忍耐は、身体的能力・知的能力と同じく、悪にも加担する

2017年10月27日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-5-1. 忍耐は、身体的能力・知的能力と同じく、悪にも加担する
 忍耐は、腕力に似たひとの能力である。腕力をふくむ体力は、強いほどに、自分の思いをしっかりと現実化する。それは、単に善の営為を促進するのみではなく、ときには、悪をも大きなものにする。腕力のある強盗は、その犯罪を大きく確実なものにし被害者の恐怖を大きくする。忍耐も、同様にひとの営為の貫徹に貢献する。忍耐力のない強盗は、被害者の抵抗があれば犯罪をあきらめるかも知れない。だが、忍耐力が大きければ被害者の抵抗などを辛抱強く排除して強盗を成功させる。
 忍耐は、知恵・知性にも似ている。いずれも、善悪を問わずひとの営為を貫徹するに大きな力をもつ。忍耐は、知性以上に善悪を等しく支える。知性・知恵の場合、悪の営為がもたらす自他への悪影響を自覚し、悪は長続きしないと悟り、人間の尊厳を損なうみっともないこととの自覚をもてる。社会規範などを考えるような知性は、悪行には躊躇することになる。だが、忍耐は、苦痛を受け入れるだけのことであり、善とか悪を考慮しない。忍耐は、知性より腕力の方に一層似ているということになろう。
 もっとも、知性のなかにも、社会とか人間、その規範などを考慮しない領域がある。自然科学一般はそうであろう。ここで働く知性やその産物は、善悪を考えるわけではないので、悪にも善にも同じように力となる。自然科学は、ダイナマイトをもたらし、原子力エネルギーの利用を可能にした。それは、ひとの力を巨大なものにしたが、悪にも善にも利用できる。忍耐も善悪両方に同じように力となる点では、知性のうちでは、自然科学的方面により近いことになろうか。


忍耐は、悪用もされる

2017年10月20日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-5. 忍耐は、悪用もされる
 忍耐は、善悪の手前にある。「自由」な忍耐は、悪への自由にもなる。「目的」を目指す忍耐は、悪・犯罪をも目的としうる。銀行の金庫に辛抱して穴をあけるというような悪に使われるし、愚行としかいえないような「骨折り損」を結果することもある。貪欲な経営者に過労死するまで利用される愚かしく悲惨な忍耐もある。
 忍耐の努力は、辛苦の甘受をもってより大きな価値を得ようとするもので、それは、善を目的にするとは限らない。詐欺とか窃盗をする場合、捕まって刑務所に入ることになるかもという不安をいだきつつすることであろう。その不安に負ければ、犯罪行為はやめる。だが、不安に忍耐できる者は、これを実行する。詐欺をするには、電話などで相当の無駄足を踏む覚悟もいることであろう。しかも、話にのせるために相手の暴言にもじっと我慢しなくてはならない。忍耐なくしては詐欺は成功しない。忍耐は、悪にとっても不可欠である。
 軟弱な者の忍耐もある。勇気を出して戦うべきところで、勇気をもてないものが、逃避の手段として忍耐を選ぶ。脅されて泣き寝入りしたり、相手の理不尽な対応を、文句も言えずに我慢する。なさけない忍耐である。忍耐は、すればいいというものではない。そのもたらすものが善であろうと悪であろうと、自分の首を絞めるだけのことであろうとも、苦痛に耐えるなら忍耐である。つらい忍耐のこと、それに踏み切る前に、ことの善悪・是非をしっかりと考えなくてはならない。
 


忍耐は、目的のみでなく、動機や諸条件をもって具体化する

2017年10月13日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-7. 忍耐は、目的のみでなく、動機や諸条件をもって具体化する
 忍耐は、これを根本的に規定する目的のあることもあろうが、そうでないものも多い。ほかの欲求にそそのかされる面が大きい忍耐もあろう。自然的営為のもとで、快不快の総計で小さい不快を我慢することがある。熊が蜂蜜を食べたいがためにハチに刺されるのを我慢するようにである。あるいは、普段は我慢してないのに、ひとが見ているから、好きな人が勧めるからというようなこともある。大嫌いのへびがいても、ひとりなら跳んで逃げるのを、こどもが見ているのが分かっていると、我慢して平気な顔をする。未来方向に設定した目的が忍耐持続の力になるが、ときには、過去のしいる忍耐もある。過去の記憶が、負い目の意識が、ひとを忍耐にと駆り立てることである。
 ひとが忍耐をするに際しては、目的を立てる以前に、目的設定をささえる切っ掛け・動機が種々存在する。その目的を描くに至る諸欲求がある。減量を目的にしてする節食の忍耐は、種々の切っ掛けをもつ。美しくなりたい、精悍な身体になりたいという動機をもってのこともあれば、周囲の人が始めたので、ひきずられて自分も始めるという些細な切っ掛けにはじまることもある。水を飲んでも太るんだから、酒にも気をつけなくては等、前提諸条件を反省することでもある。甘いもの好きでお菓子類を絶ち切れないできたことは大きいと、過去の原因に注目した因果論もここでは重みをもつ。忍耐の理解は、単純にひとつの目的を見ているだけでは不十分になる。


後づけの目的、言い訳、理屈付け

2017年10月06日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-6. 後づけの目的、言い訳、理屈付け 
 忍耐は、苦痛という自然的には回避したい嫌なことを甘受する。あえてこれを引き受けるには、それなりに納得のできることがいる。いやなことを推し進められるだけの、主体の自発性をさそえるだけの、「何のために」「何で」「どうして」という目的設定、根拠づけ、理屈付けがいる。  
 動物的な快不快のもとでの苦痛甘受の消極的な忍耐もある。ひとの場合、ここでも、納得できるようにして受け止める。駅に行く途中大雨にあって、しかたないと雨宿りの我慢をする場合、まずは、濡れるのは大きな不快で、雨宿りの不快の方がましと、快不快の自然感性に従って行動する。じっとして手持無沙汰で、雨を見ながら、あれこれと思いめぐらす。この本は濡らすわけにはいかないとか、雨に濡れて風邪をひくことがないようにと健康維持の目的を後づけすることも思いつく。雨宿りして駅到着が遅れ、目的の会議に間に合わないとしても、濡れず、風邪もひかずに済むのだと合理化する。快不快の自然のもとで忍耐をはじめたとしても、その持続のなかでは、理性に生きるひとは、理屈を付け加え合理化し、言い訳をすることである。
 言い訳もたたないような場合は、運命と居直り、神や先祖のせいにすることも思いつく。それもできなければ、「どうして」と聞かれたら、「どうしても」と無根拠をもって根拠とする(外的無根拠の、自己原因の絶対的根拠をたてるのだが、本当は、隠しておきたいエゴの感性的なところに根拠のあることが多い)。