のしようもないといったことになる。その不安感情をなくすることが重大事となり、人によっては、その不安に耐えきれず自殺するようなことも生じる。絶望は、死に至る病といわれることがあるように、苦悩・苦吟させ、人を地獄の底に落とし込むような主観的な苦痛感情で打ちのめしてしまう。精神的苦痛は、快とちがって、人間の精神にとって、決して些事とはならず、人生を左右するような辛い苦痛となることがしばしばである。
 苦痛は、精神的生でも無視できない事態であり、動物的生のそれと同じく大きな反価値として算定される。かつ、その精神的世界では、快でなく、価値あるものの獲得や喪失といったことが肝要となるのであり、差し引き計算は、それらの総合的な価値計算とならねばならない。動物的レベルの快不快の価値計算と、精神的レベルでの不安や絶望、悲嘆といった苦痛と、そのもとにあるであろう絶望等の客観的な希望剥奪の事態とか、家族の死といった大きな喪失の反価値、逆の客観的な価値の獲得、これらを総合しての価値計算になるであろう。それぞれの快不快や、価値の獲得・喪失の大きさのみでなく、それらの持続の時間があり、感情は結構意識で抑止したり表現したりもできるから、臨機のその場に見合った計算となろうか。計算は、その都度、異なったものとなり、家族の死においてなら、みんなのいる葬儀の場では、世間体というものが大きな価値を占めて、絶望とか悲嘆の思いは一旦は小さくされ心の奥に押し込めた状態になって、冷静さを保つ。が、一人になったときには、肉親の喪失ということが全面を占めて、深い悲しみにとらえられ涙が止まらないといったことになる。置かれた状況をふまえてその都度計算しなおすといったことにもなろうか。

苦と快の計算は、かならずしも単純ではない

2024年07月09日 | 苦痛の価値論
4-1-1-1. 苦と快の計算は、かならずしも単純ではない   
 快と不快(苦痛)の差し引きを計算する、いわゆる快楽計算は、一見分かりやすく単純だが、ものによっては意外に厄介な計算になることもありそうである。若干渋みの残っている柿を食べるとき、甘味は食べることを誘うが、渋みがこれを拒否する。甘味(快)や食欲が勝てば、これを食べるが、渋み(苦痛)が勝ってくると、食べるのを止める。食べながら、快楽計算をしていると言えるであろう。だが、快不快の両方が二つの事柄とならず、並べて計量とはいかない場合がある。チョコレートなど、不快の苦味があっての得も言われぬ独特の美味である。苦はここでは美味にプラスする価値となる。単純に苦と快の差し引き計算とはならないであろう。それでも、味覚の場合、快も不快もあるからいいが、皮膚の知覚の場合、損傷での痛みはあるけれども、それに対応する快は存在しない。無事の他の部分は、無感覚にとどまっている。これが快楽を感じるのだとすると、全身、快だらけになってしまう。苦痛のみがあるのである。皮膚においては、苦痛のみ、回避・逃走のみが反応として存在する。皮膚の苦痛減少、解消のための反対の快は、皮膚のもとには存在しないとすると、どう計算することになるのであろう。子供に良くやる手は、快のアメを同時に与えて、皮膚の痛みの気を紛らわせることであろうが、大人の場合は、子供だましは効かない。 
 それでも、味覚の(ハチミツの)甘さの快と皮膚での(蜂に刺される)苦痛のどちらかを選ぶということを、熊も、おそらく空腹の人間も、せかされて実行するはずである。異質のものの計量は、等質化してなる。別領域の快不快(苦痛)を計量できるようにと、なんらかの形で等質化して量化し、その大小を比較して選択する。幸い、脳内では、快不快はどこのものであろうと同じように、脳内での生理的反応をもち、快楽様物質、ドーパミンなどのホルモンを出したりしていることである。そこで、あらゆる快不快は等質化されているから、快不快で比較は可能になるのであろう。 
 あるいは、快不快は単にその受容だけというのではなく、それらの心身の一般的反応として、苦痛からの逃走・回避の衝動と、快に魅され、これを引き寄せたいという衝動・欲求が大きいモメントをなすこともあろう。逃げようか、近づこうかと逆方向の意思をいだく。少々の苦はあっても、どうしても欲しいものを入手したいということで、快が勝てば、苦痛を甘受する。両方が拮抗すれば、立ち往生である。熊は、蜂に刺されて痛くて回避・逃走の衝動をもち、他方で逆にハチミツに魅されて何としても食べたいという食欲の強さとの拮抗状態になろう。快不快は、どんなものであれ後退と前進の計量となる。快、前進への力が大きければ、あるいは、後退を抑止するほかの要因(空腹の子熊がそばにいるなど)が大きくなっておれば、苦痛の抵抗を抑止しつつ前に進み快を実現する。
 快が複数あるときは、より快であろうものを選ぶ。だが、拮抗した快であった場合は、まよってどちらも選べないということがあろう。大魚は、小魚をとる。後者が大群であった場合、いくらでもとれそうなものを、意外に簡単にはとれないのだという。おそらく、たくさんの快が、同じ快が並んでいて、あれもこれもということで、どれかに決められないのであろう。同じ無数の快候補の中から、より美味しそうなものではなく、より捕食しやすいものを探すということになろうか。
 苦痛も一度に多く生じるようなことがある。怪我など、あちこち同時に傷つくことがある。それも、優先順がおのずからにある。大きな苦痛がまず意識される。これが片付いたら、小さな傷の痛みに気づくようなことになる。生理的にうまくできていて、小さい苦痛は、大きな苦痛の前では、小さくなっていて意識から消えている。大きな苦痛の処理が終わって楽になってから、意識に登場して、治療を求めることになる。意識してする快不快の差し引き計算のもとで、二番目の苦痛は、計算にどうかかわるのであろう。
 快は、いま快を抱いているよりは、苦痛を乗り越えたあと得られることが多い。つまり、苦痛は現在感じているもので、快は、単なる想像でしかないということである。回避すべき緊急信号を出している苦痛であるから、快は差し置いて、まずは苦痛対処ということになる。これが、苦痛と快楽の両方ともが未来形で単に想像上で比較する場合は、苦痛は、なお深刻でないから、快の方を優先することがありそうでもある。だが、苦痛を媒介にしてそののちにのみ、快が確保できるという多くの場合は、まず、苦痛を現実的に甘受させられるのであり、激痛にでもなれば、もうその先の快楽などどうでもいいと思いを変えることも生じそうである。

