ザ・コミュニスト

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世界共同体憲章試案(連載第3回)

2019-09-13 | 〆世界共同体憲章試案

第1章 目的

【第1条】

世界共同体の目的は、次のとおりである。

1.地球環境の生態学的な持続可能性を維持すること。そのために、地球環境に対する脅威の防止及び除去と地球環境の破壊の阻止のため有効な集団的措置をとること並びに地球環境の生態学的な持続可能性を確保するために有効な計画経済を地球的規模で実施すること。

2.全民族の同権に基礎を置く全民族間の協調関係を確立すること及び恒久平和を実現するために常備軍の廃止その他のあらゆる適切な施策を追求すること。

3.経済的、社会的、文化的または人道的性質を有する諸問題を解決することについて、並びにいかなる差別もなくすべての人のために人権及び基本的自由を尊重することについて、強制力を伴う民際協調を達成すること。

4.これらの共通の目的の達成に当たって、主権国家を廃し、全民族の行動を統合するための核心となること。

[注釈]
 本条は、前文の総括を受けて、世界共同体の設立目的を簡潔に箇条化したものである。  
 国際連合との大きな相違点は、地球環境の保全とそれに資する計画経済の実施が一等最初に掲げられていることである。国連が第二次大戦の後始末機関であったのに対し、世共はそうした戦争の後始末の段階を超え、危機にある地球環境を保全するべく、全民族のグローバルな統合を目指すことに力点があるからである。  
 また国連のような軍備の管理を通じた「安全保障」ではなく、そもそも軍備を持たない「恒久平和」が追求される点も異なる。そのために、地球規模での軍備の廃絶が目指される。人権と基本権に関しても、宣言的なものにとどまらず、強制力を伴う実効的な民際協調体制を確立することが目指される。  
 そうした共通目的の達成に当たって、世共は旧来の主権国家体制を廃し、全民族の行動を統合するために新たな民際体制として創設されるということである。

第2章 世界共同体の構制

【第2条】

1.世界共同体の全機構は、世界民衆が有する主権に基づいて構制される。

2.世界共同体は、主権を有する民衆が自治的に統治する領域圏及び汎域圏並びに直轄圏及び信託代行統治域圏によって構成される。

3.領域圏は、世界民衆会議‐世界共同体総会に代議員を送ることのできる最小の単位である。

4.近隣の領域圏は、12を超えない限度で、協約に基づいて、世界民衆会議‐世界共同体総会に原則として一名の代議員を送ることのできる合同領域圏を構成することができる。

5.汎域圏は、大陸または連関する島嶼を基準として諸領域圏を包摂する次の五つの大地域である。

汎アフリカ‐南大西洋域圏
汎アメリカ‐カリブ域圏
汎東方アジア‐オセアニア域圏
汎西方アジア‐インド洋域圏
汎ヨーロッパ‐シベリア域圏

6.汎域圏は、域内の経済的、社会的、文化的または人道的諸問題を協調して解決することを目的とする広域的な単位である。

7.直轄圏のうち、1000人以上の住民が永住しているものは、これを直轄自治圏とする。直轄自治圏は、前項の汎域圏のいずれにも属しないことを除けば、領域圏に準じた地位が与えられる。ただし、世界民衆会議‐世界共同体総会に固有の代議員を送ることはできない。

[注釈]  
 世界共同体は、主権国家ベースではなく、内政自主権を有する領域圏を基本単位として構成される国際機構ならぬ民際機構である。  
 領域圏は協約に基づいて任意に合同領域圏を形成することができるが、汎域圏の形成は義務的である。汎域圏は、世界共同体の執行機関に当たる全権代表者会議を選出する母体となる。直轄自治圏は、地理的または地政学的な理由から領域圏を形成できない小規模な地域に適用される。

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近代革命の社会力学(連載第16回)

