目的活動以前の忍耐も多い

2017年06月30日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-1. 目的活動以前の忍耐も多い 
 ひとは、日々、目的論的に動いている。快や不快に自然因果的に動かされることもあるが、多くの行動は、目的をもってのものである。ビールを飲もうという目的をもって冷蔵庫を開け、ひげを剃ろうとの目的をもって洗面台の前にたつ。そこに立って、「はてなんのために?」と目的を忘れると、人生の終りの近いことを思うようになる。忍耐も、ひとの営為の一環として、目的論的に展開する。
 だが、忍耐は、そとから強制されることも多く、そういうときは、未来に目的を描きこれの実現をめざしてということにはならない。まずあるのは、苦痛であり、これを甘受せざるを得ないという一方的に受け身の現実である。未来がどうなるかは考える余裕もない。苦痛に対処し、さしあたり被害の拡大を回避し苦痛を少なめに無難に穏やかにと忍耐するのである。蜂に刺されて激痛がはじまる。痛みに耐えることから、ことは始まる。未来の目的のために蜂に刺されて忍耐し始めるのではない。苦痛の耳鳴りがはじまる。せみが庭で一斉に大音声を上げ始める。目的を描いて、せみに、耳鳴りに忍耐するのではない。ことは無目的に始まる。まず、苦痛があり、さしあたり被害を小さめに穏やかにと忍耐するのである。 
 しかし、ひとの忍耐は、そとからの強制であっても、自発的である。自然の圧倒的な威力を前にしては、苦痛を甘受する以外手がないと諦念することで、自ずからに忍耐するのである。ひとは、未来に生きる。その未来にとって苦痛甘受が一番好ましい結果を生むというようなことで現在の忍耐を自発的にすすめることでもある。せみが庭で朝から騒がしいといっても、追い払う無駄を繰り返すより、あきらめる方が穏やかな一日にできるであろうと、先の(目的の)賢明な計算ができる。そういう消極的な後付けの目的を描くことをもっての現在の忍耐ともなってくる。


目的活動としてのひとの忍耐

2017年06月23日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4. 目的活動としてのひとの忍耐
 ひとの忍耐は、(自然を超越した)自由の特性をもつが、同様に、自然の因果的展開を利用しこれを超越した、目的論的展開をする営為であることも大きな特性となろう。自然の因果の展開は、原因から結果へと一方向に因果連鎖をもってなる。だが、ひとは、これをふまえつつ、これを超えた目的論的展開をする。この展開は、目的を未来のうちにまず立てて、その目的を作り出す因果を逆方向に観念的に遡源し、目的のための手段となる手元の原因を見つける。自然は原因から結果へとすすむが、目的論は、まず、結果=目的からはじめてその原因へと時間的に遡源するから、因果を観念において逆方向に、果から因へと進む。そして、この手元の原因を確保し発動させ、これを踏み台・手段とすることで実在的に因果連鎖をたどって目的を実現していくのである。
 ひとは、忍耐において意識して苦痛を甘受する。これは、自然的には起こらないことである。自然的には苦痛は回避し排撃する。それをしないで受け入れるのは、目的があって、これを実現するには、(自然的には生じない)苦痛甘受があれば可能と、これを手段としてたて、手段-目的の展開を描き得ているからである。自分の田に水をいれるという目的を描き、自然的には他へと流れている水を、我田への引水(目的)がかなうようにと、その手段となる措置を講じる。苦労して、水を堰き止める堰をつくり水路を掘り、水の流れを変えて自分の田の方向へと導くのである。自然因果に背くのではない。自然因果をふまえつつ、目的のために、ひとの忍耐等の人為(的原因)をさしこんで自然因果の展開の方向を変えるのである。

 


「しごき」は、SM(サド・マゾ)なども真面目に考察すべきかも

2017年06月16日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3-5-2. 「しごき」は、SM(サド・マゾ)なども真面目に考察すべきかも
 しごきは、SM(サディズム・マゾヒズム) の奇怪な世界に戯画化されることがある。指導者が鞭を持ったサディスト(加虐性愛者)で、しごかれる者は苦痛に恍惚と魅されているマゾヒスト(被虐性愛者)という図柄である。SMは、性的快楽を得るために苦痛刺激を媒介にしているだけであろうが(Sの方は、攻撃・支配の快が、愛撫すべき性的場面に(弱い者いじめのように)歪んで出ているのであろう)、特訓での忍耐・苦痛を考えるに際しては、戯画にとどめず、これを真面目に分析すべきかも知れない。指導者の愛の鞭の与え方は、適切に効くようにとしっかり工夫すべきだし、特訓を受ける者において苦痛を楽しむということがありうるなら、それを見つけたいものである。苦痛を、快にまではいかなくても、求めたくなるようなものにする方法が見つけられるのなら、倒錯のMであっても、検討に値することであろう。
 脳内の快楽物質(ドーパミンあたり)は、単に価値物獲得とか快楽につながる神経刺激で生じるだけではなく、特殊な苦痛刺激などでも、これが脳内に分泌されることがあるという。ジェットコースターとかバンジージャンプでは、恐怖という強烈な感情の刺激で、どうもそういう快楽物質が出て病みつきになるもののようである。M趣味のひとは、特殊な苦痛刺激を介して、おそらく脳内に快楽物質をだし、性的快楽を高めているのであろう。
 苦しいはずのマラソンで、ランナーズハイといわれる恍惚とした快の状態になることがあるという。宗教の世界では古くから、過激な苦行があった。苦行は、途中からは、苦痛であるよりも、苦痛刺激を介して脳内に麻薬様物質が出て、快体験となることがあったのではないか。これらは、Mと同じように、苦痛を快にと転換しえているのだから、苦痛をよりよく忍ぶために、忍耐の参考にできるものがありそうである。
 能力を高めるためにと「しごく」指導者は、特訓が快適なものになるように不快・苦痛対策に種々知恵を傾けることがあってしかるべきであろう。かつ、仮に快にできるからといっても(スポーツや音楽の場合は、本来、娯楽・楽しいもので、しごきも工夫すれば簡単に快適なものにできるであろう)、行き過ぎには、もともと心身を損傷しがちの特訓のこと、注意がいる。これらも科学的な指導(しごき)の一環ということになろうか。


