不正を許さぬ正義(=法)は、不正から生まれる。

2013年04月27日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

5.正義にもとらず、節制・勇気をおしすすめる。
5-1. 不正を許さぬ正義(=法)は、不正から生まれる。
 正義を具現する法(律)と、(節制や勇気の)道徳のちがいの根本は、前者が国家権力(暴力)をもってその遵守を強制することであろう。道徳の場合、たとえば食の節制に失敗して正しくない(不節制)状態になっても害悪は小さいので、その不正は社会的には許容される。だが、強盗は、社会的に大きな禍いをもたらすもので、許容できることではない。正義が法をもってこれに対処すべきこととなる。
 法・その正義は、社会的に許容できない害悪への対抗手段である。正義があってそれの不正があるのではなく、はじめに害悪(不正)がある。害悪が、始原で、いわば主役である。許せない不正への善後策として、これを阻止する役目をになって、法的な正義は、相方として登場する。ネット犯罪が出てきてはじめて、ネット用の法律が必要となる。
 道徳の場合は、法のように不正がさき(根源的)になるとは限らない。その道徳が高尚で実行困難だったとすると、その徳に欠けること(正しくないこと)がむしろ普通になる。そういう場合は、まずは、理想としての有徳な状態が目指され意識され、そのあとにそれの見当らない現在の無(不徳)に思い至るといったことになろう。
 法となる正義の内容をなす「平等」や「権利」、あるいは法の強制する義務等でも、不正・悪が根本、ことの基軸と見るべきであろう。漁業権や特許権は、その権利を有さない者の排除が肝心で、許容できない不正な漁や特許の無断使用を法で威嚇し禁止するのである。法のもとの平等も、受験・就職等差別が重大な害悪となるものに関して、これを抑えるために登場する。法的な義務には、納税・兵役のような、その違反が社会的に大きな害悪となって放置できないものをあげる。


法としての正義は、心を正さなくてもよい底辺の道徳

2013年04月20日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

4-6. 法としての正義は、心を正さなくてもよい底辺の道徳
 正義は、法にかなうことを求める。皆がこれだけは守らねば秩序ある社会生活は成り立たないという最低限度の約束・規範を法律にはあげる。実行困難な道徳も法律にうたえば法になるが、通常は、まもるべき最小限の基礎的な規範・道徳を法とする。それから外れる事は、即、不正・悪として処罰の対象となるような、ぎりぎりのところに正義・法は、存在している。普通の者にはそれらの正義は当たり前のことで、不正・違法に陥ることはない。法・正義は、ひとが無法者になるのを防ぐ底辺の道徳である。
 合法・遵法としての正義では、その心は問わない。こころはどんなに醜く下賎でもいいから、行動だけは最低限、適法になるようにと求めるものである。エゴの利害対立下の世界では、こころは、私欲に支配され利他の精神などなく醜悪であるのが一般であろう。その不正・邪悪な心をうちに押しとどめて、正義は、エゴに適法・平等のしおらしい仮面・ベールをつけ、お互いを穏やかに交わらせる。
 根本は、エゴが悪いのだろう。正義自体は、貪欲なエゴ同士の利害対立を、平等の原理でもって治めて生産的なことをもたらす。正義の規範がないと、おそらくは果てしない報復や強奪の戦場となりかねない。法は、国家の権力(暴力)をもって強制的にエゴイストの不正・無法を排除し、正義の鉄壁を廻らせて市民を守る。
 正義は、エゴ・悪をただす強力な規範である。が、繊細さには欠け、正義の女神は、剣を手にし目隠ししている。有無を言わさず法に従わせ、杓子定規に平等に扱い、強引である。迷える子羊に目をかける愛とちがい、適法・平等を貫くために、「目隠し」して個を見ないようにする。各個の事情に配慮することがなく、正義は、弱者には無慈悲となりかねない。


正義は、エゴイストには収容所で、かつ桃源郷でもある。

2013年04月13日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

4-5. 正義は、エゴイストには収容所で、かつ桃源郷でもある。
 正義は、エゴ・利己主義の横暴を禁じて不正を罰し、これを抑制する。だが、正義は、利己主義自体を禁じるようなものではない。むしろ、その活動をスムースにしエゴを保護するためにあるものでもある。エゴの対立がなく強引な我欲の主張のないところでは、正義は出番がない。正義は、ゆずりあう愛の家庭には無用である。家庭で正義が登場するのは、これが崩壊しエゴをむき出しにしながら後始末をつける場面ぐらいである。
 利害対立の厳しいところではみんなエゴイストになって、可能なだけ自分の取り分を多くしようとする。この対立の困難をみんなの納得のいくように解決するのが、適法で平等にという正義である。エゴの醜さは、正義のベールで覆われる。エゴイストたちは、その我欲の醜さを捨て去って、穏和な遵法精神をもち相手を自分と同等に尊重する正義の担い手としてふるまうことになる。だが、正義の檻にいれられているとはいえ、そのエゴは、つねに自分のためにと動いているのである。
 正義の形式をとるかぎり、エゴは、自由に私欲を満たし、享受の自由としての権利・自分の持ち分を堂々と主張できる。正義は、そのエゴの貪欲をひとの正常な営みとして承認している。各人の権利(法)を各人にという正義は、格差があれば、それに見合うインセンティブをつけて、2の貢献には2の報奨を、5の貢献には5を等しく配して、エゴが意欲的になることをすすめるのでもある。正義は、エゴイストのための晴れ舞台・理想郷をつくる。


力をもつ者が正義になる(might is right)。

2013年04月06日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

4-4.力をもつ者が正義になる(might is right)。
 各自の分を守るのが正義だが、どこをもってそのものの分とし正しいこと・法とするかは、厳密には決まっていないことも多い。利害のからむことであれば、無理をしてでも自分の持ち分の増大を意図したくもなる。その分・法は、力関係で決定されるようなことになる。
 はじめは、凶悪な賊あつかいをされていても、これが勝利すれば、正義の官軍になる。正義は、しばしば力ずくで実現される。もちろん、周囲や敵が正義として承認することであるが、相互に承認すれば、それが法となり正義として確定する。国際関係では、なお、正義は力が決める。弱小国が「これが各自の分だ、正義だ、法だ」といってもはじまらない。強大国がこれを決めてごり押しして通用させる。
 逆もある。正義は、力を得やすい。正しいこと・法に合致しておれば、無理がなく、スムースにことは実現する。明治維新では、はじめは反幕府勢力は小さかった。だが、時代のあるべき法・正義を担って次第に大きな力をえて、つぎの時代を支配することになった。正義は、磁石のように諸力を引き寄せて強大となる。
 民主主義は、つい最近まで少数者の邪まな危険思想として否定的にあつかわれていたが、いまは、圧倒的な勢力をえて世界の正義を代表するものとなっている。動植物でも、よそものあつかいの外来種も、その土地に適して勢力をえてくると、その地に有って当然の、正当な存在の資格を得ることになる。