節制の契機をなす永続的禁欲意志

2010年05月23日 | 節制論
6-5. 節制の契機をなす永続的禁欲意志
 禁欲をつづけていると、欲求そのものが退化し無欲化していくことがある。無欲化すると、禁欲する意志は、不要になる。喫煙欲は、禁煙に慣れると消失する。だが、性欲は、生に根源的な欲求で、少々禁欲を貫いたからといっても消えない。
 欲を絶つ禁欲とちがい、節制では、欲求は持続させる。節制としての節煙では、たばこへの欲望を維持しつつ、ある限度以上を禁止する。禁煙とちがい、節煙では、限定的禁煙の意志を永遠に持続させることになる。
 節制する者は、欲を維持し、その充足の快をほどほどにしながら、過剰のところは、禁欲する。欲と禁欲の戦いを持続させる。軽い禁欲の意志をもって、欲を殺さないように、しかし暴れないようにと制御する。飲酒の節制がきくひとは、これを死ぬまでつづける。節制は、永遠につづく。
 節制は、いわゆる禁欲・禁欲主義より、禁欲を長くもつことになるわけだが、欲・快楽も、刹那の快楽主義より長く強く維持し楽しむものになる。欲の禁止を一部にもつことで、欲を強くし際立たせ、快楽を際立たせる。ほどほどの禁欲は、感受性を高め、欲の充足における快楽を強いものにしてくれる。空腹時は、なんでもがおいしいものになる。

節欲・節制は、欲を健やかに保護する

2010年05月23日 | 節制論
6-4. 節欲・節制は、欲を健やかに保護する。
欲望を禁止して、無欲化すると安楽の境地の得られることがある。だが、禁止できないものもある。食欲や睡眠欲は、これを一切満たすことなく無理やり禁欲すると、死につながってしまう。全面的根本的禁止ではなく、過剰な部分のみの禁止、つまりは、節欲・節制にとどめる必要がある。
禁欲主義では、欲そのものを悪とみなすのが普通であるが、節制では、欲自体は、悪とは見ていない。自然的な欲求は、自然で、むしろ理性の方がこれを歪め、空腹でもないのに一律に日に三回も食べさせ、快楽を味わせ満腹させる場合もある。その不自然な杓子定規な食事をやめれば、健やかな自然的食欲に立ち返ることもありそうである。節制は、自然的欲求を制御することより、悪しき習慣などをつくっている人間的精神・理性をただすことが大切になるのかもしれない。
節欲・節制では、その欲求の価値物が豊富に与えられ、すきにできることが前提にある。食べ過ぎへの節制は、過食できる食料があっての話である。他方で、いくら美味の物がたくさんあっても、食欲がなければ、食の度を過ごすことはない。食欲不振者に、過食の節制は、無用である。
つまり、節制する者は、物に恵まれ、生命主体としても恵まれて欲求も旺盛だということである。自由ということも大切になる。わが国の刑務所では、飢える心配はなく、かといって食べ過ぎもなく健康的である。だが、好物への欲求、喫煙・飲酒への欲求は、強制的に禁じられ排除されている。節制は、自己のうちから生じる自然的な欲求を自由意志で制御するもので、まずは好きなようにできることが前提になる。そとから強いられたものは、自分の節制ではない。がけを前に自分で飛ぶ決心をしたら勇気になるが、いやいやに、うしろから突き落とされるのは、勇気に入らない。自己の意志において勇気や節制をいだく者は、自由にも恵まれているわけである。





