ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載補遺30)

2022-10-11 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(4)モンゴル独立革命とその帰趨
 晩期の清朝は、極東進出を活発化させる帝政ロシア対策としても、モンゴル遊牧民保護のために禁じていた漢人のモンゴル入植を解禁したため、中原に接する内モンゴル地域ではモンゴル人の遊牧地が削減されたことに対するモンゴル人の反発が高じた。
 一方では、急激に人口を殖やした漢人入植者の側にも反モンゴル感情が生じ、1891年には金丹道と呼ばれる内モンゴル漢人系の秘密結社が蜂起、最大推計50万人ともされるモンゴル人を殺戮する非人道的な民族浄化事件も発生した。
 こうした漢人勢力の攻勢に対抗して武装ゲリラ活動を開始するモンゴル人も存在したが、一方で、独立運動に赴く者も現れた。こうしてモンゴル独立革命の蠕動はまず内モンゴルに始まるが、その革命の動きはいまだ漢人の入植にさらされていなかった外モンゴルにも波及した。
 そうした内外モンゴルの運動をつないだのは、内モンゴルのモンゴル人官僚バヤントメリン・ハイサンであった。これに呼応して、外モンゴルでもダ・ラム・ツェレンチミドやトグス‐オチリン・ナムナンスレンらの王侯貴族が独立運動に乗り出した。
 こうした外モンゴルの独立運動は帝政ロシアに資金援助を依頼したことから、ロシアという外力が加わることになり、以後、帝政ロシアを打倒したロシア革命後も含めて、モンゴルとロシア(ソヴィエト)の関係が緊密となる契機が作り出された。
 そうした中で辛亥革命が勃発すると、これを機に外モンゴル諸侯が決起したのであるが、その際に君主ボグド・ハーンとして推戴したのが、モンゴルにおける最高宗教権威であった活仏ジェプツンダンバ・ホトクト8世であった。
 辛亥革命とは異なり、共和制でなく君主制が志向されたのは、当時、内外モンゴルをまたいでモンゴル諸部族を結集できるのは、旧モンゴル帝国皇家であったチンギス・ハーン裔がすでに衰微した時代にあって、活仏をおいて他になかったからであった。とはいえ、活仏は言わば象徴的な君主であり、実権は首相に就任したナムナンスレンが掌握した。
 こうして成立したのが数百年ぶりに独立を回復したモンゴルのボグド・ハーン政権であるが、この政権は独立運動の支援国であった帝政ロシアを後ろ盾としており、事実上ロシアの保護国に近い状況にあった。
 同時にまた、如上独立運動の経緯から、この政権は外モンゴルに権力重心があったところ、革命翌年の1912年には内モンゴル有力者らもボグド・ハーン政権に帰順したため、1913年には軍を派遣して内モンゴルの支配を開始した。
 さらに、政権は一歩遅れて独立革命が成立したチベットと協調し、相互承認条約を締結した。この条約は相互防衛義務も規定した安全保障条約でもあって、両国が未だ帰趨の定まらない不安定な独立状態を協調して防衛していくための同盟であった。
 しかし、この後の経過がチベットと大きく分かれていくのは、モンゴルがロシアを後ろ盾としたことに要因がある。ロシアは辛亥革命で成立した中華民国との関係構築を目指すため、中華民国の国益に配慮し、すでに漢人人口が上回っていた内モンゴルを含めた独立に異を唱えた。
 そのため、ボグド・ハーン政権は内モンゴルから軍を撤退させざるを得なくなり、事実上は外モンゴルのみの独立となったばかりか、1915年に帝政ロシアと中華民国、モンゴルの間で締結されたキャフタ条約では、モンゴルに対する中華民国の宗主権が承認された。
 その結果、外モンゴルは中華民国宗主下の自治国家という地位に後退し、自立的な外交権を喪失した。こうして、モンゴル独立革命は所期の成果を見ず、実質上は挫折することとなり、真の独立はロシア革命後の地政学的変化を待たねばならなかった。

