「気にしない」という鈍感力

2012年01月30日 | 勇気について
3-3-4-2.「気にしない」という鈍感力
 「知らぬが仏」というが、危険の事実を知らなければ、恐怖のしようがなく、気楽でおれる。無知での鈍感がいいこともある。だが、危険情報を放置するのでは、危ういこととなる。情報自体への鈍感さは、あまり奨められるものではなかろう。そういう情報の感受能力の感度の問題よりも、鈍感力が言われるのは、多くの場合、そのあとの反応・対応に関しての鈍感さが求められるということではないか。気にしなくてもいいのに、気懸かりで、気に病んでといった過敏過剰状態を何とかしたいと。些事であっても、そこから可能になる禍いはいくらでも想像できる。指先の小さな怪我でも、気にすれば、破傷風になって死に至るかもと気にすることもできる。「気づく」のは、過敏でありたいが、そのあとは、大したことでないのなら、放置して鈍感になってということである。
 「気にしないように」と思うと、むしろそこに気が集中して、一層、気懸かりになりかねない。放置して無心になれないのなら、いっそのこと、別のことに気を向けることであろう。幸い、ひとの気(意識)は、ひとつのことに焦点をあわせると、大体が他は意識されず、意識にとっては無にとどまることになる。そのことが意識上、無になっているあいだは、気は楽である。金持ちは、ノイローゼがなかなか直りにくく、貧乏人は、直りやすいという。後者は、貧乏忙しで、気懸かりなことにとどまっておれない。前者は、いつまでも、些事を大事とこだわっておれるから、これから抜け出せず、泥沼にはまりこんでいく。「忙」しくしていると、気懸かりな「こころ(忄)」は、「亡」くなって無心となる。ここの鈍感力は、他へ気を向けて忙しくできることになる。
 金持ちの子は安眠するが、貧乏人の子は安眠できないとも昔話あたりでは言う。後者は安心できる生活ではないから、警戒を解きにくく、ひとまかせにして安閑としてはおれない。金持ちの子のように、「ひとまかせにしておけばうまくいく、警戒無用、ぼけーとしておいてよい」等と気をゆるめることも、神経質なひとには必要であろう。「果報は寝て待て」と楽観的方向に呑気に構えていける習慣も、身につく鈍感力ではないか。
 気をつけるとしても、気には病まないようにしたい。何事も些事と見なせれば、気にする度合いも小さくなろう。人生観、世界観の問題となる。自分の生に執着しないなら、死すらもなんでもない些事となる。自殺を決意し実行しようとした者が、生き残ることにして以後、「怖いものがなくなった」というような体験談をときに語る事がある。生に執着しなければ、その危険にも執着せず、そうなら恐怖にも鈍感となる。どうにでもなれ、ケセラセラ、明日は明日の風が吹く、である。一休さんに「(有漏地より無漏地へ帰る一休み)雨降らば降れ 風吹かば吹け」というのがある。事があるたびに、無頓着になれるよう自分にそう言い聞かせれば、やがてそうなれることであろう。

鈍感力を身につける。

2012年01月26日 | 勇気について
3-3-4-1.鈍感力を身につける。
 突然に生じる危険には、過敏に恐怖反応をしがちである。それでパニックになると、飛んで火に入る夏の虫のような対応に走ったりする。恐怖への過剰反応を自己嫌悪し、もう少し鈍感になれたらと「鈍感力」にあこがれることになる。
 基本的能力として「鈍感力」は、しかし、みんな持っている。感度を低くする能力であり、適応能力に富む人間は、ものごとへの感度を大きく変えることができる。戦争になったら、だれでもが、最後は死も平気になる。銃弾が飛び交う町に平気で主婦が買い物に出かけることになったりする。そこへ取材に行った平和な日本の記者は砲弾の音だけで腰を抜かしてしまう。これも適応してくると現地の主婦並にはなれてくる。逆もある。戦場の勇士も、平和に慣れると、平和状態を感度の基準にしなおしていく。戦場でのように荒っぽい振る舞いをしていたのでは市民生活から排除されてしまう。その平和に慣れると、かつての勇士も、チンピラの脅しが怖くなってくる。
 危険への感度をどのレベルに置くかということである。乱暴な言葉を普通とする者の集団に入ると、静穏な生活を基準として生きていた者は、言葉遣いそのものからして、恐怖心をいだいてしまう。それでも、それが日々のことになれば、その乱暴な罵声の飛び交うレベルを標準にと感度を切り替え制御・適応して、つまり、鈍感力を発揮して、恐怖せず普通に交わっていけるようになる。
 基本的には、大きな鈍感力を皆もっているはずである。問題は、危険や恐怖は非日常の事柄として、しばしば突然に生じることである。日頃の慣れた感度を変える余裕がないままに、対応できない強烈な刺激となる事態が生じることである。ということで、平和な日常の感度にありながら、同時に、強烈な危険に出会っても針が振り切れてパニックにならないで冷静に計量できるような、敏感でありかつ鈍感でもありうる「鈍感力」を切望することになるのである。温度計でいえば、摂氏の0度から50度まで計れるものとか、800度から1500度まで計れるものが普通のものだとすると、鈍感力ということでの理想は、0度から1500度までを一つの計器で計れるようになりたいということである。
 生来的に鈍感力に富む「胆の太い」ひとがいるが、これも、訓練しだいでは、おそらく、皆そうなれることであろう。戦場と平和な暮らしを交互に経験しなくてはならない人は、両方に慣れる。平和の生活の中にときどき戦場を自分のもとで体験することで、突然戦場的な場面に遭遇しても、これにも適応できることになる。警察官や消防隊員は、過激な戦時的な危険を前提にしつつ、日々の平和な日本に適応することが必要だから、0度から1500度までの、優れた「鈍感力」を身につけることになっているのではないか。私の知り合いの警察官も、子供の頃は勇敢とはいいにくい存在だったのに、実に素晴らしい鈍感力を身につけた度胸のある人間になっていた。

