苦痛の忍耐は、自律自由の能力を強化する

2020年01月30日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-6. 苦痛の忍耐は、自律自由の能力を強化する
 忍耐は、自然的には回避される辛苦をあえて受け入れて価値物(目的)を獲得する。この忍耐は、同時にそのことで、自分の自律的能力を創造・強化することともなる。苦痛は、これの回避へとひとを強いる。この自然的強制に通常はしたがうが、ひとは、手段として必要なら、この苦痛の強制(回避衝動)を拒否して、強制から自由になって、苦痛を甘受することができる。あるいは、忍耐は、欲求を抑制して不充足にとどめ不快・苦痛を忍ぶ。自然的な欲求・衝動を抑えてこれから自由になる。自然の強制を抑止する忍耐をとることで、ひとは、自身の理性をもって自律的に展開する自由の世界を確固としたものにしていく。
 忍耐を重ねるたびに、その忍耐力は高まる。より大きな苦痛に耐えうる対抗的な力を身につけていく。それは、苦痛甘受という超自然・自由のより大きな能力を創造するということである。忍耐も、一定の限度以上の苦痛にはねじ伏せられる。自由をその時点で放棄して自然の強制にしたがう。忍耐を重ねることは、苦痛に耐えうる限度を高めて、苦痛への敗北という自由放棄の限度を、より高くにおけることになり、自由の領域を拡大していくこととなる。
 苦労は、買ってでもせよという。忍耐は、辛苦を甘受するという反自然の対応をとることで、価値物を獲得できると同時に、その忍耐のたびに、自身の自由の能力を向上させる。鈍感力とでもいう苦痛への対抗的な力を忍耐のたびに大きくし、苦痛に過度の反応をせずに済むような感受能力を身につける。心身を衝撃に対抗できるだけの強力なものにと改造もする。さらに、目的を中心とした価値ある世界を多彩に描いて、その手段・苦痛の価値を一層大きくできるようにもなり、達成可能な目的の世界をひろげていく。苦痛の忍耐は、ひとの自律自由の世界を支え、かつそのためのより優れた能力を開発していく。

現在の苦を、未来の快・価値が支える

2020年01月23日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-5-3. 現在の苦を、未来の快・価値が支える 
 苦痛の忍耐を支える第一のものは、この忍耐を手段とし、意義あるものとする未来の目的である。同じ苦の忍耐でも、未来がそれで輝く場合と、未来の楽しみがないものでは、まるで異なってくる。苦痛への忍耐を手段・踏み台にして結果において大きな価値が獲得できるということがあっての忍耐である。我慢大会は、賞金が巨額だと、命にかかわるぐらいに奮闘できる。
 苦の忍耐は、理性意志が実行するが、それにエネルギーを与えるものは、なんといってもその目的であり、これの達成の楽しみであろう(強制による忍耐の場合は、その忍耐放棄による懲罰の回避ということが直近の目的になろう)。苦が成果を生み、目的を可能にする。大きな目的、大きな楽は、現在の苦痛を帳消しにして、大きな忍耐を可能にする。しかも、苦を重ね忍耐するたびに慣れてきて適応能力を高め、踏み台(苦痛)を高くして、より高い価値獲得なり、より大きな楽・目的に向かえることになる。
 その目的を描くには、いまある苦痛を踏まえながら、いまはない未来への想像をもってすることで、洞察と想像の力に富むことが必要となる。未来の楽・価値を想像し、これといまの苦をならべて、苦を楽の色に染めて想像しつつ、耐えて、楽を現実化する。賢い子は、よりよく忍耐できるという。ひとつの苦痛であっても、その忍耐の目的も、これをもって可能になる価値ある世界も、たくさん描ける。それを多く描けるほど、あるいは、目的達成へのプロセスを詳細に描けるほど、忍耐の歩みは力をえて、しっかりとした推進力をえることとなる。
 ダイエットとか体力強化のトレーニングなどは、終わりのない長期の辛抱となる。途中で、もうやめたいと何度も思うが、そのたびに、その価値・目的をしっかりと想起して、やる気を呼び戻す。「気持ちがのらない、今日は、やめ」と忍耐放棄の怠惰に誘われる。それが続くと忍耐の完全な放棄となるから、今日だけでも続けねばと思う。成果を単にスリムになることのみにしている場合は、スリムの価値よりダイエットの苦痛の方が大きな反価値と思うようになると忍耐放棄は確定する。だが、ほかの目的とか夢がその忍耐に想起されて、健康だとか、長生きだとか、家族を思えば、あるいは、「あいつに負けてはならない」「公言していることだし」とか意識できれば、どれかがその時のやる気を起こさせることになる。現在の忍耐を支える未来の目的はひとつだとしても、それをめぐって可能になる価値ある世界が多様に広がっている。その忍耐で可能になる大きな多様な魅力ある未来は、現在の苦痛をしっかりと支えてくれる。

