ひとの勇気は、ことを深く洞察し、深慮遠謀し、堅固な意志をもつ。

2012年09月30日 | 勇気について

5-3-4.ひとの勇気は、ことを深く洞察し、深慮遠謀し、堅固な意志をもつ。
 危険・危機の非常の事態に出合うと、ひとはしばしば過度に恐怖してパニックに陥る。勇気をもち、まず理性的に、冷静に、その危険のあり様を洞察する必要がある。雷で、恐怖反応のままに大木にしがみついていたのでは自殺行為になる。その危険がなにであるのか、しっかりと洞察して、恐怖を抑え、危険と恐怖から一歩距離をおいて理性的に対応をとっていく勇気がいる。雷なら、「へそをとられないように」との俚諺でも思い起こし、大木を離れ、へそを隠し地面にはいつくばるような危機対応をとることである。それ以前に、雷にあいたくないのなら、雷雨となりそうな積乱雲の下に行かないように行動スケジュールを立てるべきでもある。いずれにしても、危険への勇気ある対応には、冷静な理性が終始リードしていくことが大切である。
 戦闘は、いきり立ってのがむしゃらの盲進では、おぼつかない。勇気は、敵を確実に攻撃できねばならない。動物でも獲物をねらうには、知恵をしぼり細心の注意をはらう。ひとは、その理性を総動員して、深慮と遠謀をもって対処し、その意志を貫いて、所期の目的を達成することができる。敵味方の力量を洞察し、戦いをするその目的と、それに払ってよい犠牲の限度などを考量して、勇気の推進のみでなく、その中断・終結までを合理的に展開する必要がある。大胆・果敢の勇気が暴れ馬に堕さず駿馬になるのは、理性という御者しだいである。


恐怖への特効薬は、理性である。

2012年09月29日 | 勇気について

5-3-3.恐怖への特効薬は、理性である。
 古代ギリシャの格言に、「理性(logos)は、恐怖の薬である」というのがあったと記憶する。勇気では、恐怖の抑制が肝要となるが、理性は、自然を超越した高みから、この自然(恐怖)を制御し、勇気をリードする。
 恐怖は危険にいだく。危険なものが突然現れると、過度に危険と捉え驚愕しがちになる。このとき、理性は、これに距離をおいて冷静に客観視し、驚愕をおさめることができる。過度に恐怖するようなら、理性は、危険を小さくえがき(自分には守るべきものはないと思えば、危険は無にすらできる)、想像を停止して、恐怖を鎮めることが可能である。過度の恐怖は、無知で妄想をたくましくすることによる場合が多い。柳を幽霊にと妄想して震えあがる。理性は、妄想を抑制し、現実をしっかりと洞察して、危険と恐怖に適切な対処をする。かつ、恐怖しても、理性は、強い意志をもってその心身の動揺を小さく抑止することができる。理性は、恐怖の特効薬となる。
 理性・知的精神を活発に働かせるということは、脳でいえば、(大脳新皮質の)前頭葉を活性化することである。それは、恐怖など情動の座の(大脳辺縁系の)扁桃体の興奮を抑止することにつながり、恐怖の沈静化に結ばれる。注意・意識が、危険・恐怖から、それを離れての理性の普遍的理念的な事柄、あるいは、感覚的現実に向くなら、危険の妄想はやみ、恐怖に気は向かなくなり、おのずと恐怖はおさまってくる。


