動物的必然と理性的自由の葛藤

2013年08月30日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-5-1. 動物的必然と理性的自由の葛藤
 ひとは、一方において自然存在として身体をもち感性的欲求をもっている。食や性の欲求は、ひとの自然に発する強力な欲求である。他方、ひとは、この自然を超越しこれを巧みに支配できる理性的存在である。理性は、自由にみずからで目的を立てて自然の因果必然をこの目的達成のための諸手段として利用する。節制は、自律的理性による自然的感性の制御であり、ひとの尊厳の端的な営みである。
 しかし、自然的欲求は強く、これを制御しようとする理性の節制の試みは、すんなりとは実現されない。理性自身もその一部において自然感性の味方になりこれに追随して、快楽享受にのめりこむことにもなっていく。節制は思うようには進まない。
 ひとには満腹すると自然に食欲をなくする満腹中枢がある。この自然を無視することはできない。だが、この自然を必須として追随するだけでは、自然を制御できる理性存在にはふさわしくない。自然的因果必然の世界に背くことはできない。落下法則にそむくことはできない。だが、落下の自然を踏まえつつも、これにブレーキをかけたり逆行することは可能である。パラシュートでゆっくり降りたり、つばさをつけ引力に逆らって飛び上がることもできる。ひとは、自然身体の欲求をふまえつつも、これをおさえて人間的な生にふさわしいようにと制御できる。強い食欲・性欲もこれを必要に応じて抑制して禁欲を貫ける。


ニュートンの卵(ゆで時計)

2013年08月23日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-5. ニュートンの卵(ゆで時計)-動物的欲求よりも理性的欲求を-
 ひとが禁欲的になるのは、そのことで別の大きな価値あるものを得んがためである。食と性の節制・禁欲は、なんといってもまずは健やかな生をもたらさんがためである。さらに、快楽の過度の享受を禁欲しようというのは、それにとらわれのめり込んで、そのうえにそびえる精神的人間的な営みをおろそかにすることがないようにというためでもある。
 ひと固有の高貴な生の営みは、欲求となるものであっても快楽を目的とはしない。希望とか幸福といったものは、快楽を目的にはしない。快楽追求に終始していたのではそういう高度の人間的な営みはないがしろにされてしまう。食や性の営みに時間やエネルギーを費やすことはほどほどにして、その快楽享受の過剰は禁欲して、これを人間的精神的営みにとまわすことがひとの生には必要である。草食動物は一日中食事に時間を費やさないと栄養を十分にはまかなえない。だが、ひとは、動植物がせっせと貯めた栄養の塊りを取り上げて、高栄養のおいしい物を短時間で摂食することが可能となっているのである。
 性的な欲求を抑制することで、その欲求を昇華し精神的世界にエネルギーを注いで、すぐれた芸術作品を創造するようなことがある。あるいは、逆に、知的な世界にのめりこむと、ニュートンの卵(うで時計)の話のように、食への関心などなくなってしまうということもある。高級な機能をもったパソコンなのに、単純な数計算のみをしていたのでは、もったいない話である。


節制での禁欲は、快楽の禁欲となる

2013年08月16日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-4-1. 節制での禁欲は、快楽の禁欲となる
 性の禁欲ではこの欲を全面的に断つことになろうが、食の禁欲は、徹底した断食では死に至るから、一般的には、生を損なわない程度にとこれを制限・禁止する。食の欲求を生の維持については充たしつつ、その充足を一部禁じるのが食の禁欲になろう。
 栄養を補充するだけの食では、ひとは満足できない。おいしい物を食べたいのである。おいしくないものについては、欲することがないから禁じるまでもなく、禁欲はいわない。欲求するのは、おいしい物である。つまり、おいしい快楽となるものを禁じるのが食の禁欲となる。一部の宗教で食の禁欲をいうが、その対象は、まちがいなく、おいしいもの・快楽となるものである。酒肉を禁じることが多いが、それは人々がこれをおいしいと思い、快楽として欲していたからである。食をそそることのない土壁や牛糞を食べてはならないと禁じる宗教はない。
 性の禁欲の場合、食以上に快楽が敵とされる。自慰は、もっぱらに快楽が目的で生殖に関与しないが、「不犯」というとき、中世の物語などを見ると、これも不犯を破る行為とされている。自慰の快楽は、(男子の場合、実際の射精をもっての)現実的快楽で、現実の性交と同等と見なされたのであろう。
 禁酒・禁煙の禁欲は、酒・たばこの嫌いなひとには無用である。ギャンブルや麻薬なども同様で、それらの快楽にふけることのない者には、禁欲は求められない。節制の禁欲は、その欲求充足を快楽としている者への禁止となる。