2019-09-11 | 〆近代革命の社会力学

三 アメリカ独立革命

(3)集団的革命家の形成  
 アメリカ独立革命が開始されるに当たって、最初の結集体となったのは、タウンゼンド法への抗議に端を発した「自由の息子たち」を名乗る秘密結社であった。しかし、この結社は独立を直接の目的とはしていなかったうえ、中央指導部を擁する統一的な組織として活動していたわけでもなかった。  
 アメリカ独立革命の特徴は、明確な政治党派のようなものが形成されなかったことである。その代わりに、各植民地代表から成る代議機関としての大陸会議が重要な役割を果たす。大陸会議は1774年と1775年の二度開催されたが、第二回大陸会議の前に独立戦争緒戦となるレキシントン・コンコードの戦いが火蓋を切られた。  
 そのため、「耐え難き諸法」への抗議と対抗措置が主要議題となった第一回会議に対し、第二回会議以降、急速に独立の流れが生じ、独立戦争を戦う大陸軍が結成された。そのうえで、1776年7月4日に著名な「独立宣言」が採択された。  
 大陸会議は最終的に合衆国憲法の前身となる連合規約の批准と、合衆国議会の前身組織となる連合会議の創設へと進み、独立へ向けた法的・政治的な準備過程が戦争と並行して進行していくことになる。  
 アメリカ独立革命のもう一つの特徴としては、一人のカリスマ的指導者によって導かれることがなかったことである。建国後に初代大統領となったジョージ・ワシントンにしても、大陸軍の司令官として多くの実績を上げたことで大統領に推挙されたが、独立革命のプロセス全体の中で突出した役割を果たしたわけではなかった。  
 アメリカ独立革命は、大陸会議から連合会議へ、そして最終的に合衆国憲法の制定に至る革命プロセスが進む中で集団的に形成されていった各植民地を代表する革命家たち―大雑把に「愛国者」とも呼ばれた―によって討議されながら遂行されていったものであり、そうした集団的革命家がいわゆる「建国の父」として銘記されることになった。
 ちなみに、誰を「建国の父」とみなすかについては、独立宣言署名者や合衆国憲法署名者としたり、あるいはより広く独立戦争英雄としたりと定説がないため、「建国の父」の名簿や人数も確定することはできない。まさしく漠然とした「集団」なのである。  
 この集団的革命家=建国の父の階級的出自はおおむね中産階級であったと言えるが、移民によって開拓されてきた北アメリカ植民地では英国本国ほどに明確な階級分化が進んでおらず、本国派遣の総督らを除けば、貴族階級も存在しなかったから、革命家の階級性はさほど明確ではなかった。
 もっとも、地主階級は多く、南部出身者には奴隷所有者も少なからずいたが、英国の清教徒革命の主体となったジェントリーのような階級は北アメリカでは未分化の状態であったから、地主階級による革命とも言えない。
 一方、独立革命は長期の戦争を伴ったから、独立戦争を戦い、勝利に導いた大陸軍の功績には大きなものがあった。そのため、集団的革命家=「建国の父」の多くは独立戦争従軍者であったが、清教徒革命後のイングランド共和国のように、建国後に軍が力を持つことはなかった。  
 大陸軍の性格は本質的に民兵組織であり、ジョージ・ワシントンにしても元来は農園主であったが、地元バージニア植民地の民兵隊に入隊して大陸軍の総司令官までたたき上げた人物であった。しかし、彼はクロムウェルのような軍事独裁者となることなく、民選大統領として任期を全うしている。

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近代革命の社会力学(連載第15回)

