「シシュフォスの岩」的な忍耐 

2017年08月25日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-3-2. 「シシュフォスの岩」的な忍耐 
 無意味(無目的)なことを反復して忍耐させられる話として、ギリシャ神話の「シシュフォスの岩」というのがある。シシュフォスは、神をだました罰として、大きな石を麓から山頂まで運ぶ辛苦を背負わされるが、頂上まで運び上げるとその石は転げ落ち、また最初からこれを山頂まで運び直すという無意味な辛苦を、これを甘受する忍耐を反復させられるのであった。苦労して仕上げたものに対して、「これではダメ、全部やり直し」と言われることがときにある。一回いわれても、苦労が水のあわになるのだから、どっと疲れがでる。シシュフォスの場合、目的を剥奪された忍耐を際限なく繰り返させられた。創造したものを無に帰してしまう無意味な忍耐の反復である。
 目的を奪われた忍耐は、現代では、かなり一般的に行われている忍耐である。いわゆる練習・訓練の反復がそれである。かつ、これは、無意味とは感じない。その忍耐は、その労苦による創造ということでは、その創造物を無視する。魚を獲るための投げ網の練習は、魚がいない陸上で何回も同じことを反復し、魚の捕れない無意味なことを繰り返す。だが、練習での忍耐の主目的は、その営為でなる創造物にあるのではない(形式的には仮想目的に向かって行為をなすが)。その目的は、特定の心身の能力を身につけることである。シシュフォスも、反復して重い石を運ぶ忍耐を強いられて、強靱な肉体へと自身を鍛え上げることになったにちがいないのである。 
 シシュフォス的忍耐の卑近な例として訓練をあげたが、単純な賃金労働こそが、これの代表例となるべきかも知れない。賃金以外には無益な苦役と感じての、日々同じ単純作業を反復するだけの難行苦行である。かつての時代には、丁稚奉公、弟子入り、修行・遍歴といった青少年に課された汗と涙の労苦があった。これは、その苦労の営為が実際に創造するもの(目的)は主人・親方のもので、自分は無報酬に近く、賃労働以上に「シシュフォスの岩」的であった。が、これは、他面では、現代の訓練と同じで、自身の能力開発を目的にする忍耐でもあった。


忍耐させる者の目的と、する者の目的・無目的

2017年08月18日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-3-1. 忍耐させる者の目的と、する者の目的・無目的 
 強制としての忍耐では、当然、強要する者の描く忍耐の目的があり、忍耐する者にこれを強制する。それが教育的なものであれば、忍耐させられる者も、させる者の目的に参加することである。だが、させる者のみの利益のための忍耐だと、奴隷労働がそうであるが、忍耐する者は、させる者の利益・目的のそとにおかれ、その目的とは疎遠な状態になる。自分のつらい苦痛甘受の忍耐において、自己疎外を感じることとなる。それでも、辛抱しようというのは、「拒否して殺害されるよりは、生きる方がまし」等と、強制労働への、消極的な後づけの目的が描けるからであろう。
 嫌いなニンジンをこどもが我慢して食べるのは、親が強制するからである。それが滋養になり、強い体を作るからだと、親は、目的を描くとしても、子供の多くは、目的を描いて食べるのではない。親が強制することに抵抗せず諦念して、(食べないで、怒られたり遊びに出ることを禁止されたりするよりは)より不快の小さい方をと忍耐するのである。それでも、賢い子は、親の描く目的に納得してこれを自分の目的としていくことである。
 苦痛・苦労が現にあっても、それを耐えることで何かがなるという目処(目的)がたたないでする忍耐もある。食べるものがないので食べないで我慢しているというようなとき、未来になにかを描いてではなく、無為に、やむを得ず我慢しているだけのことがあろう。昨今であれば、若干の恥を忍べば、あるいは汗水を流せば、食べ物にありつけそうだが、「面倒くさい、空腹の方が苦痛は小さい」という、快不快の自然感性のもとにあってのことかもしれない。ときには、「武士は食わねど高楊枝」と、尊厳ある生の堅持を描き(そう目的を後づけし)、空腹の我慢を目的意識下の忍耐とすることもあろう。
 

 