忍耐の苦痛の歩みは、難路で行き止まりのこともある

2020年01月16日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-5-2. 忍耐の苦痛の歩みは、難路で行き止まりのこともある  
 忍耐するものは、目的を描き、そこから、遡源して苦痛の現在につながる道を選び出して、苦痛忍耐の現在から、未来の目的までの道をたどる。未来の価値物獲得・目的から現在の苦痛のあるところまでは、一本の道である。だが、逆の、現在の苦痛から忍耐をもってたどる目的までの道は、何本にも分かれた道になっている。つまり、途中で、脇にそれる道があって、地獄への分かれ道もあり、行き止まりの道もある。それを注意しての忍耐の持続でなくては、苦痛は生きない。目的から原因へと遡源するのは、観念上のことで、見通しのきく高みにいて迷路の出口から入口へとたどるという点では、困難は少なく確実な遡源である。だが、因果を踏まえて実在的に歩む苦痛甘受の忍耐の過程は、かなたに出口(目的)を想像しながらの見通しの効きにくい妨害・障害の多い道を進むのであり、偶然もからみ、外れになる道も選択肢として出てくる困難な過程となる。
 忍耐の道は、当然、苦痛のいばらの道である。自然的には回避するその艱難辛苦の苦痛の道を、あえて選んでいるのである。苦痛甘受という犠牲をはらうのは、それを手段としてとり、そのいばらの道を通ってのみ、目的が実現可能となるからである。労働は、辛苦・忍耐の過程が普通であろうが、これは、大体が価値ある結果に結ばれる。そういうしっかりした工程・過程をもったものが社会的に労働として定着しているのである。だが、個人の描く個人的な営みでは、苦労は、その忍耐は、未来のばら色を描いてはじめたとしても、思うようにはいかないことが多い。目的として描いたものは、願望・期待にとどまり、実現されず、途中であきらめることもしばしば生じる。「骨折り損の、くたびれもうけ」である。忍耐するに際しては、希望的観測でうごくのではなく、英知を働かせて、確かな踏み台となるものを選択し、忍耐中も、目的実現の道から外れないように、よく注意しておくことが必要になる。
 苦労・苦痛を重ねて忍耐すれば、程度の差はあれ報われると思いたくなるが、そうはいかない。宗教的なものなど、忍耐の結果は、その苦痛甘受と直接に因果をもってつながっていることではないから、頼りないことである。現世の受苦が来世の楽を可能にするという教義があるが、確実なのは、現在の苦難・不幸のみで、来世の至福の未来は、むなしい願望にとどまる。忍耐では、断念しないことが大切だが、それは有意義なものについてのことで、愚行と分かった忍耐は、即刻に中断しなくては被害が大きくなるばかりである。忍耐は、すればいいというものではない。苦痛を甘受し、おのれの身を切りさいなむのであるから、よくよく考えながら忍耐するのでなくてはならない。