2019-09-10 | 〆近代革命の社会力学

三 アメリカ独立革命

(2)独立前北アメリカ植民地と本国  
 独立前の北アメリカ植民地は、初期の入植以来、自治的に運営されていたが、その代償として、英国議会に正規の代表議員を送る権利を与えられず、議決権のないオブザーバー議員を送ることができたのみであった。 しかし、法的な建前としてはあくまでも英国領土であるから、植民地人には本国への納税義務が課せられていた。といっても、当初は輸出入品への関税に限られていた。
 そのような微妙な体制で本国との関係は維持されていたが、七年戦争の頃から風向きが変わり始まる。七年戦争は西欧列強の国益が複雑に絡む国際戦争であったが、北アメリカ戦線では植民地を分け合っていた英国とフランスの間で戦争となったところ、英国が勝利し、北アメリカ植民地を死守したのであった。しかし、英国はそのために要した費用を植民地への課税強化で補填しようとした。  
 特に1765年の印紙税は北アメリカ植民地に課せられる初の直接税であったばかりでなく、その内容も新聞やパンフレットから、トランプの札に至るまで印紙貼付を義務づけるという悪法であったため、強い怒りを巻き起こした。  
 その怒りは一時的なものではおさまらず、「自由の息子たち」を名乗る反英秘密結社が各地に組織され、印紙売買を力で妨害するなどの直接行動に出た。さらに、9の植民地の代表が集まり、印紙法について議論する「印紙法会議」が開催された。  
 「代表なくして課税なし」という議会主義の原点を確認し、植民地への課税権は植民地議会のみが有することを共同宣言したこの会議は、まだ独立を目指すものではなかったが、植民地が最初に共闘した画期点となるものであった。  
 しかし、本国政府・議会はこうした植民地人の不満には無頓着であり、それどころか、印紙法会議の翌年1766年には、英国議会に植民地法を制定する絶対の権利があることを対抗宣言したうえ、翌1767年、追い打ちをかけるように、日用品にも広く課税する法律を制定した。  
 この法律は時の英国財務大臣チャールズ・タウンゼントが主導したいわゆる「タウンゼンド諸法」の一環であり、英本国の植民地への課税権を確立することを狙ったものであった。これに対して、植民地人は英国製品のボイコットで応じたため、諸法は英国議会で大幅に修正・撤廃され、最終的には茶税のみとなった 。
 この間、1770年のボストンではタウンゼンド法への抗議活動に対し、英国軍が発砲する事件が発生した。犠牲者は5人であったが(うち一人は黒人)、この事件は「ボストン虐殺事件」として大々的に伝えられ、英国官憲の横暴さを示す事件として大いに宣伝されたのである。
 さらに、1773年には英国が経営難の東インド会社を救済するため、茶の貿易独占を狙った茶法に抗議して、「自由の息子たち」のメンバーがボストン停泊中の英国船から積荷の茶を投棄するという事件が発生した。
 参加者が先住民の服装で行なうというユニークなこの抗議行動は「ボストン茶会事件」として知られているが、この事件を機に、英国政府は植民地の自治権を制限する対抗立法により抑圧を強化する措置を講じた。
 名誉革命を通過したこの時代の英国は、ドイツから招聘したハノーバー朝の下、議院内閣制が発達し始めていたから、植民地側からは「耐え難き諸法」と呼ばれた一連の悪法を主導していたのは英国王以上に、時の首相フレデリック・ノースであったが、ノース政権が北アメリカ植民地に対して抑圧的な政策を強化したことは、逆効果的に北アメリカ植民地の革命的な団結を促進したと言える。

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近代革命の社会力学(連載第14回)