しごきは、合理的科学的なものでなくてはならない

2017年06月09日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3-5-1. しごきは、合理的科学的なものでなくてはならない
 教育とか訓練には、忍耐させることが、いわゆる「しごき」が必要となるが、しごきは、科学的合理的でなくてはならない。苦痛を忍耐させるのだから、行き過ぎるとダメージを与えて、能力を伸ばすよりは、逆にこれをつぶすことになる。無駄・無意味な忍耐、有害な忍耐のあることを承知していなくてはならない。限度を超えたしごきは、暴行・傷害罪になる。能力向上に反するしごきは、堅く戒める必要がある。
 ひたすら走ればよいように見えるマラソンでも、自転車で竹刀をもって追いかけるのではなく、合理的科学的に特訓する必要がある。広島県の山奥の世羅高校を日本一のマラソン校に育て上げた(のちに広大の教授になった)新畑茂充先生は、その鑑ともなるひとで、指導は、頭を使うこと、科学的合理的なものに徹底したとのことである。私は(定年後、スポーツ関係の学部に三年ほど席をおき)新畑先生の近くに研究室を置いていたことがあるが、先生の部屋には血液検査をする高価な機器が置かれて、生理学の研究室といった感じであった。なにより、新畑先生は、声はちいさく、根性だ何だと激して叱る熱血漢などとはかりそめにも言えない感じで、指導は、理性に徹する以外ないと思われるような先生であった。最近、大学マラソンでは、青山学院が優秀な成績を出しているが、ここの指導者も、やはり、科学的な指導に力をいれているようで、走って筋肉が傷んでいるのを早急に適切に回復させるために、アイスや冷水をつかって冷やすというようなことをしているとか、である。 
 しごき・忍耐の限度を見定めて、科学的合理的に指導することが肝要で、あとは、多くの場合、見ているだけでことは進んでいく。もちろん、「科学的に」ですべてが片付くわけではない。指導が科学的になったところで、より優れた者になるには、能力はべつとすれば、本人のやる気、どれだけ練習に励むかにかかってくる。根性・闘争心をたたきこむ根性論に戻る面が出てくる。


「忍耐させる」しごきは、教育・訓練の場には必須である

2017年06月02日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3-5. 「忍耐させる」しごきは、教育・訓練の場には必須である
 教育・訓練は、ひとの能力を高めるためにする。勉強にしてもスポーツにしても、忍耐させることが必須となる。能力を高めるには、能力の限界になり傷害が発生しそうになるぐらいのところを訓練していく。筋力アップでは、筋繊維を一部壊し(筋肉痛となる)、その修復時により大きな筋肉にするというから、筋肉に若干の傷害を引き起こすような過激な訓練が必要となる。苦痛が生じ、これに耐えることがいる。苦痛の甘受、忍耐がひとの諸能力を伸ばす。
 苦痛をもたらす訓練は、苦痛一般がそうであるが、自然的には避けたいもの、逃げたいものである。訓練・練習は、いやいやになりがちであり、ぐずぐずすることになる。そとからこれを駆り立てることが必要である。教育・監督するものがこれを後ろから追い立て練習の場へと追いこむ。さらに練習中も苦痛はできれば回避したいのが自然であるから、これをさぼらせないようにと鞭うつことになる。ひとりだと苦痛・忍耐の限界を低くおこうともするので、そとから合理的に計って高めぎりぎりの限界を設定して、そこまでの苦痛を忍耐させ能力を開発していく。苦痛の忍耐は、どんな訓練にも必要なことである。「猛訓練」は、ぎりぎりまでを「しごき」「しぼる」ことである。
 ただし、しごきでは、苦痛に忍耐させ若干のダメージを心身に与えることになるのだから、指導する者は、厳格に合理的科学的になり、忍耐させるその限度をしっかりと見定めていなくはならない。思い通りにならないからといって焦ってはならない。教育・訓練の場で一番忍耐が必要なのは、もたもたするしごかれる者ではなく、イライラするしごく指導者・教育者である。