旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》信州~上田編(後半)

2022-10-17 16:12:13 | 国内
「塔は下からみあげるもの」と言われればそのとおり。
木の間隠れにみえてくる、日本唯一の★安楽寺の八角三重の塔。

中国大陸の禅宗様(唐様)で塔を建設させたのは、宋からやってきた二代目住職の幼牛恵仁。
故郷で見ていたような塔をここに再現させたと言われる。

↑左が幼牛恵仁、右が初代の樵谷惟仙(日本人)。道を求めるに国籍は関係ない。
迫真の鎌倉時代木彫。
1月の下見の時よりは見やすい光で幸い(^^)
※今年一月の雪の残る塔はこちらからご覧ください
これらの像は一時東京の博物館に置かれていたそうだが、やはりこの寺にあるべきもの。

傍に立って見上げる。

離れて少し見下ろすような位置に立つと、急に花弁が閉じたようになる↑


別所温泉へ降りてゆく時に山本宣治の記念碑がある。

戦前、治安維持法に反対し、
昭和四年(1929)三月一日、上田で講演した四日後に暗殺された

青木村の山本鼎といい、塩田平あたりは労働運動の盛んな地域だったということだろうか。
※こちらのHPに分かりやすく書かれています

別所温泉の宿に到着

この宿は玄関で靴を脱いで全館畳になっている。
靴を脱ぐとほっとします。

8月の下見の時に知り合った宿の方がとなりの酒店を紹介してくれた

夕食は松茸を含む地元の品々を

8時過ぎに夕食を終えて散歩に出た。

すぐ前が↑外湯「太師の湯」

誰もいない商店街

北向き観音の境内・観音様が降臨したという桂の巨木
***

朝食は宿の個性を感じさせる時間↑左上の竹の器を開いて別所温泉の熱いお湯を注ぐと…

中が蒸されて湯気がもれてくる

↑三分ほどで蒸し野菜のできあがり(^^)
****
朝九時半に出発し、十分ほどで「無言館」に到着。戦没画学生の遺した絵をそのエピソードと共に公開している。

館長の窪島誠一郎さんは絵が好きだっただけで、反戦運動家でもなんでもない。
東京美術学校から学徒出陣して生還した洋画家の野見山暁治氏と知り合って、そういう運命を背負うことになったのだ。

あるサイトに書いておられたコラムにこんな文があった↓
↓↓
「そんなに画学生の絵を戦争と切り離したい、絵の自立性を重んじたいというなら、絵は絵として、絵だけで勝負すべきだったのではないのか。あんなふうなお涙ちょうだいのエピソードや、戦死直前に戦場から送られてきた家族への書簡までを披露する必要はなかったのではないのか」
 そんな声がどこからか聞こえてくるようなのです。
↑↑引用終わり

「信濃デッサン館」の閉館後も、クボシマさんが「ほんとうに自分のモノ」とおもって運営されている「残照館」も訪れたい。
8月に訪問した時に、「月曜にはいますよ」と言っておられたのでお会いできるかとおもっていたが…
なんと臨時休館! 九州の方へ講演で呼ばれたのだそうだ。

塩田平を見晴らすカフェの芝生でお茶にした。

麹ドリンク、おいしかったです

すぐ前の道路でキノコを売っている↓

松茸はちょっと隠してある(笑)↓値段はコワくてきけない

「匂い嗅いでみるかい」

「でも、味は雑キノコのほうがおいしいよ」とドライバーさん

あぁ、食べたい
*****
晴れれば車山高原のチェアリフトに乗ろうと思っていた午後だが、
残念ながら曇っている。山はもう雨かもしれない。
午後も上田エリアを見ていただくことにした。
昼食は予約していないのでこういう変更ができる、少人数(^^)
青木村でしか栽培していない「タチアカネ」という品種の蕎麦を食べることにする。

↑青木村の道の駅へ向かう途中にこんな看板が↑
↑東急グループの創設者五島圭太は青木村の出身だったのか。

青木村の道の駅は、この時期新鮮な松茸が売り出される。
さっき見た「雑キノコ」がたくさん入った、タチアカネの蕎麦を注文した↓

キノコ料理、もっと食べたい(^^)

