3-3-4-2.「気にしない」という鈍感力
「知らぬが仏」というが、危険の事実を知らなければ、恐怖のしようがなく、気楽でおれる。無知での鈍感がいいこともある。だが、危険情報を放置するのでは、危ういこととなる。情報自体への鈍感さは、あまり奨められるものではなかろう。そういう情報の感受能力の感度の問題よりも、鈍感力が言われるのは、多くの場合、そのあとの反応・対応に関しての鈍感さが求められるということではないか。気にしなくてもいいのに、気懸かりで、気に病んでといった過敏過剰状態を何とかしたいと。些事であっても、そこから可能になる禍いはいくらでも想像できる。指先の小さな怪我でも、気にすれば、破傷風になって死に至るかもと気にすることもできる。「気づく」のは、過敏でありたいが、そのあとは、大したことでないのなら、放置して鈍感になってということである。
「気にしないように」と思うと、むしろそこに気が集中して、一層、気懸かりになりかねない。放置して無心になれないのなら、いっそのこと、別のことに気を向けることであろう。幸い、ひとの気(意識)は、ひとつのことに焦点をあわせると、大体が他は意識されず、意識にとっては無にとどまることになる。そのことが意識上、無になっているあいだは、気は楽である。金持ちは、ノイローゼがなかなか直りにくく、貧乏人は、直りやすいという。後者は、貧乏忙しで、気懸かりなことにとどまっておれない。前者は、いつまでも、些事を大事とこだわっておれるから、これから抜け出せず、泥沼にはまりこんでいく。「忙」しくしていると、気懸かりな「こころ(忄)」は、「亡」くなって無心となる。ここの鈍感力は、他へ気を向けて忙しくできることになる。
金持ちの子は安眠するが、貧乏人の子は安眠できないとも昔話あたりでは言う。後者は安心できる生活ではないから、警戒を解きにくく、ひとまかせにして安閑としてはおれない。金持ちの子のように、「ひとまかせにしておけばうまくいく、警戒無用、ぼけーとしておいてよい」等と気をゆるめることも、神経質なひとには必要であろう。「果報は寝て待て」と楽観的方向に呑気に構えていける習慣も、身につく鈍感力ではないか。
気をつけるとしても、気には病まないようにしたい。何事も些事と見なせれば、気にする度合いも小さくなろう。人生観、世界観の問題となる。自分の生に執着しないなら、死すらもなんでもない些事となる。自殺を決意し実行しようとした者が、生き残ることにして以後、「怖いものがなくなった」というような体験談をときに語る事がある。生に執着しなければ、その危険にも執着せず、そうなら恐怖にも鈍感となる。どうにでもなれ、ケセラセラ、明日は明日の風が吹く、である。一休さんに「(有漏地より無漏地へ帰る一休み)雨降らば降れ 風吹かば吹け」というのがある。事があるたびに、無頓着になれるよう自分にそう言い聞かせれば、やがてそうなれることであろう。
「知らぬが仏」というが、危険の事実を知らなければ、恐怖のしようがなく、気楽でおれる。無知での鈍感がいいこともある。だが、危険情報を放置するのでは、危ういこととなる。情報自体への鈍感さは、あまり奨められるものではなかろう。そういう情報の感受能力の感度の問題よりも、鈍感力が言われるのは、多くの場合、そのあとの反応・対応に関しての鈍感さが求められるということではないか。気にしなくてもいいのに、気懸かりで、気に病んでといった過敏過剰状態を何とかしたいと。些事であっても、そこから可能になる禍いはいくらでも想像できる。指先の小さな怪我でも、気にすれば、破傷風になって死に至るかもと気にすることもできる。「気づく」のは、過敏でありたいが、そのあとは、大したことでないのなら、放置して鈍感になってということである。
「気にしないように」と思うと、むしろそこに気が集中して、一層、気懸かりになりかねない。放置して無心になれないのなら、いっそのこと、別のことに気を向けることであろう。幸い、ひとの気(意識)は、ひとつのことに焦点をあわせると、大体が他は意識されず、意識にとっては無にとどまることになる。そのことが意識上、無になっているあいだは、気は楽である。金持ちは、ノイローゼがなかなか直りにくく、貧乏人は、直りやすいという。後者は、貧乏忙しで、気懸かりなことにとどまっておれない。前者は、いつまでも、些事を大事とこだわっておれるから、これから抜け出せず、泥沼にはまりこんでいく。「忙」しくしていると、気懸かりな「こころ(忄)」は、「亡」くなって無心となる。ここの鈍感力は、他へ気を向けて忙しくできることになる。
金持ちの子は安眠するが、貧乏人の子は安眠できないとも昔話あたりでは言う。後者は安心できる生活ではないから、警戒を解きにくく、ひとまかせにして安閑としてはおれない。金持ちの子のように、「ひとまかせにしておけばうまくいく、警戒無用、ぼけーとしておいてよい」等と気をゆるめることも、神経質なひとには必要であろう。「果報は寝て待て」と楽観的方向に呑気に構えていける習慣も、身につく鈍感力ではないか。
気をつけるとしても、気には病まないようにしたい。何事も些事と見なせれば、気にする度合いも小さくなろう。人生観、世界観の問題となる。自分の生に執着しないなら、死すらもなんでもない些事となる。自殺を決意し実行しようとした者が、生き残ることにして以後、「怖いものがなくなった」というような体験談をときに語る事がある。生に執着しなければ、その危険にも執着せず、そうなら恐怖にも鈍感となる。どうにでもなれ、ケセラセラ、明日は明日の風が吹く、である。一休さんに「(有漏地より無漏地へ帰る一休み)雨降らば降れ 風吹かば吹け」というのがある。事があるたびに、無頓着になれるよう自分にそう言い聞かせれば、やがてそうなれることであろう。