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近代革命の社会力学(連載補遺29)

2022-10-10 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(3)辛亥革命と「五族共和」理念
 モンゴル/チベット独立革命の言わば震源を成す辛亥革命は古代以来頻回の王朝交代を経験しながらも連綿と続いてきた中国の伝統的な君主制を終焉させる共和革命であったが、民族関係の観点から見れば、多民族の同君連合的な組成を持った清朝を打倒する民族革命でもあった。
 実際、辛亥革命の理念的指導者であった孫文が提唱した著名な三民主義の筆頭を成すのは「民族独立」であったし、三民主義に加えて、清朝支配層であった満州人の追放を含意する「駆除韃虜」や「恢復中華」といった直截な民族主義的スローガンも掲げられていたのであった。
 一方、モンゴル・チベットにとっても、辛亥革命で清朝が打倒されたことは、かの「文殊皇帝観」に基づく清朝支配体制からの離脱を意味していた。従来、同君連合の君主として奉じてきた清朝皇帝が存在しなくなったからには、独立の地位を回復できるはずだというのであった。
 ここまでは、共に満州人に支配されてきた各民族の分離独立という理念を共有しているように見えるが、辛亥革命の主体勢力であった孫文ら革命派漢人の民族観念はアンビバレントなものであった。
 「民族独立」といっても、漢民族を含めた各民族がそれぞれ分離独立することを意味していたわけではなく、当初は、むしろ清朝を構成した五大民族、すなわち漢満蒙回蔵(漢人・満州人・モンゴル人・ウイグル人・チベット人)の共存を目指す「五族共和」が標榜されていた。これは言わば、多民族共和国の構想であった。
 もっとも「五族共和」理念自体は元来、革命派と対立した立憲王党派が清朝の体制内改革の理念として提唱していたものであり、言わば借りものであった。革命派の本旨は、むしろ「恢復中華」にあったと言える。
 このようにスローガン化された「中華」は、単に漢民族の独立回復のみを意味せず、むしろ旧来の中華主義、すなわち漢民族中心主義を含意し、他民族に対しては同化主義を志向することになる。その限りでは、革命的というより、明朝以前の歴代中華王朝理念への後退を示してもいた。
 実際、中華民国が成立すると、五族共和論は事実上撤回され、同化主義の方向性が基調となるのであった。この方向性が、モンゴル・チベットの独立革命に対しては反革命力動として働くことは明らかであった。
 その点、辛亥革命の数年後、欧州の代表的な多民族同君連合の大国であったオーストリア‐ハンガリー帝国を崩壊させたオーストリア革命では、支配下各民族が続々と分離独立していく帝国解体革命の方向を取ったこととは対照的な力動を示したのが辛亥革命であったと言える。

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続・持続可能的計画経済論(連載第35回)