2019-09-09 | 〆近代革命の社会力学

三 アメリカ独立革命

(1)概観  
 今日のアメリカ合衆国の建国につながったアメリカ独立革命は、最終的に英国からの独立を獲得するまでに8年近くに及ぶ長期戦を経たため、「独立戦争」とも呼ばれるように、一国内部での体制変動にとどまる狭義の革命とは異なる。  
 しかし、独立戦争の過程で、共和主義の政治思想に基づく君主なき近代共和制国家が創出されたという点で革命的でもあったため、「独立革命」と呼ぶにふさわしい実質を備えている。  
 単に共和制ということであれば、古代ローマも建国から暫くの間は君主を持たない共和制都市国家であったが、領土を拡大し帝国化するにつれて、皇帝を擁する帝制に変更されていった。古代ローマにおける共和制は帝制への準備過程だったとも言える。
 16世紀にスペインから独立したネーデルラント(オランダ)も、統領を元首とする共和制国家と呼ばれるが、ネーデルラント統領は貴族であるオラニエ公家による世襲であり、最終的には明確な君主制に収斂したため、真の意味での共和制とは言い難い。
 終始一貫した共和制国家としては、ローマ帝国の迫害を逃れたキリスト教徒が建国したと言われるイタリア半島の小国サンマリノがあるが、大国で終始一貫した共和制国家として存続しているのは、アメリカ合衆国だけである。  
 アメリカにこのような強力な共和主義の思潮が現れた理由として、合衆国の土台となった英国の北アメリカ植民地が、英国による直接的な征服によらず、移民たちの自由な入植活動によって構築されていったことも影響していると考えられる。  
 ちなみに、17世紀に遡る最初期のアメリカ移民には、有名なピルグリム・ファーザーズに象徴されるようなピューリタンが少なからずいた。ピューリタンは英国本国では、前回まで見た17世紀英国革命(清教徒革命)の担い手となり、イングランド共和国を成立させていた。  
 アメリカ移民のすべてがピューリタンではなかったから、アメリカ独立革命をピューリタン革命のアメリカ版とみなすことには無理があろうが、今日のアメリカでもプロテスタント派が宗教上の多数派を占めていることは、アメリカ独立革命とピューリタン‐プロテスタントとの結びつきを物語るものと言える。  
 合衆国の土台となった北アメリカ植民地は、独立前は英国領であるから、法的な元首は英国王であり、植民地には国王代官たる総督が派遣されていたとはいえ、海を越えた広大な植民地に英国王の実効支配は充分に及んでおらず、入植者による自治の気風が元来強かった。  
 他方で、10を越える植民地が独立前は統合されず、それぞれが事実上の自治国家のように運営されていたことから、中央集権制には否定的であり、独立に際しても、完全には統合されず、各植民地を引き継いだ各州が司法権を含めた高度の内政自治権と軍事力を留保する連邦主義へ赴くことになった。  
 このような共和制と連邦制の組み合わせ―連邦共和制―という新たな政体は、17世紀初頭から18世紀後半のおよそ200年に及んだ植民地の時代に、歴史的な時間をかけてじっくりと醸成され、発芽の時を待っていたのだと言える。

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世界共同体憲章試案(連載第2回)

2019-09-07 | 〆世界共同体憲章試案

前文

われら人類は、
地球環境を危機にさらしている既存の経済活動がもらしてきた弊害から現在及び将来の世代を救い、
健全な地球環境及び地球上の生態系の持続可能性を保障し、
改善された環境の中で社会的及び経済的な平等と生活の質の向上を促進すること、
加えて、
言語に絶する悲哀を人類に与えてきた戦争の惨害から現在及び将来の世代を救い、
永きにわたり国際紛争の要因となってきた主権国家間の分裂と対立を克服し、恒久平和の条件を確立すること、
並びに、これらのために、
生態学的に持続可能な経済活動を全人類が計画的に協働してこれを行ない、
国家及び一切の国家的常備軍事力を廃するべく、
既存の国際連合に代えて、全人類を包摂する共同体機構を創出することを決意して、
これらの目的を達成するために、われらの革命的な努力を結集することを決定した。
よって、世界各地の進歩的な民衆が結集した世界民衆会議は、集団的な討議の結果、この世界共同体憲章に合意したので、ここに世界共同体という民際機構を設立する。

