旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

八郎潟干拓 大潟村は日本のオランダだった

2016-10-23 12:00:21 | 国内

1月《手造の旅》スリランカにご参加くださる秋田の方にお会いしに日帰り説明会。スリランカの説明もしたけれど、それ以上におもしろい場所をみせていただいた。

 

 

車が走っているのは海面下3.7メートルの土地。平らな地面にまっすぐな道。横を走る運河と並木道。めまぐるしく変わる天気、早く流れてゆく雲。風車はないけれどオランダのような景色だ。

 

 

ここはかつては琵琶湖に次ぐ日本で二番目に大きな湖だった八郎潟。干拓前には汽水の豊かな漁場であった。昭和三十年ごろの写真を見ると「ここがほんとうに、こんな土地になったのか」と驚く↓

 

 

オランダが何百年も培ってきた干拓技術によって、なんと、山手線の内側と同じぐらいの面積をもつ大潟村が出現した。

 

村の博物館へ到着。道の駅のとなりに併設されているとても立派な施設。さっきの雨雲はながれて、青空になった 入るとすぐに、こんな展示↓木製の小舟が頭上高くにある↓

 

 

この場所が海面下3.7メートルだと実感してもらうための工夫。今日はわざわざガイドさんを予約しておいてくださった。昭和44年(大阪万博の前の年)第四時募集で入植したIさん自らのお話は、苦労も楽しみも分かりやすい。

 

Iさんが指し示す「これが干拓開始前の八郎潟」⇒ 現在はこんなふうになっています⇒

 

潟の中に堤防(オランダ語と同じく「ポータル」と呼ばれている)で囲まれた土地は山手線の内側と同じぐらい。52㎞の堤防(ポータル)は、昭和32年から七年かけて建設された。最後の堤防(ポータル)が閉じられる時の映像を、あとから見せてもらった⇒ そこから干拓がはじまり⇒ 標高二百メートルの山がひとつ消えるほどの土を入れて、農地をつくっていったのだ。

 

下の模型で緑色に見える土地が出現したのである↓

 

 

海面下の土地は、出来上がっても24時間365日排水し続けないと浸水の危険がある。 オランダで行われているのと同じように、大潟村も二か所の水門で合計八台の巨大な排水ポンプが稼働し続けている。

 

●八郎潟を干拓して農地にしようというアイデアは、江戸時代からあった。なによりも食料・米の増産の為だ。

 

食料増産が叫ばれる時代は戦後も続き、昭和三十年代にこの計画はオランダの協力を得て大きく前進した。全国からやる気のある若い農民が募集され、テストに合格した者が研修を受けた。当時高価だった農業機械を導入した、新しい農業。当初は四千八百人が募集されたが、一家あたりの面積を大きくするために三千人ほどに変更されたそうである。

 

※入植募集の話は⇒こちらの大潟村HPに詳しく書かれています

 

農地の平均は15ヘクタール。全国平均よりはずっと大きいが、北海道の23ヘクタールよりは小さい。そういう規模。

 

家は同じ三角屋根・レンガ造りを与えられ、地区によって屋根の色が違っていたのだそうだ。ご案内の石原さん曰く「三角の屋根は見かけはいいけれどつかいにくくてねぇ。レンガの家は冬はあったかくてよかったけれど、湿気はこもるのよ」その模型がこれ↓

 

 

この中に蝋人形で再現された、当時の寄合の様子があった。稲を手に研究熱心・・・に見えたのだが、※ちょっと面白い内輪話⇒こちらに書きました

 

★小松の見てきたオランダとの比較・・・干拓した土地が実際に農耕地・居住地として使われるまでに、オランダでは二十年から四十年の年月をかけている。水を抜いた土地に土を入れるだけではなく、何度も葦をまいては焼いて、少しずつ地面を安定させてゆく。17世紀から何百年もかけてオランダが学んだ方法なのである。  一方、大潟村ではそのプロセスがとても短い。干拓完了後二年の後にはもう入植がはじまっている。これが、入植者の地盤との長いたたかいが起きた、根本的な理由であろう。

 

水を抜いた干拓地は、標高二百メートルの山がひとつ消えるほどの土を入れた。それでも、田畑は軟弱で、重いトラクターが時にずぶずぶと沈んでしまったのだそうだ。 動けなくなったトラクターを見ると「亀になった!」と助けを呼びに走った。博物館には実際に「亀になった」トラクターの実物が展示されている↓