2022-10-09 | 〆続・持続可能的計画経済論

第3部 持続可能的計画経済への移行過程

第7章 経済移行計画Ⅰ:経過期間

(2)基幹産業の統合プロセス
 経済移行計画における経過期間において最初の関門となるのは、基幹産業の統合である。持続可能的計画経済における基幹産業とは、計画経済の対象範囲となる業種である。
 何をもって基幹産業とみなすかは産業分類に関わることであるが、その項でも述べたように、環境的持続可能性の確保を主旨とする持続可能的計画経済における基幹産業とは、環境的負荷の大きな産業分野を意味する。
 具体的には、鉄鋼、電力、石油、造船、機械工業に加え、運輸、通信、自動車等々、資本主義経済体制下でも大企業として経済界の基軸となっている産業分野が含まれてくることになるだろう。なお、一般の生産計画とは別立てとなる製薬分野もこれに準ずる。
 これらの産業分野は持続可能的計画経済の完成期においては社会的所有企業としての生産事業機構として統合されるが(拙稿)、そうした将来の生産事業機構の前身となる包括企業体を設立することが、経過期間における基幹産業の統合の眼目である。
 ここで基幹産業の統合とは、しばしば社会主義的経済政策の定番としてかつて見られた民間企業の強制的接収を通じた「国有化」とは全く異なるプロセスであることが確認されなければならない。
 持続可能的計画経済は国という政治主体を想定していないから(拙稿)、「国有化」はそもそもあり得ない。むしろ、資本主義経済体制下では多くの場合、株式会社形態で存在している基幹産業企業体を業界ごとに統合し、一つの会社に再編することを意味する。
 その点、今日の資本主義経済体制にあっては、各業種ごとに同業競合会社が何らかの業界団体を結成しており、協調的行動を取る。
 もっとも、この業界団体は協調的に生産活動そのものを展開するのではなく、多くの場合、業界全体の利益を保持するため、政界に働きかけるある種の圧力団体として機能し、しばしば汚職温床ともなる利権団体でもある。
 これに対して、将来の生産事業機構の前身を成す包括企業体は、協同的に生産活動を展開することを目的とした協同事業会社であり、資本主義下では独占禁止法で禁じられるようなトラストを形成することになる。従って、こうした前身的な包括企業体を解禁するために、既存の独占禁止法を改正する必要が生じる。
 包括企業体の法的地位は、その発足時点においては、株式会社ではなく、特殊な移行会社である。従って、その内部構造としても、将来の生産事業機構に準じた経営委員会や労働者代表委員会などの機関(拙稿)を擁する。
 こうした企業統合のプロセスは法律に基づき命令的に実施されるもので、各企業体が任意の合意(契約)に基づいて行う企業合併とは全く異なることにも留意される必要がある。

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近代革命の社会力学(連載補遺28)

2022-10-08 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(2)清朝藩部の半自治的支配構造
 辛亥革命以前、モンゴルやチベットを含む清朝の異民族辺境版図は本土の直轄域とは区別されて藩部と呼ばれ、藩部を管理する理藩院によって統括されていた。理藩院管轄下の藩部には、内外蒙古、チベット及びチベットの連続域とも言える青海、さらにかつての西域に当たる新疆の各領域があった。
 理藩院は元来、清朝がモンゴルを征服した後、なお強大であったモンゴル諸部族を統治するために設置した蒙古衙門を前身組織とし、1638年に蒙古衙門を拡大改組して理藩院に改称したものである。なお、清末の1906年に理藩部と再改称されたが、以下では理藩院で総称する。
 理藩院は中央省庁の一つではあったが、集権的統治機関ではなく、管轄下の各藩部では原則的に民族自治が許されており、ある意味では現代中国における名目的な少数民族自治区の制度よりも広い自治権が保障されていた。
 そもそも清朝は中国大陸における少数民族である旧女真族=満州人が建てた王朝であり、満州人皇帝が各民族の共通君主として立ち、漢民族やその他の少数民族を包摂してある種の同君連合を形成していたため、民族自治は辺境統治のありようとしても自然なことであった。
 特に、モンゴルを含むチベット仏教圏では、清朝皇帝は智慧を司る文殊菩薩の化身にして、天から授かった輪宝なる武器を所持し、地上を仏法に基づき治める理想の王としての転輪聖王を一身に体現した「文殊皇帝」として君臨するという皇帝観の下に、清朝の支配が受容・正当化されていた。
 とはいえ、各藩部は清朝が軍事的に征服した結果として清朝の版図に併合されたものであるから、完全な自治が認められたわけではなく、中央から文武官を派遣して、自治事務の監督や封爵、朝貢をはじめとする主要な朝廷事務に従事させた。
 こうした半自治的支配はしかし、清朝末期の体制動揺期には直接統治方針に転換され、1884年に新疆が地方行政区分の省に転換されたことを皮切りに、モンゴルやチベットを含むその他の藩部も省・州・県のような地方行政区分に再編する計画が企図された。
 特に中国大陸中心部(中原)に北方で接続する蒙古では、新式軍隊の配備を含む上からの強制的近代化政策を導入するとともに、漢民族の入植を奨励し、伝統的な遊牧地の削減を政策的に実施するなどしたほか、チベットでも1903‐04年の英国による侵略・占領後、清朝の直接統治に転換された。