[注釈]
 国際連合を否定するのでなく、それを克服すべく、主権国家体制に基づかない世界共同体を設立するという趣旨を完結に表現することが、前文の役割である。そうした趣旨を明らかにすべく、国連憲章の前文と似た形式で構成されるが、内容はかなり異なっている。  
 特に、国連は第二次世界大戦に勝利した連合国主導で設立された経緯からも、前文の冒頭が「われら連合国の人民」で始まっていたことは、国連という制度の決定的な限界であった。国連とは、言わば第二次世界大戦の後始末の体制であり、設立から70年以上を経過し、加盟国が200か国近くに達した現時点でも、そうした旧連合国主導の運営体制は変わっていない。  
 また20世紀半ばという時代状況を反映して、地球環境保全という共通目的も国連憲章前文には見当たらない。当時は、資本主義か社会主義か、その体制イデオロギーを問わず、青天井の経済開発を至上目標としていたからである。  
 世共憲章の起草は、世共設立後に総会の役割を果たす世界民衆会議で行なわれるが、設立時点では世界連続革命が一巡完結していなくても、その時点における世界の独立国の過半数の民衆会議が参加した段階で、合意成立とする。

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近代革命の社会力学(連載第13回)

2019-09-04 | 〆近代革命の社会力学

二 17世紀英国革命

(7)王政復古から名誉革命へ  
 オリバー・クロムウェルの死後、護国卿の地位を世襲した子息のリチャードは若くして議員となり、一定の政治経験は積んでいたものの、内戦時に将校としての経験がなく、軍の支持基盤が弱いことが問題であった。  
 そこで、リチャードは議会を招集して自身の支持基盤を作ろうとしたが、軍と対立、結局、残部議会復活という戦略に出た軍の圧力により、わずか8か月で辞職を余儀なくされた。後任の護国卿は選出されず、こうして、共和国は指導者不在の状態となった。
 権力の空白が続く中、雌伏していた王党派が動き出し、反乱を起こすも、これを早期鎮圧した軍が議会を閉鎖して軍事政権を樹立した。この軍事政権はオリバー・クロムウェル配下の将校が主導していたが、広い支持は得られず、権力闘争に明け暮れていた。  
 そうした中、元王党派ながら革命派に寝返っていた日和見派の軍人ジョージ・マンクが大陸亡命中の王党派と連携し、王政復古のため挙兵した。その結果、軍事政権は崩壊、大陸亡命中のチャールズ2世(1世遺子)が招かれ、1660年、王政復古が正式に宣言された。  
 こうして、英国の共和革命の実験は11年で終焉したのであった。結局のところ、イングランド共和国は軍と議会とを分離することができず、また早い段階でより民衆的な基盤を持つ水平派のような勢力を排除してしまったことから、共和的な民主政体を確定することがないまま漂流し、崩壊したのである。  
 チャールズ2世の復活ステュアート朝では早速、旧革命派に対する反革命報復が行なわれた。もっとも、免責法によりチャールズ1世の処刑の関与した者以外の旧革命派は免責されたが、処刑に関与した者20名は死刑、さらにオリバー・クロムウェルは墓を暴かれ、遺体を「絞首刑」に処するという死後処罰が断行された。  
 こうした反革命反動にもかかわらず、復活したステュアート朝は革命前のそれとは異なっていた。チャールズ2世が政務より文芸や女性を愛したという個人的性格もあって、議会や後の首相の原型である第一大蔵卿の権限が強い立憲君主制の祖形が形成されていった。  
 しかし、治世晩期の4年間は議会を閉鎖し、無議会統治に陥るなど、再び専制化の兆しを見せ始めた。そのうえ、嫡子のないチャールズの後を継いだ王弟ジェームズ2世はカトリック信者にして、フランス流絶対王政を信奉する人物であった。  
 実際のところ、共和革命後の復活ステュアート朝に絶対王政を導入することはほぼ不可能な状況にあったが、カトリック復権のためにカトリック教徒重用、信仰自由宣言などの親カトリック政策措置を追求するジェームズと国教会派主導議会との対立は激化した。  
 このまま突き進めば、再び内戦となる恐れがあった。そこで、議会はオランダ共和国の世襲総督でジェームズの娘婿でもあったプロテスタント派のウィレム(ウィリアム3世)に白羽の矢を立て、ジェームズに代わる新たな国王として擁立する秘密作戦を計画、これをほぼ無血で実行したのが1688年の名誉革命であった。  
 これは「革命」というより、議会・国教会派勢力による実質的なクーデターであったが、40年前の清教徒革命と同様、議会が主体となって君主を追放した点では、清教徒革命とも連続した「17世紀英国革命」の一環ととらえることができる。  
 実際、ウィリアム3世が妻メアリー2世と共同即位した新体制の下では、新たな憲法文書として「権利の請願」が採択されたが、その内容はかつて共和国時代に幻と終わった統治章典を改善した内容が盛り込まれており、共和制こそ選択されなかったものの、立憲君主制の礎石として、現代まで維持された不文憲法典となった。  
 このようにして、「17世紀英国革命」は、革命→反革命→修正革命という段階を踏んで立憲君主制の創出という方向で収斂していくが、その過程では常に議会が革命的行動の主体として、革命的エネルギーの凝集点となったのである。