動物的自然における苦痛甘受は、苦痛を凌駕する快や衝動が促す

2024年07月02日 | 苦痛の価値論
4-1-1. 動物的自然における苦痛甘受は、苦痛を凌駕する快や衝動が促す
 自然的には、動物も人も快を求め、苦痛(不快)を回避する。だが、その自然において、快を得るには苦痛の引き受けが不可避というような場合、不快・苦痛・損傷が小さく、快がより大きいならば、その快を得るために、苦痛を選択するときがある。蜜蜂の攻撃を受け入れ苦痛を我慢しつつ、蜂蜜をとる熊のようにである。この場合、苦痛を受け入れるのは、そのことで大きな快・価値あるものが獲得できるからである。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」というが、危険を冒し、苦痛を回避せず逃げず受け止めることがないと、快など価値あるものは得難い。自然の中では、「棚から牡丹餅」という僥倖はまれで、確実に食などの快を得るには、苦痛となる障害・妨害から逃げずこれに挑戦しなくてはならない。
 苦痛は、損傷を知らせるもので、その損傷と苦痛を避けようとするのは自然の本源的な反応である。苦痛は、これを回避する反応をもって損傷を回避し生の保護を結果する。この苦痛を避けず逆に受け入れるという苦痛甘受は、それ自体は、直接的には、生の保護を否定することで損傷をもたらす営為となる。だが、その苦痛と損傷を受け入れることがある。それによって一層大きな価値あるものが確保できる場合である。快を踏まえての苦痛の甘受、動物的な忍耐は、それなりに差引計算して、より価値あるものを選択しているのである。熊は、蜂蜜享受においては、蜂に刺される苦痛より、大きな快・価値を見いだしているのであろう。
 動物の苦痛甘受は、ひとの、未来の目的の手段としての苦痛甘受とは別である。動物の場合、あくまでも自然の快不快のもとでの展開である。つまり、苦痛甘受を選ぶのは、快と不快(苦痛)の差引計算でそうするだけのことである。大きな快楽を前にして、それには途中で若干の苦痛を受け入れなくてはならないとか、大きな苦痛を回避するには、小さな苦痛を受け入れることが必要ということで、その苦痛を甘受する。あるいは、大きな欲求・衝動の前では、少々の苦痛の甘受は必須となれば、苦痛に忍耐することであろう。自然感性のもとでの差し引き計算をして、よりましな方を選択するということで時に苦痛を受け入れるのである。
 ひとも自然的日常的には快不快で動く。より快適なものを求め、苦痛・不快を避けるようにと動く。ただし、快は、感性的レベルで人をひきつけ魅するものであるが、精神的レベルの場合は、快は些事で、ひきつける度合いは小さい。精神的レベルの場合は、苦痛の方は感性のそれと同様に、大きな回避への力をもつ。ひとが動物と同じように快不快で動く場合でも、精神的レベルの苦痛(例えば、絶望)が絡んでくると動物とは異なった展開となる。おいしいものがあると、犬や猫は、即これを食べるだろうが、人は、おいしいものがあっても、他人の者だと分かれば盗むという犯罪への精神的苦痛が生じて、これを抑止することになる。