激しい恐怖に耐え、平常心を失わない勇気

2012年01月23日 | 勇気について
3-3-3.激しい恐怖に耐え、平常心を失わない勇気
 ひとが律しなくてはならないと思う恐怖は、なんといっても、激しい恐怖である。それは、冷静さを失わせて人間的理性的な振る舞いを不可能にしてしまう。恐怖でパニックになり狼狽するこころを抑止し、落ち着きを取り戻せるようにすることが必要となる。大きな危険を前にするとはじめは過敏で過度に反応しがちだから、時間をかせいで慣れていくように、「歯噛み」してでも恐怖の狼狽動転を抑制するのが勇気の忍耐となろう。
 危険なものが突然現れると、過度の恐怖反応をして、動転することになりやすい。驚愕するようなことを知らせるとき、よく、「心の準備をしてくれ」「ショックなことだと思うが・・」と予め構えをつくれるようにする。突然だと、大きな刺激には準備していないから、ショックを受けてしまう。強い音や光でも徐々になら、感度をだんだん下げて適正な感覚をもって感受できる。暗闇で瞳孔が開ききっているときには、普通の光でも、強烈な刺激になってしまう。したがって、逆に、恐怖させたり驚かすには、突然となることを利用する。急に「ワッ」と叫んだりする。もし、突然でなく、「これから「ワッ」と叫ぶから」と言っていたら、誰も驚かない。こころの準備(大声の場合、内耳あたりの機能を鈍化させるのだとか)ができるからである。戦争では、奇襲作戦がそれになる。攻撃される方は、突然の、思いもしない奇襲に身構えることもできず、遁走することになる。不意を突く奇襲でなく、正面から攻撃してくるのが予め分かっているのなら、それへの戦闘・守備の態勢が整えられるから、驚愕しての遁走などしないで実力を発揮していくことができる。
 高所から飛び降りるのも、バンジージャンプがそうだが、「今すぐに」という場合は、激しい恐怖にとらえられて、はじめての場合、足がすくんで無理かも知れない。だが、そのつもりになって徐々にこれを覚悟していくと、何分か待てば、多くの者が飛び込めるようになる。イメージトレーニングのようなことを反復して徐々に心身がそれに慣れていくのであろう。とくに遊びの場合は、安全であることが前提にあるから、それを十分に心に反復して、危険へのとらわれ・杞憂から解放されることになるのであろう。
 突然でパニックになっても、それを我慢していると、こころは、だんだんとそれ用にと感度を低くし、適正な対応も取れていく。そうなるまで、はやまったことをせず、むやみに動かず、じっとして耐えることが必要になる。感度がさがり、過敏な状態が解消されていけば、過度の恐怖反応も静まってくる。待つ余裕なく即刻対応すべき場合は、行為に踏み出す以外ないが、現実的対応に気を集中すれば、悲観的妄想は停止し、恐怖への気は薄らぐから、狼狽も次第におさまっていく。