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近代革命の社会力学(連載第12回)

2019-09-03 | 〆近代革命の社会力学

二 17世紀英国革命 

(6)軍事的共和制への収斂  
 清教徒革命の過程では、独立派がまずは保守的な長老派を力で排除し、内戦の勝利と国王処刑を導いた後、今度は急進的な水平派を弾圧して、共和体制を確立することとなったのであるが、このような武断的な形で成立した共和国は軍事政権的な性格の強い軍事的共和制とならざるを得なかった。  
 議会が革命主体となったにもかかわらず、内戦の過程で勝利に貢献した新型軍が権力基盤となり、新型軍を率いた地主ジェントリー階級の議員将校が権力を掌握した。その中心人物が、オリバー・クロムウェルであった。  
 「イングランド共和国」と呼ばれ、英国史上でも唯一君主を持たなかったこの共和体制の時代は、二代11年という比較的短期のものであったが、三つの時期に分けて考えることができる。最初期は国王チャールズ1世処刑後、残部議会が共和制を宣言し、クロムウェルが護国卿に就任するまでの時期である。
 この時期は不安定な革命移行期であり、打倒されたステュアート王家の根拠地スコットランドやカトリック優勢のアイルランドは反革命派の拠点となっていた。実際、クロムウェルは自ら軍を率いて、アイルランド遠征を行ない、反革命派の処刑や土地没収を断行し、またスコットランド遠征により第三次内戦を戦う必要があった。  
 しかし、1653年までにはこうした近隣諸国の反革命活動を鎮圧することができた。さらに幸いしたのは、フランスやスペインといったまだ君主制の下にあった大陸諸国が有志連合による反革命干渉戦争を企てず、イングランド共和国を承認したことである。この点は、後のフランス革命やロシア革命との大きな相違点となった。  
 クロムウェルは国内の権力基盤を固めるため、すでに用済みとなった残部議会を解散し、軍の指名議員から成る新たな議会を設置したが、これは議会というよりは、軍を基盤とする軍事評議会に近いものであった。その内部でも急進派と中庸派が対立する中、中庸派がクロムウェルに権力を委譲、彼が護国卿に就任した。  
 こうして1653年以降、共和国の第二期が始まる。クロムウェルの護国卿(Lord Protector)という地位は元来、君主制の下では摂政に近い役割を担う後見職であったが、これを最高行政官職とせざるを得なかったのは、まだ大統領のような現代的共和制の最高官職が確立されていなかったからであった。  
 しかも、護国卿は終身職とされ、君主並みの強い権限を持った。しかし、クロムウェルは専制的独裁者となるつもりはなく、イングランド初の成文憲法となるはずだった統治章典を公布するも、議会の権限が制約されている点が問題視され、議会の承認を得られなかった。  
 失望したクロムウェルは議会を解散し、新たに護国卿直属の軍政官(Major-Generals)を通じた軍事独裁制へ移行したが、これは激しい反発を呼び、1956年に招集された新議会で廃止された。この議会では統治章典に代えて、「謙虚な請願と勧告」なる憲法文書が採択され、立憲君主制に近い政体に変更された。  
 クロムウェルは支持者らの勧めにもかかわらず、王を名乗ることは拒み、改めて護国卿となったが、1957年に成立したこの新体制に基づく共和国第三期は、共和制から君主制へ回帰していく革命後退期の幕開けとなった。しかも、クロムウェル自身、1658年、感染症のため急逝してしまうのであった。  
 ここでクロムウェルの親族以外から後任が選出されていれば、革命の再起動も可能だったかもしれないが、後継者がクロムウェルの嫡子リチャードとなったことで護国卿職は世襲化され、まさに君主制と重なってしまった。そのうえ、リチャードには父ほどのカリスマ性も手腕も備わっていなかった。

