苦痛は、損傷に注目させるが、激しくなると苦痛自体に注目させる

2021年06月29日 | 苦痛の価値論
2-1-2-3. 苦痛は、損傷に注目させるが、激しくなると苦痛自体に注目させる 
 不快や苦痛、痛みは、まずは、これをもたらしているもの、就中損傷に目を向ける。腕が痛い、足が痛いとなる。痛みは身体の部位の痛みであり、不快は、身体とか気温とかそれをもたらす外的なものについていう。この私の心身が不快(苦痛)なのだが、その原因に目を向けて、寒い家が不快だとか、犬の声が苦痛だという。損傷に感じる苦痛であり、苦痛をもたらす対象に注目して、損傷除去等への対応を急ぐことになる。
 だが、苦痛は、大きくなると苦痛自体に意識を向けさせる。放置しがたいものとして何より注視することになるのは、苦痛そのもので、これをなんとか無くしたいともがき、これから逃れられないことに悩む。それをもたらしている外的な物があるとしても、この苦痛をなんとかしたいと、苦痛そのものに目が向く。膝が少し痛むぐらいのときは、膝に注目する。膝を動かしてみたり膝の使い方を工夫してみる。だが、痛みが激しくなると、苦痛をなんとかと苦痛に注目して、膝の生理的故障はどうでもあれ、とにかく切実な苦痛の軽減をと、薬等を求めることになる。
 苦しみは、生の内の生動性の阻害などに抱くから、はじめから内にこれを見るが、それでも、小さい苦しみは、自身から突き放して対象的に捉えるであろう。「胃が苦しい」「生活が苦しい」というとき、些細なものなら、胃自体、生活自体においてこれを感じるが、強くなると、苦しみそのものに囚われてこの苦悩自体の解消をと求めていくのではないか。過食で胃が苦しい程度なら、胃に注目して、時間の経つのを待つ。だが、激しい胃痛に襲われた場合、胃がどうこうというより、その苦痛をなんとかおさめたいと、苦痛自体に気をもっていくであろう。「生活の苦痛」も、軽いものならこれをもたらす者に注目するが、大きな懊悩でその苦痛が耐えがたいものなら、精神安定剤を飲むなどこの苦痛への対処にまずは向かう。

生活の不快、苦しさ、辛さ、苦痛 

2021年06月22日 | 苦痛の価値論
2-1-2-2. 生活の不快、苦しさ、辛さ、苦痛   
 ひとの生は、社会生活をもって営まれる。その生活について、これが苦しいとか辛いという。その軽度の苦痛は、「不快」をもってすることができるであろう。わがままな構成員、狭い家などに、楽しめない状態だが、かといって強く拒否したいとまではならないのが不快であろうか。
 ひとの生活は精神的社会的なものだから、身体的な損傷の部位にいう「痛み」は、一般的には言わないだろう。多くが、苦しい、辛いになる。「生活が苦しい」とは、その生活の経済的な欲求不充足の苦痛をさすのが普通であろう。「家計が苦しい」ということである。生活は、経済的に何とか成り立っているものの、その不如意の状態が耐えがたいのである。欲しいものがあってもその欲求を抑止しなければならず、生活という営為・生動性が抑圧されて、意のようにならない「苦しい」状態にあるということであろう。
 「生活が辛い」は、その生活の苦しさに耐えているが、ぎりぎりで、耐えがたさが身をむしばみかけており、悲しみの感情がともないがちの大きな苦痛にいうのではないか。「苦しい」では、まだ、生活を持続させる気力がしっかりしているが、辛いという状態では、早晩その生活は、無理となり、放棄し、その大きな主観的な苦を回避・破棄する方向に行きそうなのである。苦しいは、生計の苦しさが主となるだろうが、辛さは、それ以外の、家族の一員の暴力などで、もうその生活は成り立ちがたいというような、ぎりぎりの状態でもあろう。
 「この生活が苦痛」というときは、家の中あるいは職場等での不快が大きく、続けることは無理で、そこから逃げ出したいという衝動をもっての厳しい苦痛になりそうである。夫婦が離婚したいと考えるような家庭でいう。生活の「苦しさ」「辛さ」に比して、ここでの「苦痛」は、それらより一層甚だしく耐えがたいもので、その苦痛解消へと向かうこと必至となる感じである。夫を見ると嫌悪感を生じ虫酸が走るといった激しいものがその「苦痛」には込められているように思われる。苦しい、つらいは、自身のうちの欲求の不充足だが、苦痛は、心の損傷に重きをおいて、嫁姑とか夫婦の間で傷つけあって、怒りや憎悪で相互に大きな傷を心に負い痛む状態にあって、苦痛だと。あるいは、苦しさ、辛さは、その生活自体は価値あることと思い、これを守ろうという姿勢のもとにあるが、苦痛は、その生活自体が自身に受け入れがたく、破棄したい、逃げ出したいという嫌悪感いっぱいのものになりそうである。苦しさ、辛さ以上に、苦痛の方に厳しいものが感じられるが、どうであろうか。
 「生活が痛い」は、聞かない。痛いは、感覚的生理的なものになり、ひとの精神的社会的な生活では、特殊になるのであろう。が、時に、思わぬ出費で家計に欠損を生じて「罰金の支払いは、痛い」というようなことがある。感覚的で単純明快な「痛い」が効果的表現になるのであろうか。あるいは、「痛い」が、腕や足が痛いと、部位をいい、主体としての自分と一歩距離をおいていうように、部位に相当する特定の部分における生活上の損傷・痛みで、若干の距離をその生活の苦痛に対してもっている場合にいうのであろう。