 

 

●時は流れ、日本は飽食の国となった。米農家には「減反」が強要される時代がやってくる。 これほど苦労してつくりだした農地は必要なかったのか? いやいやそんな事はない。大潟村の美味しい米の需要、最近では付加価値ある農産物への需要は、むしろ現代だからこそ世界から注目される。

 

入植第一世代がそろそろ引退の時期を迎えているが、希望ある大潟村の農業は、大潟村を故郷とする第二第三世代に受け継がれているように見える。 ご案内いただいたIさんの息子さんは十七年の会社勤めの後、三十七才でこの村へ戻って後を継ぐことを決めた。

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スペイン・デイ開催

2016-10-23 11:17:32 | 国内

旅に出ない時にも旅を楽しんでいただくためのイベント。今年前半の「スイス・デイ」に続き、二回目は「スペイン・デイ」。

前回と同じく、友人の旅行会社「ベルテンポ」の旅サロンにて二十人ほどで開催した。

お話しするだけじゃなくて、スペインの味覚も楽しんでいただくべく、チーズとオリーブ・オイルをそれぞれ三種類用意。

☆こんなお皿でちょっとずつ↓

※クロアチアの旗も立っているのは、数日前に小松がクロアチアで買ってきたチーズもあったので、味比べにとお出ししたから

●チーズの種類は、スペインを代表する◎マンチェゴと、北スペイン・ガリシアの◎サン・シモン・ダ・コスタ(こちら燻製チーズ)

スペインではチーズを「メンブリージョ」なるものと一緒に食べる習慣がある。これは、マルメロのジャムを日本の羊羹の様に固めたもの。パラドールなどの朝食でも出されていてよく見かけていたのだが、今回の企画をしてはじめてちゃんと認識した。 日本で入手しようとしたが、なかなか見つからないし、高い!

バルセロナに行った友人に買ってきてもらった↓

↑メンブリージョはマルメロのジャムを煮詰めたようなもの。自分でもつくれてしまうような、昔からどこの農家にもあったもの。しかし、日本ではほとんど手に入らない。この半分のサイズで二千円もする。スペインでは、倍のサイズで一ユーロ五十セントもしない(百五十円ほど)のである。

準備もたのしい(^^)↓

●オリーブオイル~「エキストラ・ヴァージン」と言っても、オリーブ自体に何十という種類があって、それぞれに味わいが違う。 それらを同時に比べる機会はなかなかない。今回、三種類を比べて、味わった全員が、はっきり違いが理解できた。

①写真左↑スペイン南部アンダルシアを中心にした地方に多い「オヒブランカ」種に「ピクード」種を加えたもの。前者の苦みを抑えるために後者を混ぜるのだそうだ。

②写真右↑「アルベキーナ」は、バルセロナ近郊の主要品種。小粒なので、量を追い求めて生産していた時代にはほとんど栽培されなくなっていた。

しかし、味わいの良さはすばらしい。質の良さを求める生産者が復活させて広まったそうな。三種の中で、はっきりといちばんまろやかで、オリーブオイルに慣れない日本人の口にいちばん合う品種だと感じられた。

③写真中↑「ブジャ」は、小松がちょうどクロアチアへ行ったので帰りに買ってきたもの。イタリアとの国境に近いイストラ半島で主に生育されているのだそうだ。苦みもあるが、それ以上にフレッシュな青い香りが感じられる。

●ポルボロンというのは、スペインの修道院で昔からつくられてきたお菓子。スペインのカフェでこんな風に出されている↓

小松は知らなかったが「口の中で『ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン」と三回唱えて願い事をして、いただくのだそうだ。

お茶は●マンサニージャ。リンゴ茶という感じでしょうか。

**

●「いつかショッピング」と名付けたコーナー

海外で、そこでしか手に入らないお土産品というのは、観光客がいつでも探している。◎フェイラーのタオルハンカチの限定柄とか、アマルフィのノット(結び目)のキーホルダーとか、

「いつか、次にいったら買ってきてあげます」という、空約束(笑)をする、コーナー? 

☆ ★ ★グループ「セミナトーレ(「種を撒く人」の意)」スタート!

これから、新たな旅造りを、同じ旅造りの情熱を持った友人たちと勧めていきます。

 

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