忍耐には、我慢と辛抱がある。

2011年03月30日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-7-5.忍耐には、我慢と辛抱がある。
 忍耐は、時間のもとで展開される。その時間的持続のちがいによって、忍耐では短期と長期のものが区別される。主として感性を抑圧する短期的なものと、精神的理性的に抑圧の意志を持続させる長期的なものである。前者は、我慢(≒patience)となり、後者は、辛抱(≒endurance)となる。
 プラモデルの組み立て作業を「我慢する」のと「辛抱する」のは、違った忍耐になる。まずは、我慢するのは、そのプラモデル作りが嫌いで、即やめたいという感情のもとにあって、その不快感情をおさえて忍耐しているのである。だが、辛抱するひとは、プラモデル作りが好きであっていい。ただ、これを最後まで追って完成させるのは、途中でしんどくなることもあって、持続の意志が、辛抱が必要となるのである。あるいは、はじめから嫌なのを我慢する者の場合でも(手先が器用なので頼まれてしまい、引き受けた以上は、仕方がないと)、我慢をなだめたり我慢が少なくて済むやり方を工夫しながら最後まで耐え続けるとき、やはり「辛抱する」のである。
 我慢は、いまの苦痛や欲求に直接対峙してこれに忍耐するのであり、短期になることが一般であろう。辛抱は、今の我慢に直接するとともに、これを越えて、高い理性的精神のリード・展望をもってするものとなる。未来を視野にいれて忍耐を維持していくという努力、意志の持続に、辛抱はなり、長期になるのがふつうである。禁煙の忍耐では、「我慢」は、喫煙(タバコをすうこと)を我慢する。吸いたいという欲求に直接向き合っている。だが、「辛抱」は、喫煙を辛抱するのではない。禁煙を辛抱するのである。禁煙というはるかな目的を見つめながら、喫煙の我慢をリードする。
 忍耐の対象のちがいでその時間展開は異なるが、我慢と辛抱は、その同じ忍耐の対象についての短期と長期、感性のレベルとこれを超越し統括する精神のレベルの違いとなる。食の節制では、おいしいものを前にしての食事では、それを抑制するのは、我慢で、長期にわたって節制の意志を持続させるのは、辛抱となろうか。呼吸を禁じる場合、はじめは、息するより楽だが、30秒ぐらいになると苦しくなり、「我慢」となる。60秒もすると苦しさは辛さにまでなり、「やめたい、息したい」というのを精神の高みから抑え続けて、もう少しの「辛抱」といったことになる。

忍耐は、快と欲求を差し控える。

2011年03月24日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-7-4.忍耐は、快と欲求を差し控える。
 忍耐は、受け入れたくない苦をじっと甘受しつづけるが、受け入れたい快については、逆に、受け入れずに保留しつづける。価値あるものとそれによる快は、欲求の対象であるが、この欲求を不充足のままにとどめ続けるのが、忍耐である。忍耐は、この欲求を鼓舞・促進するものでないことはもちろん、これを排撃して無化するものでもない。苦の忍耐が受身であるように、(快の)欲求の忍耐も受身である。わいてくる欲求をしっかりうけとめてじっとこれを抑止するのである。
 快は、苦とちがい、それの現存しないところで、これに忍耐することとなる。想像に描く、無にとどまっている快楽をかなたに見つめながら、現在のその無の持続に忍耐する。苦は、その有に忍耐し、快は、その無に忍耐する。忍耐できなくなったら、能動的に快実現へと、無から有へと動く。忍耐するかぎりでは、快の無の現状にとどまり、これを有化したいという欲求を抑止し続けるのである。
 不快と同様、快も成層をなす。下位の動物的成層では、快楽は大きく、これが欲求の主観的目的自体となる。ここでは、節制がそうだが、欲求を抑圧することであるより、快楽を抑圧することになる。ひとの欲求では、上位層になるほど、快は希薄になり、欲求自体が前面にでる。人間的生の上位層では、快が満たされないことは問題ではなく、欲求の不充足が問題となる。希望や幸福の実現に快の伴わないことは些事にとどまるが、それらの欲求の満たされないことは、苦悩をもたらす。所有欲への忍耐は、所有の喜び(快)の欠如に耐えるのではなく、所有したい価値物の無に耐えるのである。
 その欲求が時間とともに大きくなるものの場合、忍耐も大きくなる必要があり、欲求が小さくなるものならば、忍耐も小さくて済むことになる。飲酒・喫煙の場合、短期的には、前者になり、長期的には、後者になる。その長期の忍耐では、喫煙・飲酒の欲求自体が小さくなって、しだいに忍耐することを無用にする。 
 (快への)欲求の忍耐は、そのことでの苦・不快を生じるから、苦にも忍耐することになる。食の欲求を我慢していると空腹の苦痛を生じ、この苦にも耐えねばならない。他方、苦痛への忍耐の方も、苦のみでなく、その苦を回避したいという欲求をもつから、欲求への抑圧・忍耐を伴う。