こんな高い松茸でなくてもよいです。
******
青木村から上田城へむかう。

盆地の北に向けて千曲川が流れ出している切れ目がみえる↑

↑千曲川は日本最長の信濃川(367㎞)の長野県内を流れている上流部分の名前↑

↑雲が山を乗り越えてこようとしている↑雨はなんとかもつかしらん。

上田城近くの北国街道を観光用に整備した一角を通ってくださる。

上田城の案内はドライバーのNさんにおねがいする。

上田城の堀から下を覗くと↓「ここは電車が走っていたんです」↓

なるほど、プラットホームまで残っております↑
こういうことは指摘されないと気付かない。
※昭和2年から47年まで走っていた電車の写真がこちらにありました


↑橋にあったこのマークはなんなのかしらん?
※っと書いたら★「二の丸橋」と書いてあると教えていただきました!
「○○」で「二の丸」「ハ」「シ」なるほど(^^)

平成二年から大規模な修復がおこなわれた上田城

徳川の大軍勢に二度包囲されても落ちなかった真田昌幸の城の名残はどのぐらいあるのかしらん。

大河ドラマでも有名になった父昌幸と二人の息子



櫓の復元はこれからも続けられる
※上田城の歴史を上田市のHPで詳しく読んでいただけます

↓通称「真田石」は場内でいちばん大きい↓

江戸時代、真田幸隆が松代に転封になった際に父昌幸の想い出にこの石を持っていこうとしたが動かなかったという伝説。
実際にはその後の千石忠政が建設した石垣↑


場外への抜け道があったと伝承される「真田井戸」

深さは16m


上田城主は伝統的に城ではなく場外の藩主邸で公務をおこなうことになっていた。
上田城の遺構で江戸時代からの様子をもっとも留めているのが↓城本体から少し離れたそこ

↑県立上田高校の正門として使われている。

↑路地を走っている時、不意にカトリック教会が見えた。
下調べをしていた時に気になっていた上田聖ミカエル諸天使教会だった※こちらにHPがあります
昭和七年に建設されたお寺のようなカトリック聖堂、訪れる機会があれば幸いです。

*******
★信濃国分寺にも三重塔がある

当初の予定にはなかったが、山が雨模様なので訪れることができた。

江戸時代末期に建造された本堂=薬師堂は重厚感があり彫り物もすばらしい。


内部に入るとお祭りでつかわれる白象さんがいた↑

お堂で売られている「蘇民将来」の御守↑
★蘇民将来伝承
むかしむかし、北の国からきた旅人が日が暮れて一夜の宿を乞うた。
富者の兄・巨旦将来は拒否し、貧しい弟・蘇民将来は暖かく迎えた。
旅人は実は牛頭 天王で、後年巨旦一族を滅ぼすことにした。
弟蘇民の一族は茅の輪を身につけることをその印として難を逃れると決めた。
これが、全国にある「茅の輪くぐり」のルーツ

平安京の前に十年間だけ首都だった長岡京から「蘇民将来の子孫」と書かれた最古の木簡御守りが見つかっている。
千三百年前の人も蘇民将来の御守りを身につけていたのか。
※長岡京市のHPにリンクします
信濃国分寺の建物は江戸時代のものであっても、
国分寺が建設された奈良時代の風俗習慣をしっかり引き継いでいる。
近くの道路にこんな看板?も立っていた。
本堂のすぐ裏には蓮池がある。

↑境内の三重の塔は全国の国分寺にあるなかで最古のもの。
室町時代に建てられたと推察されている。

お天気のおかげで
上田周辺の四つの三重の塔を全部訪れることができた(^.^)

*******

上田をはなれて、今日宿泊する車山高原へのぼりはじめると、すぐに雨がふりはじめた。

今日宿泊するホテルは標高1500メートル近い。

白樺湖が近づくころには霧が深くなっていた。

スキー客でにぎわうだろう大型ホテルに到着(^.^)

明日は景色が楽しめる朝になっていますように
コメント
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