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貨幣経済史黒書(連載第22回)

2019-09-15 | 〆貨幣経済史黒書

File21:昭和金融恐慌

 1929年に始まる世界恐慌に先駆けて、日本では1927年から昭和金融恐慌が勃発した。通常は、世界恐慌の日本への余波たる恐慌―農村への打撃が深刻であった点から「昭和農業恐慌」とも―を併せて「昭和恐慌」と呼ばれることが多いが、ここでは、先行の金融恐慌を分離してとらえる。  
 というのも、金融恐慌は世界恐慌突入直前に日本経済特有の要因から発生したもので、明治維新以後の近代日本において、おそらくは初めて身をもって貨幣経済の恐怖を体験した本格的な資本主義的恐慌だったからである。  
 この時期の日本は、第一次世界大戦を機に生じた商品輸出の伸張に伴う好景気が5年ほど続いた間に工業生産が増大し、新興資本主義工業国家として台頭していた。それを支えたのは、極めて緩い規制のもとに続々と設立されていた商業銀行であった。  
 第一次大戦後には、法則どおり、大戦景気の反動としての戦後恐慌を経験したが、この時はさほどのパニックにはならなかったものの、不況遷延期に入っていた。そこへ、1923年の関東大震災という予期せぬ激甚災害が長期的な問題を惹起する。震災の影響で企業の振出手形が支払い不能となることを見越して、政府・日本銀行がモラトリアムや手形再割引といった予防策を採ったことが裏目に出たのである。  
 こうした資金の裏づけを欠く空手形に近い震災手形に加え、震災とは無関係の決済不能手形も混在して、大量の不良債権が発生した。政府はその処理のための緊急法案を策定して対処しようとしたが、これが折から定着しつつあった政党政治で政党間抗争の道具にされ、審議は円滑に進まなかった。  
 そうした中、当時の憲政会政権の片岡直温蔵相が国会答弁で公に発した「東京渡辺銀行破綻」という事実無根の失言が決定的な打撃を与える。東京渡辺銀行は明治初期の国立銀行条例に基づき、明治10年(1877年)に設立されたいわゆる国立銀行の一つであった第二十七銀行を前身とする民間銀行であり、大戦景気渦中の1920年に東京渡辺銀行に改称して以来、預金・融資額を飛躍的に拡大させていた。  
 実際、同行は1927年の時点では放漫経営により破綻寸前となっていたところ、他行からの緊急融資で持ちこたえていたため、蔵相の「破綻した」という完了形の発言は誤りであったのだが、これは大蔵省内での連絡の行き違いによるものであった。
 しかし、この蔵相答弁により東京渡辺銀行で取り付け騒ぎが発生し、休業に追い込まれた。一行での取り付け騒ぎは金融不安を呼び、他行にも連鎖するのが法則であるから、渡辺銀行に続き、関東から関西へと銀行の休業が相次いだため、日銀は非常貸出を余儀なくされた。  
 実際のところ、この時最大の危険要因は台湾銀行の経営危機にあった。台銀は植民地時代の台湾で設立された外地の特殊銀行であり、その業務は本来台湾での金融事業にあったところ、大戦景気で急激に業績を拡大した商社・鈴木商店への融資が膨張し、不良債権化していたのであった。  
 台銀の破綻は何としても避けたい政府であったが、日銀特融に日銀が難色を示したことから、台銀は破綻・休業に追い込まれた。これを機に、多行の連鎖破綻が続き、東京の有力銀行だった十五銀行の破綻に至って、昭和金融恐慌は頂点に達した。日銀自体、非常貸出の多発により紙幣在庫が枯渇するという非常事態に陥った。  
 こうした危機的状況を打開するために起用されたのが、高橋是清蔵相であった。高橋はモラトリアムと紙幣増発を柱とする緊急対策を打ち出し、恐慌を沈静化させた。結局のところ、昭和金融恐慌はその名のとおり、金融面の恐慌にとどまり、産業全体に及ぶ全面恐慌には進展せずに終わった。  
 とはいえ、この恐慌は、小資産保有者が増加し、銀行預金という経済習慣が育ち始めていた当時の日本において、中小市中銀行の連鎖破綻の恐怖を全国的に体感させる画期的な出来事であった。以後、預金は経営体力の強い財閥系大銀行に集中するようになり、銀行を中核とする財閥の形成を促進したことであった。


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