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近代革命の社会力学(連載第11回)

2019-09-02 | 〆近代革命の社会力学

二 17世紀英国革命

(5)国王処刑への力学  
 いわゆる清教徒革命の大きな特徴として、そのクライマックスにおいて君主たる国王が裁判にかけられ、処刑されたことがある。それまでの世界歴史上も、君主が暗殺される例はあったが、革命によって処刑されたのは初めてであり、以後の世界歴史上フランス革命やロシア革命で繰り返される重要な先例となった。
 一般に革命では旧体制の統治権者は政権を追われるが、処刑までされるかどうかは分かれる。処刑に至るかどうかの分かれ道となる要素は何かを確定するのは難しいが、統治権者が専制のゆえに民衆の憎悪を買っていたかどうかは大きな要素である。  
 清教徒革命当時のチャールズ1世は王権神授説を信奉し、議会軽視の専制的な姿勢で議会と決定的に対立したことが内戦を招いたのであった。当初、議会は「権利の請願」(1628年)や「大諫奏」(1641年)といった穏健な牽制手段でチャールズの政治姿勢を正そうと試みたが、効果はなかった。  
 その結果、議会自身が武装蜂起することになったわけであるが、当初議会で多数派を占めた長老派は議会軍に捕らわれた国王と和睦しようとしていた。しかし、これを台無しにしたのは、チャールズの「脱走」であった。  
 チャールズは軟禁状態にあった宮殿を脱走し、スコットランドのハミルトン公爵との間で秘密合意を結び、巻き返しを図った。ステュアート王家の故郷スコットランドから反撃しようとしたわけだが、これによっていったんは終結するかに見えた内戦がぶり返され、第二次内戦が勃発してしまう。  
 しかし、ハミルトン公が議会軍に敗れ、処刑されたことを機に、第二次内戦は短期で終結、チャールズは再び囚われの身となる。そうした中でも、なお長老派はチャールズとの和睦、君主制の維持を模索したが、これに反発した独立派がクーデター決起し、長老派を追放したのだった。  
 独立派としては、多大の犠牲を出した内戦の責任を国王に問うつもりであった。実際、内戦では8万人以上が戦死し、10万人以上は戦争関連死するという人的損失が生じており、チャールズの問責は民衆的にも支持があったと考えられる。  
 とはいえ、王権神授説によらずとも、国王を裁判にかけることは法的に困難であったが、長老派が追放され独立派が残留したいわゆる残部議会は、国王を裁くための特別法廷として高等法院(High Court of Justice )を設置し、チャールズを反逆罪で訴追した。
 1649年1月に開始された審理は、わずか1週間でチャールズに有罪・死刑を言い渡した。結論先取りの観は否めないが、裁判はウェストミンスター宮殿で公開され、法廷ではチャールズにも弁明の機会が与えられるなど、異例の国王裁判は、当時としてはそれなりにデュー・プロセスが保障されたものだった。  
 この点で、ほぼ形式的な即決裁判で国王夫妻を処刑した18世紀のフランス革命や、裁判さえなしに超法規的に皇帝一家全員を「処刑」(銃殺)した20世紀のロシア革命と比べても、比較的公正な国王裁判がなされたと言える。  
 近代に先行する清教徒革命が後の近代革命より「公正」だったというのは皮肉であるが、これも英国的な司法の伝統によるものかもしれない。ただ、国王処刑という劇的な結末は高くつき、後の王政復古に際して、今度は旧革命派が国王弑逆の罪で処刑されるという手痛い代償を払うことになる。

