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近代革命の社会力学(連載第16回)

2019-09-11 | 〆近代革命の社会力学

三 アメリカ独立革命

(3)集団的革命家の形成  
 アメリカ独立革命が開始されるに当たって、最初の結集体となったのは、タウンゼンド法への抗議に端を発した「自由の息子たち」を名乗る秘密結社であった。しかし、この結社は独立を直接の目的とはしていなかったうえ、中央指導部を擁する統一的な組織として活動していたわけでもなかった。  
 アメリカ独立革命の特徴は、明確な政治党派のようなものが形成されなかったことである。その代わりに、各植民地代表から成る代議機関としての大陸会議が重要な役割を果たす。大陸会議は1774年と1775年の二度開催されたが、第二回大陸会議の前に独立戦争緒戦となるレキシントン・コンコードの戦いが火蓋を切られた。  
 そのため、「耐え難き諸法」への抗議と対抗措置が主要議題となった第一回会議に対し、第二回会議以降、急速に独立の流れが生じ、独立戦争を戦う大陸軍が結成された。そのうえで、1776年7月4日に著名な「独立宣言」が採択された。  
 大陸会議は最終的に合衆国憲法の前身となる連合規約の批准と、合衆国議会の前身組織となる連合会議の創設へと進み、独立へ向けた法的・政治的な準備過程が戦争と並行して進行していくことになる。  
 アメリカ独立革命のもう一つの特徴としては、一人のカリスマ的指導者によって導かれることがなかったことである。建国後に初代大統領となったジョージ・ワシントンにしても、大陸軍の司令官として多くの実績を上げたことで大統領に推挙されたが、独立革命のプロセス全体の中で突出した役割を果たしたわけではなかった。  
 アメリカ独立革命は、大陸会議から連合会議へ、そして最終的に合衆国憲法の制定に至る革命プロセスが進む中で集団的に形成されていった各植民地を代表する革命家たち―大雑把に「愛国者」とも呼ばれた―によって討議されながら遂行されていったものであり、そうした集団的革命家がいわゆる「建国の父」として銘記されることになった。
 ちなみに、誰を「建国の父」とみなすかについては、独立宣言署名者や合衆国憲法署名者としたり、あるいはより広く独立戦争英雄としたりと定説がないため、「建国の父」の名簿や人数も確定することはできない。まさしく漠然とした「集団」なのである。  
 この集団的革命家=建国の父の階級的出自はおおむね中産階級であったと言えるが、移民によって開拓されてきた北アメリカ植民地では英国本国ほどに明確な階級分化が進んでおらず、本国派遣の総督らを除けば、貴族階級も存在しなかったから、革命家の階級性はさほど明確ではなかった。
 もっとも、地主階級は多く、南部出身者には奴隷所有者も少なからずいたが、英国の清教徒革命の主体となったジェントリーのような階級は北アメリカでは未分化の状態であったから、地主階級による革命とも言えない。
 一方、独立革命は長期の戦争を伴ったから、独立戦争を戦い、勝利に導いた大陸軍の功績には大きなものがあった。そのため、集団的革命家=「建国の父」の多くは独立戦争従軍者であったが、清教徒革命後のイングランド共和国のように、建国後に軍が力を持つことはなかった。  
 大陸軍の性格は本質的に民兵組織であり、ジョージ・ワシントンにしても元来は農園主であったが、地元バージニア植民地の民兵隊に入隊して大陸軍の総司令官までたたき上げた人物であった。しかし、彼はクロムウェルのような軍事独裁者となることなく、民選大統領として任期を全うしている。

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