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近代革命の社会力学(連載第11回)

2019-09-02 | 〆近代革命の社会力学

二 17世紀英国革命

(5)国王処刑への力学  
 いわゆる清教徒革命の大きな特徴として、そのクライマックスにおいて君主たる国王が裁判にかけられ、処刑されたことがある。それまでの世界歴史上も、君主が暗殺される例はあったが、革命によって処刑されたのは初めてであり、以後の世界歴史上フランス革命やロシア革命で繰り返される重要な先例となった。
 一般に革命では旧体制の統治権者は政権を追われるが、処刑までされるかどうかは分かれる。処刑に至るかどうかの分かれ道となる要素は何かを確定するのは難しいが、統治権者が専制のゆえに民衆の憎悪を買っていたかどうかは大きな要素である。  
 清教徒革命当時のチャールズ1世は王権神授説を信奉し、議会軽視の専制的な姿勢で議会と決定的に対立したことが内戦を招いたのであった。当初、議会は「権利の請願」(1628年)や「大諫奏」(1641年)といった穏健な牽制手段でチャールズの政治姿勢を正そうと試みたが、効果はなかった。  
 その結果、議会自身が武装蜂起することになったわけであるが、当初議会で多数派を占めた長老派は議会軍に捕らわれた国王と和睦しようとしていた。しかし、これを台無しにしたのは、チャールズの「脱走」であった。  
 チャールズは軟禁状態にあった宮殿を脱走し、スコットランドのハミルトン公爵との間で秘密合意を結び、巻き返しを図った。ステュアート王家の故郷スコットランドから反撃しようとしたわけだが、これによっていったんは終結するかに見えた内戦がぶり返され、第二次内戦が勃発してしまう。  
 しかし、ハミルトン公が議会軍に敗れ、処刑されたことを機に、第二次内戦は短期で終結、チャールズは再び囚われの身となる。そうした中でも、なお長老派はチャールズとの和睦、君主制の維持を模索したが、これに反発した独立派がクーデター決起し、長老派を追放したのだった。  
 独立派としては、多大の犠牲を出した内戦の責任を国王に問うつもりであった。実際、内戦では8万人以上が戦死し、10万人以上は戦争関連死するという人的損失が生じており、チャールズの問責は民衆的にも支持があったと考えられる。  
 とはいえ、王権神授説によらずとも、国王を裁判にかけることは法的に困難であったが、長老派が追放され独立派が残留したいわゆる残部議会は、国王を裁くための特別法廷として高等法院(High Court of Justice )を設置し、チャールズを反逆罪で訴追した。
 1649年1月に開始された審理は、わずか1週間でチャールズに有罪・死刑を言い渡した。結論先取りの観は否めないが、裁判はウェストミンスター宮殿で公開され、法廷ではチャールズにも弁明の機会が与えられるなど、異例の国王裁判は、当時としてはそれなりにデュー・プロセスが保障されたものだった。  
 この点で、ほぼ形式的な即決裁判で国王夫妻を処刑した18世紀のフランス革命や、裁判さえなしに超法規的に皇帝一家全員を「処刑」(銃殺)した20世紀のロシア革命と比べても、比較的公正な国王裁判がなされたと言える。  
 近代に先行する清教徒革命が後の近代革命より「公正」だったというのは皮肉であるが、これも英国的な司法の伝統によるものかもしれない。ただ、国王処刑という劇的な結末は高くつき、後の王政復古に際して、今度は旧革命派が国王弑逆の罪で処刑されるという手痛い代償を払うことになる。

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