反価値の苦痛だが、価値創造に資することもある

2024年06月25日 | 苦痛の価値論
4. 苦痛の価値論Ⅱ-価値創造のための手段価値-
4-1. 反価値の苦痛だが、価値創造に資することもある  
 快は、ひとに好ましいもの・価値であり、苦痛は、これを避けたいもので反価値である。仕事をして価値あるものを創造しているとき、疲労などで苦痛になると、それを中止したくなる。苦痛は、価値創造を妨げる反価値でもある。だが、この苦痛から逃げずこれを甘受することもある。それは、一つには、その苦痛を回避せず甘受することで確保できる快が大きいとか、そこに生じている欲求・衝動が苦痛よりも強くなっているようなときである。これは動物もすることで、熊が蜂の攻撃の苦痛を忍んで蜂蜜を獲得するような場合である。ひとでは、さらに、そこに快が想定されるようなことがなくても、未来に向かって価値ある目的を見出して、その目的実現の手段として、苦痛から逃げず挑戦することが必要であれば、苦痛を甘受する。苦痛を踏み台にして、高い価値ある目的を達成する。苦痛は、ここでは、価値を創造する不可避の手段になっているということができる。
 苦痛は、生にとってマイナスのことがらであり反価値である。欲求にとっては、排除したいもの、反欲求となるものである。その苦痛という反価値・マイナスのものを、あえて受け入れるのは、そのことをもって、総体としては、より大きな価値・プラスが可能になるということによってである。蜂の巣を前にしての熊の苦痛甘受では、小さなマイナス価値の蜂に刺されての痛みに比べて、蜂蜜という大きな快・価値あるものの獲得がなるのである。快不快の総計において、プラスの価値が獲得できるということで、熊は苦痛を甘受する。
 ひとが苦痛を受け入れるのは、そういう自然的な快不快の差引で総じてプラスになるからということのみでなく、現にあるのは、苦痛のみ、マイナスのみという場合も、その甘受をする。感性的現在には見出すことのできない未来に、目的をえがき、その目的(価値)の獲得に現在の苦痛甘受が必須とみなしてそうする。ひとのばあいは、動物とちがい、快はなくても、未来に、価値獲得の目的を描きつつ、その未だない未来のために現在の苦痛を受け入れる。因果連鎖のはるか先の価値ある結果のために、これを目的に描いて、直近の手段となる苦労・苦痛を引き受ける。精神世界では、快はあっても些事であり、目指す目的は快不快を超越した道徳的価値の善行為であったり、政治目的の正義の実現であったりする。その高い目的実現は快不快を超越した世界であるが、そのために手段として苦労・苦痛を引き受けていく。快は、目的にもそれへの手段のうちにもない場合でも、ひとは、精神的価値の実現のために苦痛を回避せず甘受し、忍耐しつつこれを引き受ける。苦痛は、価値創造の手段価値となる。
 田に水を引くために苦労して水路をつくるようなことがある。その苦痛甘受が描く目的は快ではない。水路を作ることは、水田を作る一環としての一部の目的であり、さらに水を田に引くのは、稲を育てる苦労を引き受けるためである。最後には実りがあるとしても、これも、快になることかどうかは分からない。実りを金銭にするとしても、それは、快を得るためではなく、税金を払うためであったり自宅の改造のために利用するのかも知れない。苦痛は価値あるものをもたらす手段ではあるが、ひとは、かならずしも快に魅されて苦痛を引き受けるのではない。