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近代革命の社会力学(連載補遺27)

2022-10-07 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(1)概観
 中国最後の王朝体制である清朝を打倒した辛亥革命は清朝の北部及び西部の辺境版図に独立へ向けた蠕動をもたらしたが、その中心はモンゴルとチベットであった。
 この両者は地理的には離隔しているが、中世のモンゴル帝国(元朝)以来、共にチベット仏教を精神的基盤として共有する間柄として、かねて緊密な関係にあり、独立革命に際しても協調的行動を取ったので、ここでは両事象を包括して扱う。
 先行したのはモンゴル(蒙古)であり、1911年10月に辛亥革命が勃発するや、同年12月には外蒙古(現モンゴル国領域に相当)の王公貴族層が決起し、チベット人のモンゴル活仏ジェプツンダンバ・ホトクト8世を君主ボグド・ハーンに推戴し、独立を宣言した。
 このように辛亥革命とほぼ同時的に発生した経緯から、この独立革命は辛亥革命の一部とみなすこともできるが、革命の性格としてはモンゴル人の民族革命であり、また革命の方向性としても活仏を推戴する神権君主制を志向したことから、辛亥革命を契機とする別個の革命事象と見るべきものである。
 他方、チベット独立革命は1912年、清朝崩壊後にチベットの民兵組織が蜂起して清朝のチベット駐留軍を駆逐したうえ、インドに亡命していた活仏ダライ・ラマ13世を帰還させることで成立した。
 こうしてモンゴルとチベットの独立革命は別個に発生したが、辛亥革命で成立した中華民国政府は直ちに清朝の旧辺境版図の独立を承認する立場になく、モンゴル・チベットの独立はなお未確定であったことから、1913年、両国は相互承認条約を締結し、独立の地位を中華民国にも認めさせようとした。しかし、この後の経過では、両国の進路は分かれる。
 チベットは中国大陸革命で成立した中国共産党政権の人民解放軍が進攻・征圧した1950年まで独立を保持したが、モンゴルは独立に難色を示す中華民国と極東進出を狙う帝政ロシアの思惑から、1915年の条約で外蒙古のみが中華民国の宗主権下で自治権を保持するという妥協策に収斂した。
 こうして、モンゴルの独立は大きく制約される結果となり、完全な独立はロシア革命後の1921年、ソヴィエト政府の支援の下、改めてボグド・ハーンを君主とする立憲君主国を樹立するまで待つことになる。
 その意味で、1911年のモンゴル革命は完全な独立を獲得した1921年の再革命に対して、第一次独立革命―実態としては未遂―とみなすことができる。

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近代革命の社会力学(連載補遺26)