無自覚の禁欲、形だけの禁欲

2010年05月23日 | 節制論
6-3. 無自覚の禁欲、形だけの禁欲
大切な欲求の実現のために、他の欲求を我慢することがある。辛い仕事の不快をあえて背負う。他の欲求をその間我慢しているし、しんどいことに耐えているものとして禁欲的である。仕事中は、食欲も我慢しているし、すわって休むことも我慢している。これらは、意識しないとしても、小さな欲求としてうごめいているはずである。仕事中でも、休憩なし・食事なしでいると、これらの欲求が大きくなって意識に登場することになる。
イスラムの断食では、日中のみ食事しないで夜まとめて食べる。朝食(breakfast)を「断食(fast)を破る(break)」と英語ではいう。夜のみ断食して朝はこれを解くと。これでいくと、われわれの三度の食事も、それをもうすこしゆるくした断食ということになる。あさ食べて以後、昼までは断食する。確かに、その間は、食欲が生じたり空腹になっても食べないのであれば、食を断っているのではある。二日、水以外口にしないなら、断食と一般も認めるであろう。だが、一日のみだとどうだろう。半日だと、もう断食とは一般には言わない。欲求の制限・我慢は、完璧に禁じゼロを永続化するのではなく、量的制限であり、量の世界では質的区別はつけがたい面をもつ。ヘビースモーカーでも、通勤時間の一時間は禁煙している。一服して10分ぐらいは、喫煙「したい」と思わないが、そのあとは、もう「呑みたい」と欲求をもつ。これを抑圧して通勤の60分は我慢するのであり、禁煙しているのである(列車にも「禁煙」と書いてある)。
欲を禁圧すると、ときに、その欲望は、無化していくのではなく、単に意識の表面から消えるのみで、心の底に無意識化して存続することがある。性欲を禁じることで時にそのエネルギーが芸術制作にそそぎこまれる。場合によると、欲望の無意識化は、身体に転化されて神経症状に出ることもある。
 無意識化するのではなく、当人は欲望を意識しているが、そとに、社会にだせないで、隠蔽することも、一種の(社会的)無意識化であろう。多くの欲望は、そとからは、見えない。政治権力をめぐる世界で、表向きは考え方の相違から人事が動くように見せつつ、実はうらでは、本当は、個人的な名誉欲・権力欲がこれを動かしているということがある。

主義としての禁欲―禁欲主義

2010年05月22日 | 節制論
6-2. 主義としての禁欲―禁欲主義
 食欲を禁じては、生はなりたたず、死を迎えるのみだが、欲のなかには、余計な欲で、なくてもよいものが、結構ある。いい車が欲しいといった所有欲や、自己顕示欲等。しかも、その欲の不満足の度合いは大きく、人生の快適さを失わせるようなことがある。そういうこざかしい我欲は、なくする方が自身にも社会にもよい。この欲をなくするなら、その欲求不満も無化するから、安らかな心になる。
 貪欲・我欲が無化すれば、「ほとけ」の心となる。この無欲化の大安楽の境地は、快である。禁欲だが、(精神の)快となる。
 快楽が目的になる欲求では、快楽のとりこになることがあり、その中毒症状が進行すると健やかな生はなりたたなくなる。アルコールや麻薬の快楽は、その典型である。反快楽の禁欲がここでは求められる。
 禁欲主義では、欲と快楽の拒否ではなく、苦痛を求める場合もある。苦痛という罰を甘受し罪をつぐなうことで、清められ安堵できるというわけである。未来の方向に貸しとして現在の苦労・苦痛、禁欲が求められることもある。「お茶断ち」は、未来の恵みへの願掛けである。

無欲化・反欲化―欲と禁欲の終焉

2010年05月22日 | 節制論
6-1. 無欲化・反欲化―欲と禁欲の終焉
 「したい」(=欲)、「しない」(=「したいとは思わない」)(=無欲)、「したくない」(=反欲)がある。食事でいえば「食べたい」「食べたいとは思わない…が、食べることを厭いもしない」「食べたくない、嘔吐しそうだ」になる。
 その欲が元来生体に有害である場合、喫煙欲や麻薬への嗜好などは、ほどほどの節制・制限ではなく、禁止・禁欲が求められる。生じたのを抑えて禁じるだけでは、また生起してくるから、この欲をその根っこから始末することが必要となる。この、欲自体を無化した状態が、無欲であろう。禁煙は、たばこを吸いたいという欲望をなくする無欲の状態になってはじめて、成功したと見なされる。吸いたいが我慢するという状態においては、喫煙への欲望がなお存在している。無欲になって、はじめて、禁欲(それへの努力)は終結する。
 反欲になれば、一層、その欲望の禁止は、徹底する。欲望をもたない無の状態であるどころか、そのものを嫌悪し避けたい、排除したいと思うなら、禁欲は、完璧となろう。禁煙に成功したひとでは、たばこの煙は、けむたく嫌になる。場合によると、無欲化する途中で、欲を意識的に排除して、その欲から遠ざけるために、この反欲が使われることもある。禁煙の場合、薬で、たばこがおいしくなく、むかつくようにして、反欲を経験させ、欲から離す機会をつくって、しだいに無欲化する方法がとられることがある。