禁欲主義-さまざまな欲求に対応する種々の禁欲主義-

2013年08月09日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-4. 禁欲主義-さまざまな欲求に対応する種々の禁欲主義- 
 禁欲は、欲求充足を制し禁じる。食と性の動物的欲求への制限が節制のもとでの禁欲になるが、欲求の多様さに応じて多様な禁欲の理解がなされている。最狭義の禁欲主義は、性的な禁欲として理解されるのが普通であろうか。
 社会生活全般にわたる欲求・欲望について、贅沢・浪費をいましめて、できるだけ質素・倹約にするとき、禁欲主義がいわれる。江戸期にはこの禁欲が美徳とされた。逆に資本制社会では、商品が売れなくてはなりたたないので、強引に欲望をかきたて、これを肥大化させていく。醜く脹らんだ現代社会の欲望を前にして、これを適正なものに押さえて欲望の暴走を抑えようとする今のエコロジーなども一種の禁欲主義といえよう。知的な活動の場面でも、ときには禁欲をいう。思い切った仮説を立てたいという欲求を抑えるようなとき、あるいは、異常な知的関心を抱く「知りたがり屋」が問題となるようなときも、禁欲をいう。
 食と性の欲求充足を制限する節制での禁欲主義は、禁欲であるより、「禁快」である。欲求というよりは、快楽を制限・禁止するものになる。社会的精神的な欲求・欲望の場合は、禁欲は、文字通りに欲求を禁じる。快を禁じるものではない。快は、その欲求を充足しても生じないこともしばしばである。だが、食や性では、欲求の充足よりは、快楽が意識され、これが問題とされる。そこでの禁欲は、快楽を禁じることとして自覚される。


「甘いが、カロリーはゼロ」ということでいいのか

2013年08月02日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-3-3.「甘いが、カロリーはゼロ」ということでいいのか
 食の快楽というと何といっても甘くて美味しいものである。甘いものは、基本は、高栄養の糖類の味わいであろう。この甘さの快楽の魅力は大きく、つい食べすぎとなり、肥満の大きな原因になっている。そこで、甘いけれども、それに見合う栄養はない食物に目がつけられることになった。甘さの快楽は確保しつつも、肥満につながる栄養の方を少なくしたもの、カロリーがゼロとか控え目のものが商品化された。
 いい手のようだが、問題があると言われている。本来、甘いもの=高栄養物だから、身体や脳は、甘いものの快楽を感受するとカロリーたっぷりの物を摂取したとみなして、それ相応の反応を引き起こしかねないことである。逆に、カロリーゼロの甘い物の多用に慣れると、甘いもの=カロリーゼロと見なすようにもなりかねない。カロリーゼロの甘い物は、心身に変調を来たす可能性がある。
 この心配は杞憂に近いことなのかも知れないが、以下のもう一つの問題は、現に起きている憂うべき事態である。それは、(理性的)人間の尊厳をだいなしにする、感性(快楽)への屈従という事態である。カロリーはゼロということで、甘みの快楽の方はおとがめなし、好き放題となる。本来なら、理性的意志が感性的欲求をほどほどに抑えて我慢させるべきであろうに、克己や自制の精神など何処吹く風とばかりに、カロリーゼロのコーラやケーキをむさぼる。快楽(感性)に隷従して快楽奴隷になりさがり、楽な方へ怠惰な方へと流れるのでは、人間の高級な精神は退化していくばかりである。