忍耐による価値創造

2020年01月09日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-5-1. 忍耐による価値創造 
 自然的には苦痛からは逃げる。傷害などのマイナスがそれで回避できる。だが、忍耐は、苦痛を受け入れる。価値物獲得が、その苦痛・傷害を受け入れることで可能になると見て、これを手段として受け入れる。もちろん、単なる苦痛は、価値あるもの、快・楽を生むどころか反対であり、苦痛の状態を受け入れることが多いほど、生は傷害などの被害、反価値状態を大きくする。価値を生む苦は、価値あるもの、目的を描いて、これから遡源して見つけられるものであり、その展開が目的にまでしっかりつながった手元の苦痛である。それをもって目的実現が可能となる苦痛、いうなら創造的な苦痛、反価値の苦痛を価値にと転換する創造的な忍耐が選ばれねばならない。  
 労働は、欲求充足のための使用価値を生み出すが、それには、それを産み出す、心身を労しての苦痛甘受・忍耐が必要となる。楽園からの追放でアダムに課された罰が労働であったと言われて納得できるぐらいに、労働は、辛苦に耐える。どんな使用価値を産むにしても、いずれも同じ苦痛甘受がこれを可能にし、この苦痛甘受・忍耐が価値ある働きをする。苦痛という損害・有害の反価値を、忍耐は、ひとに有益で役立つものとしての価値へと転換する。自分の苦、忍耐は、その創造した物において価値として結晶する。自他の欲求を充たす使用価値となり、さらに生産財としては別の価値創造に役立つ価値ともなる。自分の別の欲求のために、それをどんなもの(商品)とでも交換できるのであれば、苦痛(忍耐)の価値は、あらゆる欲求を充たす普遍的な価値になる。
 苦労し忍耐して作り出した物同士を交換するとしたら、それの持つ価値に注目しての等価交換となろう。相互に相手の創造した物に、自分にとっての使用価値を見出し、自分の苦労の作り出した物は自分には使用価値はないのでそれを譲って交換しようとする。そこで交換は、相互が納得して損なしでということでは、同じ量の苦労が結晶した同じ価値を交換することになる。森の木から机一つを作るのに5日の苦労を費やしたとし、他方、うさぎ一羽の狩猟に1日かかった計算になるとすると、うさぎ5羽と机1つの交換が妥当となる。それは、それぞれに含まれている苦労の大きさが等しいということである。どんな異なった使用価値をもっているとしても、同じ辛苦の忍耐であり、それの大きさが等しいとの見積もりである。忍耐の大きさは、時間持続で測られる。ここでの交換は、苦痛の強度がほぼ同等とすれば、あとは、それに費やした苦労の時間の長さが等しいことで成立する。労働における苦痛、反価値、したがって忍耐をもってなる価値、その分量が両者において等しくなっているということである。

忍耐は、苦痛の約束する未来を見ている

2020年01月02日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-5. 忍耐は、苦痛の約束する未来を見ている
 ひとの忍耐(苦痛甘受)は、苦痛の現在を踏み台・手段にして、未来に、高い目的・価値物を実現しようとする。ひとは、未来に生きる。日々の些事でも、未来の目的に導かれて動く。単に部屋を出るだけでも、トイレに行くとか、ビールを飲もうという目的を描いてすることである。重大事の、その人の生きがいも存在自体も、その未来によってなる。夢・大志をいだき、遥かな希望・目的を描いて、これを目指して現在を生きる。その目的を実現するため、これの手段・踏み台を見つけ出して、この手段に働きかけることからはじめる。この手段が楽しいことであれば、スムースであるが、これが苦痛の場合は、躊躇しがちである。この苦痛を、憧憬する未来の目的のために、あえて受け入れるのが忍耐である。
 忍耐は、苦痛受け入れに留まっているつもりはない。苦痛はいやなことであり、はやく片付けてこれを逃れたいと、その苦痛の現在からこれを克服した未来へと、忍耐する者は自身を駆り立てる。この手段が快の場合は、その引き受けに躊躇することはないが、これに魅され停滞することが生じる。その先の目的が実現できなくても平気でもある。食は、栄養摂取を目的とする手段であるが、その目的が実現できず栄養がゼロでも、おいしければ、その快楽に浸ることができれば、満足である。栄養摂取の大目的は忘れられることも多い。性的快楽など、手段のはずが目的自体にされてしまい、本来の目的の生殖は、忘れるどころか、これを意図的に回避することも珍しくない。だが、忍耐のように、苦痛・不快が手段の場合、そこに停滞したくはないし、目的実現をもってはじめて苦痛は価値あるものに変換でき報われるのであるから、この苦痛を早々に片づけて目的へと只管に向かうことになっていく。目的実現が不可能と分かった忍耐は、即中止することでもある。苦痛を甘受しつつ、そのことに耐えうるのは、未来に価値ある目的がその苦痛をもって実現できるという確信があるからである。忍耐は、その苦痛は、未来の価値を見つめつづけ、これを目指してやまない。忍耐は、現にある苦痛のムチに追い立てられ、憧憬する未来の目的のアメに魅されて先へとがむしゃらに突き進んでいく。