2022-10-05 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(5)未遂革命の余波
 時機を早まった革命として短時日で未遂に終わった甲申事変は、事変そのものよりも、遅効的に発現した事後的な余波のほうにむしろ大きな広がりがあった。その一つは、農民蜂起(甲午農民戦争)である。
 19世紀の朝鮮では両班階級の不当な搾取に対する農民反乱がしばしば発生したが(拙稿)、甲申事変後、1890年代にかけて持続的な農民反乱が発生した。その言わば集大成が1894年の甲午農民戦争であった
 甲午農民戦争は独自の新興宗教・東学を精神的な基盤とする新しい農民運動であり、両班階級に属しない地方役人出自の指導者・全琫準に指揮されて組織的に武装蜂起したため、一時は南部の全州地域を占領、ある種の革命的解放区を設定した。
 これは、甲申事変で弱体が露呈された革新派両班層に代わって農民層が革命の担い手として登場し、さらに全琫準のように農民に近い社会的位置にあった平民階級から出た非両班知識人が指導者として台頭してきたことを意味する。
 しかし、時に「甲午農民革命」とも称される農民蜂起は、近代的な理念に基づいた革命とは異なり、なお封建思想を残す東学を精神的基盤とし、近代的地方自治の制度を創出することもなかったため、近代化革命への発展を見ることはなかった(その点、近世日本の一向宗革命にいくぶん類似する)。
 一方、朝鮮王朝政府も甲午農民戦争を完全に鎮圧する力量を欠いていたため、和約を締結して、東学勢力による自治を事実上容認せざる得なくなるとともに、遅ればせながら近代化改革にも着手した。事変から10年以上を経た1894年から中断をはさみ、二次に及んだ改革である。
 その点、事変直後は、復旧された「事大党」政権により、甲申事変に関与した人士に対する苛烈な報復的弾圧がなされ、指導者の金玉均も逆賊として追及を受け日本へ亡命、その後、上海で閔妃政権が送り込んだ刺客によって暗殺されるなど、「独立党」はいったん壊滅された。
 しかし、1894年に至り、日本の干渉もあって、近代化改革の第一歩を踏み出す。特に、日本に亡命していた旧「独立党」幹部の一人、朴泳孝が帰国し、改革派金弘集政権の内務大臣として、近代的な内閣制度の導入、税制改革、近代警察・司法の創設など、まさに「独立党」が目指した諸改革(甲午改革)を主導した。
 甲午改革政権は内紛からいったん瓦解するも、1895年、日本公使館の関与の下に、復権した大院君ら反閔妃勢力によって閔妃が暗殺されると(乙未事変)、金弘集政権が復旧し、改革を再開した(乙未改革)。
 ところが、長く事実上の君主的立場にあった閔妃殺害の上に立つ近代化改革の継続に対しては保守勢力の激しい巻き返しが起こり、金弘集は反乱暴徒に殺害されて政権は瓦解、結局、朝鮮王朝の近代化は挫折した。
 この後の経過は甲申事変の余波事象を超えるので論及しないが、朝鮮が内発的な近代化革命に成功しなかったことは、朝鮮権益をめぐる抗争でもあった日清戦争に勝利した日本の朝鮮支配力を強め、最終的には併合へとつながる伏線となる。

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近代革命の社会力学(連載補遺25)