力を抜くことで、恐怖をより耐えやすくする。

2012年01月19日 | 勇気について
3-3-2-2.力を抜くことで、恐怖をより耐えやすくする。
 恐怖への勇気の忍耐では、その恐怖を力まかせに強引に押さえ込むのがひとつの対応だが、反対のやり方もしばしばとられる。北風でなく太陽のやり方である。力んで対決するのではなく、力を抜く方法である。緊張し萎縮した恐怖の反応に対して、これを解きほぐし弛緩させリラックスさせる恐怖の反対の対応をとれば、恐怖は小さいものになる。恐怖を耐えやすい状態にもっていける。
 萎縮し震え蒼白になった恐怖の状態は、力んでこれを抑制しようとしても難しい。だが、恐怖で緊張した筋肉に対して、その緊張を解き弛緩させていくことは、意志で可能なことである。堅くなった肩の力を抜くことは、力をいれたり緩めて見たりすれば弛緩のあり様が分かるから、容易く意識でそれは可能となる。震えるのも筋肉を堅くしてそうするのだから、弛緩すれば、震えも小さくなる。体が弛緩すれば、血流も皮膚表面までとどき、皮膚も生気をとりもどしていける。ついでに、小さく萎縮した恐怖の身体に対して、逆の形に、胸をはり、体を起して堂々とした体勢をとって身体が反恐怖のあり方をすれば、こころもそういう方向に向かっていくこととなろう。
 呼吸の調整は、恐怖では緊張して息が浅くなったり不規則になるから、大きくゆったりとしたものにと意識的にすることが勇気の対応となるであろう。呼吸は、随意と不随意の両方でなされ、随意に呼吸を調整することで、不随意の領域に影響を及ぼす。「真人の息は、踝をもってする」というが、肺でするにちがいない呼吸も、意識においては、全身で足先の方まで息をするつもりでやれば、相当にゆったりとしたものとなり、心身の全体がゆったりとしてくる。恐怖の反応の真反対の身体と心を作って、恐怖を小さくしこれに耐えるのである。宗教の修行や武道では、呼吸法は、心身を整えるためによく利用される。心理学の方では、「自律訓練法」などでは、身体を調整してこころを穏やかにすることを系統だっておこなうが、自己暗示で、呼吸のみか、体温や心臓の動きまでが少しは制御できる。意識・気をゆったりとした呼吸に置けば、こころもゆったりとしてこよう。気を臍下丹田にもっていくこともよく言われる。身体をのびのびとさせて自在に動けるようにしつつ、気持ちの方は、置くとしたら、下腹部あたりにと。恐怖にとらわれた気をそこへ投げ出し、自己を恐怖から解放することが可能となる。
 感情は、心身一体的なものである。身体が弛緩すれば心も弛緩したものになる。逆に身体を弛緩させるには、こころを弛緩させる必要もある。涙は、出そうと努力しても出てくるものではない。演技でそうするためでも、こころを悲しい状態にもっていってはじめて涙も出てくる。恐怖の身体を抑止するためには、こころを恐怖から解放する以外ない場合もある。震えたり蒼白になる恐怖の状態は、身体にそう命じても、解消できない。恐怖のこころをなくすれば、おのずから身体の震えは停止する。一番、確実な方法である。

恐怖反応を、力んで遮二無二抑圧し続ける。

2012年01月16日 | 勇気について
3-3-2-1.恐怖反応を、力んで遮二無二抑圧し続ける。
 ひとや動物を制御し支配する方法として、アメとムチ、あるいは太陽と北風の対立的なものが挙げられる。自発性を誘うのと、外的に無理押しし強制するものとである。恐怖に対する勇気の忍耐も、この両方を使う。勇気は、自身の恐怖を抑圧するに、まずは、単純には、力み、これを力ずくで強引に押さえつける。恐怖して逃走衝動をもったり身体を思わず引きそうになるのに対して、勇気の意志は、これに対抗して正面から向き合い、その発動を抑え続けて忍耐する。悲鳴をあげそうになるのを押さえ耐え続ける。
 だが、一層大きな恐怖になると、逃走衝動を意志で直接的には制御しがたくなってくる。逃げたいのを意志が許容せずじっとして恐怖に耐えるのであるが、意志の抑制を超えて逃走衝動が大きくなる。悲鳴も、恐怖が大きくなって冷静さを失ってくると、思わず声を上げてしまう。これらを抑制するには、さらに別の方法が必要となる。それらの衝動が身体を動かそうとすることに対して、その身体が動きにくいように外から規制を加えることである。恐怖反応とは逆の動きをしたり、反応が実現しにくい体勢をとって阻止する。
 立っていたら、逃走衝動は、ストレートに足を動かせる。動きにくくするには、足を折りたたむことである。坐ることである。中国の兵法書の『司馬法』に、兵がおびえ危うくなったら、密集させ「坐る」ようにさせよとある(第四「厳位篇」)。理に合った方法であろう。逃走衝動は、坐っていたら、立たねばならないから、直ちには行動とならず、その間に抑制の余裕ができる。密集した状態なら、ひとりで逃げるのも阻止でき、なにより、心強いことであろう。
 あるいは、悲鳴をあげそうになる情況では、「枚(ばい)を銜(ふく)む」とか「猿轡(さるぐつわ)をかませる」ということが古くより行われてきた。「猿轡」というと、現代では、人質の口をふさぐガムテープあたりを想定することになる。が、かつての戦闘では、自軍の兵士や馬に、悲鳴をあげるのを防ぐために、発声を外的に阻止する物を口にあてがった。
 外的に恐怖の反応が阻止されておれば、ひとまず立ち止まり、これを自身が阻止していこうという勇気の方向にと向けなおしていくことが可能となってもいく。声が出せないようになっておれば、自身からして、声を出さない方向へと振り向けていくことの余裕もでてこよう。坐っていて足が動かせず走れないのなら、一歩逃走衝動から距離をおいて、逃走を思いとどまり、勇気を出して恐怖に耐えていこうということに向かいやすくなるであろう。
 恐怖反応のうちには、随意にならないものもある。震えるとか蒼白になることは、意志して直接にこれを抑制する訳にはいかない。だが、これも、強引に抑制することができなくもない。全身に力をいれて歯を食いしばり筋肉を堅くすれば震えも目立たなくなろう。力み続ければ、若干は、血液も皮膚表面にあがってきて熱して蒼白もおさまってくるかもしれない。