ひとの勇気は、人間的尊厳の尊さと厳しさを語る。

2012年09月28日 | 勇気について

5-3-2.ひとの勇気は、人間的尊厳の尊さと厳しさを語る。
 尊厳は、単なる至高ではない。剣玉競技世界一は、最高・至高だが、尊厳ではない。至高の国王や神に尊厳が付与されるのは、支配者だからである。その支配を賛美する者は、尊厳(dignity)の勲章を付与し、愚劣と嫌悪する者は、侮蔑(indignity)の批点を打つ。ひとが尊厳をもつのは、至高の理性をもち、その理性で自己支配し、自然を立派に支配し保護できるからである。
 ひとの理性的な勇気は、尊厳を具現する。自身の理性によるその感性的自然(恐怖)の見事な支配・制御は、尊い。ひとは、自分の勇気を自分でつちかう。動物は、食や性の衝動が恐怖に勝れば勇気を振るうことになるが、どこまでも自然の中で衝動に動かされているだけである。だが、ひとは、自然を超越して、理性のもとで自律の自由をもつ。自然(恐怖・危険)と対決し、これを制御する。生来的にはない反自然の勇気を、理性は、自律的に自身で創造することができる。
 自律の理性とその勇気が尊厳をもつには、その支配が厳かで立派でなくてはならない。理性による支配・制御は、感性(恐怖)に対して、どこまでも厳(きび)しく厳(おごそ)かでなくてはならない。理性的勇気は、危険排撃に大胆果敢で、厳しく厳(いか)めしくおのれを貫徹する必要がある。至高で尊い理性とその勇気は、その厳格で厳かな支配・制御をもって、尊厳となるのである。


ひとの勇気は、理性の賜物である。

2012年09月27日 | 勇気について

5-3-1.ひとの勇気は、理性の賜物である。
 ひとの勇気は、理性の自律のもとにある。動物は、自然のままであり、恐怖すれば即逃走し、恐怖にまさる衝動が生じれば、これを優先してその動物なりの勇気ある行動をとる。だが、ひとの勇気は、恐怖の自然自体を超越する。理性は、恐怖の逃走衝動を抑圧することができる。恐怖を忍耐する反自然の対処を貫徹して理性的な勇気をもつ。ひとは、動物でもあるから、危険におびえて自然のままに逃走することを選ぶ場合もある。しかし、これも自律理性の選択である。勇気が選べ勇気の出せるところで、消極的ではあれ臆病を選んだのである。ことの結果は自分自身に起因しているので、その責任を感じたり良心がうずくようなことになる。
 こわ(強)い危険なものは怖く、こわいものからは逃げるのが自然である。だが、ひとは、理性をもってこれに逆らい挑戦する。こわく危険なものの前でも弱いままにとどまってはおらず、これに勇気の力を加えて、危険なものを凌駕しようと大胆・果敢に戦いをいどむ。
 動物は危険が大きいほど小さく萎縮してしまう。だが、ひとは、危険が大きくなるほどに、その自然に対抗し挑戦の意欲を高め、大きな勇気を出して、果敢な戦いにと力をこめていくことができる。本源的に自律の自由をもった存在として、自然の強制を払いのけ、大きな危険にも対抗できるよう変貌して、理性的自律を貫徹する。


理性が、勇気を導く。 

2012年09月26日 | 勇気について

5-3. 理性が、勇気を導く。  
 暴勇・蛮勇をいう。それは、勇ましいが、理性を失った無謀な蛮行・乱暴に堕したものであろう。ということは、日頃の勇気は、理性に導かれているのである。理性は、普遍性をもつ概念をもって、合理的合法則的に判断・推論して客観的にことを洞察する。そして、はるかな理念・目的とその目的達成の諸手段を描き、なすべきその実践的課題を個別主体としての自分の身に引き受けて、その意志を貫いていくことができる。
 食や性の強い衝動が恐怖を圧倒しての動物の勇ましさと、ひとの尊厳を担う勇気とはちがう。ひとの勇気では、理性が、恐怖を抑制する。ひとは、感情的個人的なものを抑止し自然存在であることを超越して理性的に生きる。その勇気は、普遍性・公共性にしたがった内容をもち、正義や信念・理念のために発揮される。国家・全体のために、自然的欲求のもとの自分を抑制し、勇猛果敢になれる。
 ひとの勇気は、無謀を避け、理性的に展開する。深慮遠謀をもって危険なものに挑戦する。その勇気の理想は、『孫子』の「彼を知り、己を知れば、百戦してあやうからず(知彼 知己 百戦不殆)」である。理性をもって危険なものをしっかりと洞察し、狡知を働かせ、危険排撃に最適の方法を見出し、おのれの恐怖もしっかりと抑制して、危険に大胆に対決し、ここというところで猛攻をと果敢に奮い立つのである。理性を失って猛り狂っただけのものは勇気ではない。家族に激しい暴力を振るう者を勇気があるとは誰もいわない。