旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》信州~上田編(前半)

2022-10-16 05:46:13 | 国内
※この大法寺の塔(国宝)だけは青木村に入ってすぐのところにあるが
上田の塩田平には鎌倉から室町にかけて建造された三重塔が四基も残されている。
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新幹線の上田駅09:17到着

真田氏の六文銭がデザインされた駅舎。

「お城口」から、ぎりぎり徒歩圏に上田城の櫓が復元されている。

そこへは行かず、「温泉口」方向の塩田平へ。

このエリアでもっとも古くから祀られてきた生島足島神社を訪れる。

池の中に生島神と足島神の二柱を祀った本殿があり、対面して諏訪社がある。
前者を上社・後者を下社と呼び、諏訪大社のミニチュアのようになっている。
御柱も建てられている※今年8月下見のブログに載せております

暑かった下見の日から二か月。紅葉ももうすぐ。

本殿のある池を一周↑夏には気付かなかった小さな田んぼの稲が実っていた。
この米はどういう時に使われるのだろう。

↑降雨量が日本で二番目に少ない塩田平。
↑この池が湧き出していたことが生島足島神社の発祥なのではないかと下見の時に話していたら、ガイドのSさんが宮司さんに訊ねてくださっていた。
「少し先にある溜池から水をひいているのがほとんどで、湧き出している水は少ないそうです」
↑上の写真でいちばん左の土管から引かれてきた水らしきものが池に流れ込んでいる↑
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すぐとなりの長福寺にある↑下見の時には拝観できなかった奈良時代の観音立像を開帳していただけた↑
※こちらにもう少し書きました

※実物は写真撮影不可
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昼食は「舌喰池」のベンチで、シーズンの松茸ご飯弁当にした

「松籟亭」は8月の下見でぜったい美味しいのを確認していたのだが…
※8月の下見の時のブログをごらんください

宿での夕飯もがっつりでるに決まっているので、お弁当を選択。

写真映えはしないが、松茸の香りを生かした釜炊きのお米が絶品でした(^^)

★舌喰池の解説版より
いつ建造されたのかはわかっていない。二千年前の弥生時代から水の溜まる窪地をつかって稲作が行われていたと思われる。奈良時代に溜池がつくられ、この頃が舌喰池の人柱伝説のはじまりか? 江戸時代初期にはすでにあった池を拡張・土手の嵩上げ。明治以降も地域の大切な水源。昭和三十年代には鯉を放して産業のひとつにする。※今は鯉料理もほとんどされなくなったけれど、一時は塩田平の名産品のひとつだったそうな。「鯉料理」の看板今も時々見かけた。
平成9年、「蓮の花咲く美しい舌喰池」として上田市誌に紹介される。
++引用終わり++
この頃には近隣にダムが建設によって、塩田平の溜池群は以前ほどの重要性はなくなっていたようだ。
今は「地域の憩いの場」になっているように感じられる。

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前山寺へ

山門を通して最初に見える塔にはっとさせられる↑
建造物の価値の半分は、その立地が決める↑

下見の時に時間がなかった「くるみおはぎ」を予約してもらっていた。
「すぅごく美味しいんですよ」
今回の旅に参加されている・以前に来て食べたことがある方が説明会で力説された。
それなら食べてみなくちゃ、ということになったのです(^^)

↑お餅の下のクルミのペーストが、はじめての味わい!
↑右上の小皿に乗せられた梅の紫蘇巻きもよく合う(^^)
「普通のクルミじゃなくて、境内でとれる硬いオニグルミを割ってほんのちょっとしかない中身をすりつぶすのです」
どんなのモノか訊ねると、殻をみせてくださった↓

↑鬼みたいに角があるからこの名前?
たしかにここでしか食べられない、手間のかかるおはぎ。

この機会に食べられてよかったです(^^)

前山寺はかつて後ろ独鈷山(とっこさん)にあった塩田城の出先のような場所だった。
庭の塀にも矢間があるのはその名残ということ。
※塩田城は塩田北条氏三代が建設して居城とし、その滅亡後も上田城が建設されるまでは存在した。

鎌倉、室町期にはこれだけの三重塔が建設されるほど栄えていた。

↑欄干や小窓などが省略されているため「未完の塔」と呼ばれるが、無いことですっきりとした美しさを保っている。



境内のムラサキシキブが↑あざやか
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冒頭写真の、青木村大法寺へ移動する

↑子檀嶺岳(こまゆみだけ)は印象的なカタチをした青木村のシンボルのような山。
標高1223メートル。
大法寺は青木村へ入ってすぐの傾斜地にある。

できるだけ上の駐車場に止めてもらったがこの階段を登らないと本堂にも三重塔にも行けない。

途中に「昭和の義民・山本虎雄顕彰碑」があった。
あとから調べてみると、青木村は歴史上何回も「義民」の訴えが起こされている場所だった。
※これについてはまた別の機会に


この塔がもし平地にあったら、その価値は半減していただろう。

塔の足元に、古い五輪塔がいくつもみつかる。

儚い自分が消えてしまっても残り続けるだろう美しいモノの近くに眠りたいという気持ちは分かる。

東山道を行く人を何百年もみてきた。

境内にある、日本最古のしゃちほこが乗った小堂を間近に見せていただいた↓



※「ぶった切られた」ようなその屋根について、こちらに書きました

すぐ下の郷土資料館を見学した

三重塔一階部分の彩色を復元したものが見たかったのだが、他にもみるべきものがあった。

明治後半から大正期に、農民たちが豊かに暮らせるように「副業」として人形制作をしていた↑
指導していたのは山本鼎という画家で教育者で社会運動家。16歳から上田に住んでいたのだそうだ。
彼が夭折の画家・村山槐多の従妹だったことが、後に窪島誠一郎さんが無言館をこの地につくることにつながっていく。
まだ知らないこと・知るべきことがたくさんある。

コメント
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