忍耐は、苦を甘受する。

2011年03月16日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-7-3.忍耐は、苦を甘受する。
 忍耐は、「苦痛に耐える」。この「苦痛」はというと、生の損傷において生じ、「痛み」という刺激(感覚)と、感情としての「苦」からなる。苦は、損傷等によるダメージで生の活動が妨げられて鬱々とし、もがきもだえる感情的状態であろう。苦は、不快になるが、不快は、なお抑うつ的にまではならない欲求不充足とか、嫌な感じ等も含むことになろうか。
 そのことが忍耐になるかどうかは、不快・苦になるかどうかで決まる。「走る」のがはじめは楽しく、苦がなければ、そこには忍耐は無用である。だが、しばらく走っていて苦しくなりはじめると、忍耐が必要となる。苦しい状態が耐え難いぐらいになると、「辛い」状態になる。「つらさ」は、苦しさを悲壮な思いで耐え忍ぶ。おそらく悲しみの契機を伴ってくる。 
 忍耐は、苦しみに耐えるのだが、苦を排除(あるいは回避)するのではない。排除(回避)するのなら、それは、忍耐しないのである。歯痛に我慢する者は、歯を抜かないで痛みを甘受する。我慢できなくなると、抜歯して痛みを排除・撲滅する。忍耐は、苦しみ・辛さを甘受するところの受動性へと自己をとどめ続ける。
 苦痛を受け入れるのが忍耐であるが、もちろん、価値物として、歓迎して受け入れるのではなく、受け入れがたい反価値と意識しつつ、これを受け入れ、じっとその苦痛を保持し続けるのである。「辛」い、突き放し排除したいものを、じっと「抱」きしめるのが、「辛抱」である。
 快(の欲求)への忍耐は、その快の無=欠如に耐えるが、辛苦の忍耐は、辛苦の現存することに耐える。苦が現存していないのなら、それは楽なのであり、忍耐無用である。また、快とちがい、単に生の下位層のみでなく高度な精神的生の感情での辛苦も、耐え難いものがあって、忍耐する強い意志が必要となる。快系列の高位層の幸福とか希望は、感情的には希薄だが、反対の絶望などは、つらい苦悩の感情と一体的であり、しばしば辛苦の大きさが絶望の大きさになる。

節制の精神は、エコの新時代をリードする。

2011年03月08日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-7-2.節制の精神は、エコの新時代をリードする。
 節制は、食欲・性欲の動物的欲求の抑制をもってなり、感性の抑制・忍耐の典型になる。その節制や忍耐は、おそらく、ひとの理性的精神の形成にかつて大きな役割を果した。いま、エコの時代となり、「省エネ」「節電」といった節する精神が取りざたされ、新しい生き方が模索されつつある。節制にも新らしい意義が見出されそうである。
 欲望を肥大化させた現代人は、大量消費・大量廃棄で環境を浪費・汚染して地球を破局に追いやりつつあるが、これを見直して、リサイクル等で廃棄物ゼロの循環型の生活に改めることをはじめてもいる。だが、それだけでは、肥大化した欲望は改まらない。これを適正なものに制御・抑制することが、さらにいる。節水、節電などの節度ある営みは、その新しい試みである。
 省エネ等のエコの試みは、無駄をなくすることであるが、場合によっては無理やりに欲求を抑圧して、生の営みを資本制以前の貧しさに引き戻すことにもなりかねない。無理をして生の活動を萎縮させるようなことのない、かつ浪費とならないような、適正な欲求にとどめた(生産・消費の)活動が求められる。節制は、この適正な欲求充足の理性的な活動そのものである。つまり、節制は、無理にダイエットして痩身の聖人になれというのでも、過食を放置して肥満・病身の成人になれというのでもない。自身にとって一番の健やかな食生活を節制は求めるのである。
 多すぎず、かといって少なすぎず、理想的な食生活をもとめるのが食の節制である。エコの未来も、欲望を肥大化させず適正なものにして、地球の厄介者にならないよう、健やかに営まれるべきであろう。節制は、これからのエコの生活そのものであり、かつ適正な欲求・欲望の理想型を確立するための良い見本となるものであろう。

忍耐は、ひとをつくる-動物(猿)から人への飛躍にも一役買った-

2011年03月02日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-7-1.忍耐は、ひとをつくる-動物(猿)から人への飛躍にも一役買った-
 ひとは、必要に応じて、苦痛をあえて甘受し、欲求もほしいままにはさせず禁じたり抑制する。自然の快苦に従うのみの動物と、これに距離をおき制御・制限する人間のちがいである。動物(猿)が人になったのは、その精神の形成の点では、概念(≒言語)獲得に負うところが大きいが、忍耐の果たすものも小さくなかったのではないか。我慢・忍耐は、動物的な快苦・欲求を抑制し、これから自由になって、ひとを理性的精神の高みに立たせていく。
 赤ちゃんは、はじめは専ら動物的に自然的な欲求・快苦にしたがっているが(真夜中であってもお腹がすいたらお母さんをたたき起こして食事する)、これが外的に抑制され、自身における忍耐を強いられ人間的になってくる。「忍耐させられる」としても、理性が自身で意志してするものが忍耐である。「泣かない」ように忍耐させられるのは、外的に口をふさがれるのとちがい、自身の意志をもってその口を自らがふさぐことへと強制されるのである。「自身が意志する」ことを強いられるのである。やがてこの忍耐の(親などそとからの)強制を、自身に内化して(親の考えを先取りし)自発的に忍耐するようになる。動物的なもの、利己的なものを抑制し忍耐して、普遍的な理性の高みに自ら生きることができるようになる。
 かつてひとは、弱小の猿として、強いゴリラなどにアフリカの楽園を追い出され、苦難の放浪を強いられた。苦難を避けていたのでは生存できず、この苦難回避等の自然欲求を自らが抑えること(忍耐する意志の形成)へと強いられた。やがては、自身で積極的主体的に忍耐するようになり、動物的感性を乗り越えてこれから自由になって人間的精神世界に生きることになっていった。忍耐は、動物的感性を制御する機能としての理性を大きくし、理性的人格の成立に一役買ったはずである。いまでも、しっかりした人間形成には、忍耐は不可欠である。