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「従米」と「制韓」の関係

2019-09-01 | 時評

近代以降の日韓関係を日本側から大きく見ると、明治維新後の「征韓」の時代から、その実現としての併合・植民地化の時代、戦後・脱植民地化後の経済援助と日本資本進出の互恵関係で結ばれた「親韓」の時代を経て、現在は、「制韓」の時代に入ったと言えそうである。

昨年8月、韓国大法院(最高裁)が元徴用工に対する日本企業の賠償責任を認める判決を下したことへの事実上の報復措置として、先月、日本政府が韓国を貿易上の優遇対象国から除外する経済制裁を課したのは、「制韓」政策の一つのハイライトである。

今回は、韓国政府ではなく、韓国司法の判断であり、しかも原告の元徴用工と企業間の民事訴訟への判決である。民事訴訟の結果に政府が口を挟むのは不当な民事介入であり、特定の民間企業の立場を擁護しようとしている点では中立性をも損ねている。

十歩譲ってその点に目をつぶるとしても、自らが訴訟当事者ではない外国の司法判断にまで日本政府が異議を挟むのは、まさに相手国の司法府まで制御したい日本側の「制韓」の意志の表れである。

「征韓」と「制韓」は同音異義語であるが、前者が文字通り韓国を征服することであるのに対し、後者は韓国を征服しないまでも、日本側優位に制御することを意味している。この背景には、韓国が日本の援助対象国を脱し、自立的な新興国、さらには新興先進国として成長し、従来は封印していた慰安婦や徴用工の問題を正面から主張し、清算を求めるようになったことへの日本側の反発がある。

これは、まるで成長して生意気なことを言うようになった子どもに当惑し、何とか言うことをきかせようと必死な親の姿と似ている。しかし、やはり相手の成長を正面から見据える必要がある。それができないのは、日本自身が対米関係では従属の道を選択しているからである。

アメリカに頭が上がらない分、韓国には強気な対応をしたい。韓国もまた、軍事的な面では日本以上にアメリカの従属下にある者同士だからである。両国の盟主であるアメリカは両国間を仲裁する立場だったが、「アメリカ・ファースト」のトランプ政権はそうした外部のことに関心を持たないので、仲裁役も不在となっている。

しかし、韓国側も政府レベルで日本に賠償を求めているのではなく、個人レベルでの民事賠償請求であって、なおかつ、「親韓」の時代には、日本政府自身が1965年日韓基本条約上、個人の賠償請求権は否定されないと解釈していた以上、それを今になって翻すことは、信義にもとる。

他方、韓国側も経済制裁への対抗措置として、先月末、日韓両国間で軍事機密情報を共同で保護する主旨の日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を通告してくるなど、反発を強めているが、このような報復合戦が生産的な結果を産むとは思えない。

現在、アメリカが仲裁役として機能しない以上は、まず日本側が「制韓論」を取り下げて、成長し新興先進国となった韓国との対等的な関係性を改めて構築するほかはない。さしあたりは、政府が当事者とならない民事訴訟にまで介入するような態度を取らないことである。

 

[追記]
2021年1月8日、韓国のソウル中央地裁は、韓国人の元慰安婦が日本政府を相手に損害賠償を求めていた裁判で、原告側の訴えを全面的に認め、日本政府に1人当たり1億ウォン(約950万円)を賠償するよう命じる判決を言い渡した。
この判決は、徴用工判決とは異なり、日本政府を当事者とする裁判の判決だけに、国家が外国の民事裁判において被告とされることを免除する「主権免除」との関連で、法的に機微な問題を含んでいることはたしかである。
しかし、あくまでも下級審の地裁判決である。そのうえ、日本も批准している国連裁判権免除条約では、身体の傷害を引き起こした国家の活動に関しては主権免除を認めないとする条項が定められている。いたずらに反発するのではなく、控訴したうえで上級審の司法判断を待つべきものである。

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