胃が不快、痛い、苦しい、辛い

2021年06月15日 | 苦痛の価値論
2-1-2-1. 胃が不快、痛い、苦しい、辛い  
 「胃が不快だ」というのは、痛みがあるような、ないような軽度の不調にいうことであろう。胸やけがする等、故障気味の胃の状態を感じる軽い苦痛であろう。日頃は、胃について感じるものは何もない。調子がよくても、絶好調であっても、快は感じない。だが、故障・損傷になると、胃の方から苦情が出て、少しのものでも意識にのぼってくることになる。その軽い若干の不調の状態を感じるようなレベルになるのが、「不快」であろう。  
 「胃が痛い」というと、胃潰瘍など本格的な損傷のありそうな苦痛になる。胃の表面に痛覚があるのではなかろうが、胃をめぐっての感覚的な痛みで、痛いのが胃という部位にあることの感じられるものである。痛み方は、多様である。胃の損傷の痛み、痙攣しての痛み、あるいは、精神的なものが胃の痛みになったものとかに応じて、刺すような痛みとか重苦しい痛み等になる。あるいは、健康な胃が空腹で苦情を言っての、どちらかというと心地よさを精神が感じうるような痛みもあって多彩である。
 「胃が苦しい」ともいう。食べすぎて「胃が苦しい」のは、胃が正常には機能しにくくなり、調子がくるい、くるしいというのであろう。おいしいものへの欲求はあるのに、胃に食べ物を詰め込みすぎて、胃がその欲求・思いを受け付けず、その生動性が機能しがたくなっている状態であろう(過食の反対の空腹の苦痛は、「苦しい」とはいわない。胃が健やかで活発な状態での空腹においては、食物の不充足・欠損に特有の「痛み」を感じる)。あるいは、胃の病的な不調で「胃が苦しい」という場合、胃の本来的な生動性が機能しがたくなっていて、「重苦しい」とか「むかむかして苦しい」ということで、調子がくるっていて、くるしいという状態であろう。
 「胃が辛い」という場合は、「痛い」というのとちがい、その辛さは、もっぱら、生主体のこの「私」において感じる。いまの私の辛さは、胃に起因すると。痛みや苦しさがつのり、耐えがたいほどになって、ぎりぎりで、へこたれそうで、半分、敗北・降参といった感じになった悲しみの契機をもった苦・痛になろうか。