2022-10-04 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(4)革命的決起と挫折
 「独立党」が革命的決起に傾斜した要因としてはいくつかのことが考えられるが、一つに破綻状態の財政強化のため日本やアメリカ、フランスに要請した借款の交渉が不調に終わったことに加え、当時、清国から派遣されていた軍人・袁世凱が事実上朝鮮の摂政のようにふるまい、植民地的な様相を呈し始めていたことがあった。
 そうした中、1884年6月、清国はベトナムに対する宗主権をめぐりフランスと交戦することになり、朝鮮駐留軍の半数を引き揚げた。これによって清朝による朝鮮支配に緩みが生じたことが、決起への好機を提供した。
 日本外交当局もまた親日派の「独立党」に政権を掌握させ、朝鮮への浸透力を挽回する好機ととらえたことから、急速に決起の機運が生じた。そのため、「独立党」の計画には日本公使館(竹添進一郎弁理公使)も関与したうえ、電撃的なクーデターの手法で一気に政権を掌握することを狙った。
 とはいえ、「独立党」は文官の集団であり、武力を有していなかったため、必要な武力は主として朝鮮に駐留する日本陸軍部隊を主力に、誕生間もない新式軍隊の一部と士官学校生を動員できるのみであった。
 しかし、この空隙を突いた電撃クーデターはいったん成功し、1884年12月5日(以下、日付は1884年12月)に「独立党」を中心とする新政権が樹立された。といっても、近代的な政府ではなく、事前に国王・高宗の了解も得たうえ、旧来の朝廷機構の枠内で構成された新政権であった。
 構成メンバーとしても、宰相に当たる領議政に大院君の従弟が就くなど、清国に拘束されていた大院君に近い人物が起用されており、財務相に相当する役職に就いた金玉均をはじめ、「独立党」人士と本来は攘夷派である大院君派の連合政権に近い形であった。
 このように、経過としては守旧派をも取り込んだクーデターであったが、新政権が公表した14箇条の綱領(革新政綱)には、門閥の廃止と人民平等の権利の確立、内閣制度の創設、地租法の制定、財政官庁の統一化、政令に基づく行政など、近代的な政治経済制度の樹立に向けた項目が盛られており、新政権が持続すれば、まさに革命的な「甲申維新」となるはずのものであった。
 しかし、新政権は「政綱」の筆頭に大院君の解放と帰還を掲げ、新政権にも大院君寄りの人物を起用したこと、さらに高宗を清朝から自立した「皇帝」として改めて推戴しようとしたことは閔妃とその支持勢力「事大党」及び清国を刺激し、直ちに反革命の態勢に赴かせた。
 6日から清国軍による反撃が開始されると、竹添公使は日本軍将校の反対を押して撤収を指示したため、新政権は実質上武装解除状態となった。これが打撃となり新政権は瓦解、7日には高宗が清国軍に拘束され、清国の要求により、親清派の臨時政権に立て替えられた。
 こうして、「独立党」の革命的決起はわずか数日の天下で挫折することとなった。その要因として、技術的には、独自の武力を持たない両班文官集団が主導したため、武力を専ら日本に依存したこと、その日本が清国軍の反撃の中、あっさり手を引いたことも決定因であった。
 より深層的には、この時期の朝鮮王朝は閔妃が国王を凌ぐ実権を掌握して外戚門閥政治を展開する勢道政治の絶頂期にあり、門閥廃止という「独立党」の政綱を実現できるだけの条件が熟していなかったこと、そのため「独立党」はその母体である両班階級の間ですら支持の広がりを欠いていたことが、挫折要因として考えられる。

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近代革命の社会力学(連載補遺24)

2022-10-03 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(3)「独立党」の形成と日本へ/の接近
 閔妃政権が清国の武力を借りて壬午事変を鎮圧し大院君を排除したことは、ひとまず開国・開化派の勝利を意味していたが、閔妃政権は借りを作った清国への従属を強めていったため、この時期の政権主流派は、清国に奉仕しつつ開国・開化を推進する立場であった。
 この立場は「事大党」とも呼ばれるが、正確には「親清開化派」である。これに対して、清国への従属に反発し、清国から自立しつつ、より急進的な近代化を推進しようとするある種の野党が台頭し、「独立党」と呼ばれるが、これも正確には「脱清開化派」である。
 このグループは、その事実上の指導者である金玉均をはじめ、朝鮮王朝の伝統的支配層を成す両班階級に出自する青年を主体とした急進的な開化主義者から構成されていた。その中には、朴泳孝のように王女を配偶者とする王室外戚も含まれるなど、基本的に体制内部のエリート階層に出自する者が多い。
 その点、日本の明治維新を担った地方藩の青年下級武士層のように、体制の周縁部から台頭した人士による革命とは担い手を全く異にしていたことが、革命事象としての両者の結末を分ける要因ともなったであろう。
 そうした相違にもかかわらず、「独立党」人士は日本の明治維新を朝鮮近代化の範とみなし、日本と結んで朝鮮の近代化を推進せんとする構想を抱いた。そのため、金玉均らは初め、開化派の仏教僧・李東仁を日本に密航させて、日本の実情視察を行ったほか、金玉均自身も国王の勅命を得て、日本に遊学した。
 その際、福沢諭吉と親交を深め、福沢の紹介で明治政府の高官を含む多数の有力者とも懇親する機会を得た。福沢自身もこれを機に朝鮮近代化運動に強い関心を寄せるようになり、「独立党」人士を積極的に支援した。
 体制エリート層に発した「独立党」は当初から革命を構想していたわけではなかったが、そのメンバーはまだ若く、体制内で枢要な地位に就くことはかなわず、朝鮮王朝では伝統の体制内党争を通じて「事大党」を抑え、政権を掌握することは至難な情勢であった。
 一方、壬午事変後、清国の朝鮮干渉が強化される中、修好条規以来の対朝影響力の低下を余儀なくされた日本としても、日本と結んで朝鮮の近代化改革を目指す「独立党」は新たな親日派として利用価値が高かった。そのため、明治政府の井上馨外務卿以下、日本外交当局も「独立党」の支援に傾斜していく。
 こうした両者の利害の一致は「独立党」の日本への接近とともに、日本の「独立党」への接近を促すこととなった。そうした相互力学の中で、「独立党」による武力革命への流れが急速に生じるが、当時の内外情勢に鑑みれば、それは拙速な決起を予感させるものでもあった。