忍耐での目的は単一ではない

2017年08月11日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-3. 忍耐での目的は単一ではない 
 忍耐を手段としたその目的は、ひとつになるとは限らない。芋の天ぷらを(手間がかかって煩わしいのを辛抱して)料理するという手段は、目的に、栄養摂取をまずあげうるが、料理する者自身でなく、これを子供にも食べさせるという目的をもったり、夜食に残して利用しようという目的も描ける。さらに、食物繊維を摂る目的を描いたり、自家菜園からのものなら、安全な食という目的もえがける。
 それ以前に、忍耐は、目的ゼロ、無目的のもののあることでもある。動物の忍耐はそうだし、ひとでも、自然のもたらす苦難とか、奴隷化が強制されるものでは、自分から目的など立てて始めるわけがないのである。忍耐は、苦痛とその甘受だけがあれば成り立つ。それでも、動物とちがいひとの忍耐となると、仮に強制されたものでも、目的をいくらでも後付けできるから(家族のためにとか、チャンスを待つために等々)、どんな奴隷的な忍耐でも目的をもちうる。ひとの忍耐は、無目的にはじまるものでも、一応、目的論的に見ていくことが可能となる。
 忍耐は、苦痛を受け入れ、マイナスの事態を引き受けるのだから、その「骨折り」に見合うだけの目的がならないと「くたびれもうけ」となってしまい、忍耐する意欲をそがれる。逆にいえば、大きな価値獲得がなり、多くの目的が魅するものであれば、手段としての忍耐は、大いに踏ん張る価値があるということになる。「賢い子は、よりよく忍耐できる」というが、ひとつには、この諸目的をしっかり描けることで自分の忍耐の価値を大きく評価でき、頑張れることがあろう。忍耐中、途中経過を種々確認し苦痛と忍耐を小分けにし緩急を交え最後まで気力を持続させうることが大きいが、魅する目的を大きく多く描けることも忍耐力を強化する。
 あるいは、目的の周辺についても、気を配れる者は、忍耐の価値をさらに高くできる。その忍耐が間接的にもたらすものがあろうから、これも苦痛甘受のときの支えとしていける。動機も目的の周辺にある。芋を食べるという目的が出てくるきっかけ、これへと誘う動機がしっかりしておれば、目的をより堅持できることであり、手段の忍耐を断念しない支えともなる。芋は腸を掃除するとか、肌の美容にいいと知れば、食べようとの動機を強くし、これへの目的を増やし一層頑張れることになろう。


ひとの忍耐は、確かな未来(目的)が導く

2017年08月04日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-2-4. ひとの忍耐は、確かな未来(目的)が導く 
 忍耐において、現にあるのは辛苦・苦痛のみである。なによりも避けたい逃げたい苦痛である。その苦痛から逃げず、これを受け入れて耐えていく。未来の大きな目的があるからである。現在の辛苦の歩みが、その未来の夢を現実化していく手段であることを確信して耐えていく。その目的をなくし、それを描く想像力や理性をなくした場合、ひとは、いまある苦痛のみには耐ええなくなることであろう。
 未来は、まだないものとして不確定・不確実である。宝くじで二千万円当たるのは、不確定で、まず不可能に近いから、これに一千万円つぎこんだり、10枚の抽選券を激流に落としたからといってこれを回収しようと命がけになるようなことは、おぼれている子供を助けるときと違って、しない。だが、忍耐の未来は、確実な未来である。二千万円のために、一千万円をつぎ込む。かりに、二千万円が入らないと分かったら、即刻一千万円の出費は中止する。価値ある確実な未来を見定めて忍耐するのである。未来の目的から現在の苦痛甘受の手段までの赤い糸を見ることができるのは、人間のみである。その赤い糸をたどって、ひとの忍耐は、現在を犠牲にして、未来の大きな目的・夢を確実に現実化する。阿弥陀くじでいえば、当たり=目的から始めて手元までのジグザグをたどっていくのが赤い糸になる。それを手元からたどれば100%当たりを確保できる。忍耐は、確実な未来(目的)をもつのである。
 動物は、目の前にある美味しいものを食べて終わるが、ひとは、これを今は食べず、育てる方にまわしていく。その我慢と辛抱は、確実に、大きな収穫をもたらす(もちろん、未来は未定で想定外の偶然も絡むから、忍耐もときに「骨折り損」になることはある)。自然は、因果必然のもと動物を快不快の感情にしたがわせる。だが、ひとは、これを超越して自由になり夢を描く。その夢の中から、忍耐は、確実に未来の目的を実現できるようにと、目的と手段を精査・精選して苦痛を引き受ける。忍耐するひとは、おのれの現在を犠牲にして、その犠牲のつくりだす確実な明日(目的)に向かって生きる。