不快・痛み・苦しみ・辛さ

2021年06月08日 | 苦痛の価値論
2-1-2. 不快・痛み・苦しみ・辛さ
 忍耐の対象は、苦痛で代表してよいであろうが、「苦は、色を変え、様を変え」で、そのあり方の違いから、苦痛は、幾つかの違った表現をもつ。総括的で一番広い範囲を網羅しているのは「不快」であろう。快不快というように、感情は、快か不快かに大別がされる。その不快の中で、より限定的になって、その不快が深刻で無視し難いものとなり回避へと火急の対応を迫るようなものが「苦痛」であろうか。この苦痛に対しては、不快は、軽度の苦痛一般を表すものになる。さらに、苦痛のうちで、生損傷のその部位での苦痛を中心にした「痛み」があり、内的欲求の不充足とか、生の諸機能・組織が不調でくるって、くるしくなる「苦しみ」が言われる。負けそうになるぐらいにきつい苦痛には「辛さ」があがる。
 「痛み」は、中心は身体的感覚的なものであろう。どこが損傷して痛むのかという痛むところの部位を意識できる。手や足が痛みの感覚をもつ。が、同時に、感情として、この私という主体が痛いのであって、感覚的痛みは、手にあるとしても、痛みの感情は、心身の全体でもって緊張・萎縮等の反応をする。損傷の部位の明確な痛みだが、「痛い目にあう」というように、感覚的身体的な苦痛を超えた精神的社会的なレベルでもいう。これは、身体の痛みをもとにしての拡大使用であろう。
 「苦しみ」は、傷んだ部位の痛みとはちがい、生の欲求とか衝動などの生動性が妨げられるようなときに感じる。調子がくるい、くるしいと。風邪になると、頭とか喉という傷んだ部位については「痛い」となるが、身体全体が熱っぽくて不調なら、「苦しい」ということになる。「痛み」は、特定の部位に受けた損傷に抱き、「苦しみ」は、生の組織なり機能がくるっての乱調・不調状態、あるいは欲求等への阻害・妨害に感じると言っていいであろうか。「のどが痛い」とは、その部位が傷んでいると感じたものであり、「のどが苦しい」とは、のどの不調、その生動性への阻害を感じているとき言う。
 「辛さ」は、意志がぎりぎり受け入れられる大きな苦・痛であろう。私が辛いのだが、反省的客観的な構え方をもった、大人の苦痛になろうか。「痛い」「苦しい」とちがって、こどもは、自分の苦痛を「辛い」とはいいにくいであろう。自分に一歩距離をとってその耐えがたい苦痛を見つめ、敗北を予期した悲しみの契機を含んだ、反省的なものとして「辛さ」は語られているように感じられる。

欲求の抑制・自制も、その忍耐は、苦痛にする  

2021年06月01日 | 苦痛の価値論
2-1-1-3. 欲求の抑制・自制も、その忍耐は、苦痛にする  
 食欲・性欲で忍耐をいうことがあるが、これは快楽を前にしてのものであれば、その忍耐の対象は、苦痛ではなく快楽であるようにも思える。これらも、忍耐する場面では、やはり苦痛を対象としているのであろうか。
 美味のケーキが目の前にあって、これを我慢する場合、食の快楽をひかえて我慢するのであれば、快楽を忍耐するともとれる。しかし、その美味を楽しみにして待つ場合は、うきうきとすることで、我慢・忍耐は不要であろう。我慢がいるのは、待つことが楽しくなく辛いものになってである。いますぐ食べたいのに、その欲求を無理やり抑えるとき、その時間経過の間は、ときに辛いものになる。その辛さ・苦痛を我慢するということで、やはり、その忍耐・我慢は、苦痛にするのである。
 性欲の場合は、食の空腹とちがい不充足でも生理的な苦痛は生じない。食とちがい性欲は、不充足で平気どころか厳しい環境(刑務所など)では消滅さえする(精神的には苦痛となる。失恋などは、心に大きな痛手となり、その苦悩を耐え忍ぶ)。生理的には苦痛のない性欲(の不充足)だが、性的快楽享受を抑制するときに、これを我慢・忍耐ということがある。苦痛がないのならば、快楽を忍耐するということであろうか。しかし、その享受がすぐにはならず、夜を待っての楽しみなのだとすると、その快楽の不充足は、待つ間は、うきうきと楽しいことで、その待つ間を忍耐とは言わないであろう。それを、時に忍耐・我慢で表現するのは、その待つ間が不満でイライラしたりして辛い場合に限定されるのではないか。今すぐにという快楽欲求・衝動を抑止することの意思の辛さがあって、この辛さに耐えるのであろう。ここでも、忍耐は、辛さ・苦痛にするというべきであろう。
 呼吸欲の場合も、同様である。その欲求不充足ということで息を止めるとき、はじめは苦痛ではなく、むしろ息をするより楽である。その間は、我慢とか忍耐は無用である。だが、それを持続していると、息苦しくなってくる。そこで不充足にと息を止め続けるのは、息苦しさ・苦痛を甘受し続けての忍耐ということになっていく。忍耐は、やはり、どんな場合も、苦痛にするといってよさそうである。