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近代科学の政治経済史(連載第21回)

2022-10-02 | 〆近代科学の政治経済史

四 近代科学と政教の相克Ⅱ(続き)

アメリカの反進化論法と進化論裁判
 ダーウィン進化論は科学界でも論争を招いたが、次第に受容されて、公教育における理科教育でも先進的な生物学理論として教授されるようになっていった。こうした動きに対して最も強い反作用を示したのが、アメリカにおけるプロテスタント系福音主義者である。
 福音主義にも種々の流派があるが、聖書の記述を絶対化する聖書無謬論の立場を採る原理主義派は、聖書における天地創造説話を歴史的な真実とみなす立場から、ダーウィン進化論に強く反発し、教育の場で進化論を教授することに反対する運動を展開した。
 こうした反進化論運動をより政治的な運動に高めたのは、政治家ウィリアム・ジェニングス・ブライアンであった。彼は三度にわたり民主党大統領候補ともなったリベラルな政治家であり、女性参政権や累進課税の導入運動などでも活動する一方、宗教的に福音原理主義派に近い立場から、進化論に反対した。
 ブライアンの反対理由には、宗教保守的な解釈と、社会進化論が人種差別や優生学を正当化する理論として悪用されることへのリベラル派としての懸念がないまぜになっていたが、後者はダーウィン進化論とその派生理論としての社会進化論の混同という誤謬に発している。
 しかし、ブライアンは宗教的・思想的批判を超えて公教育で進化論を教授することを禁止する州法の制定を求める運動を展開したことで、問題は一気に政治化することになる。実際、南部のいくつかの保守州では、ブライアンの運動に呼応して反進化論法が現実に制定された。
 中でも、テネシー州では反進化論法に反して進化論を教えた無名の理科教師ジョン・トマス・スコ―プスが刑事訴追されるという弾圧事件―通称モンキー裁判―に発展した。
 1925年に行われたこの裁判では、弁護側を有力な憲法人権団体である自由人権協会が支援し、著名な弁護士クラレンス・ダロウが付いたことで全米的な関心を集める憲法裁判となったが、陪審評決は有罪であり、スコープスには罰金刑が科せられた。
 州最高裁は形式的な理由によるスコープスへの有罪判決を取り消したものの、反進化論の合憲性は承認したため、反進化論法は1967年の廃止まで存続することとなり、スコープスも教職を追われた。
 その後、反進化論法は、1968年のアーカンソー州反進化論法裁判で、合衆国最高裁が反進化論法を表現の自由を保障する憲法修正第1条に違反すると断じたことで、ようやく廃止の流れが生じた。
 しかし、福音原理主義派は1980年代以降、創造論を「科学」とみなし、進化論と均等な時間で教授することを要求するなど、形を変えた反進化論運動を展開し、21世紀に入って再び反進化論法制定運動を活発化するなど、アメリカにおける進化論と政教の相克は現代まで続いている。

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