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近代革命の社会力学(連載第12回)

2019-09-03 | 〆近代革命の社会力学

二 17世紀英国革命 

(6)軍事的共和制への収斂  
 清教徒革命の過程では、独立派がまずは保守的な長老派を力で排除し、内戦の勝利と国王処刑を導いた後、今度は急進的な水平派を弾圧して、共和体制を確立することとなったのであるが、このような武断的な形で成立した共和国は軍事政権的な性格の強い軍事的共和制とならざるを得なかった。  
 議会が革命主体となったにもかかわらず、内戦の過程で勝利に貢献した新型軍が権力基盤となり、新型軍を率いた地主ジェントリー階級の議員将校が権力を掌握した。その中心人物が、オリバー・クロムウェルであった。  
 「イングランド共和国」と呼ばれ、英国史上でも唯一君主を持たなかったこの共和体制の時代は、二代11年という比較的短期のものであったが、三つの時期に分けて考えることができる。最初期は国王チャールズ1世処刑後、残部議会が共和制を宣言し、クロムウェルが護国卿に就任するまでの時期である。
 この時期は不安定な革命移行期であり、打倒されたステュアート王家の根拠地スコットランドやカトリック優勢のアイルランドは反革命派の拠点となっていた。実際、クロムウェルは自ら軍を率いて、アイルランド遠征を行ない、反革命派の処刑や土地没収を断行し、またスコットランド遠征により第三次内戦を戦う必要があった。  
 しかし、1653年までにはこうした近隣諸国の反革命活動を鎮圧することができた。さらに幸いしたのは、フランスやスペインといったまだ君主制の下にあった大陸諸国が有志連合による反革命干渉戦争を企てず、イングランド共和国を承認したことである。この点は、後のフランス革命やロシア革命との大きな相違点となった。  
 クロムウェルは国内の権力基盤を固めるため、すでに用済みとなった残部議会を解散し、軍の指名議員から成る新たな議会を設置したが、これは議会というよりは、軍を基盤とする軍事評議会に近いものであった。その内部でも急進派と中庸派が対立する中、中庸派がクロムウェルに権力を委譲、彼が護国卿に就任した。  
 こうして1653年以降、共和国の第二期が始まる。クロムウェルの護国卿(Lord Protector)という地位は元来、君主制の下では摂政に近い役割を担う後見職であったが、これを最高行政官職とせざるを得なかったのは、まだ大統領のような現代的共和制の最高官職が確立されていなかったからであった。  
 しかも、護国卿は終身職とされ、君主並みの強い権限を持った。しかし、クロムウェルは専制的独裁者となるつもりはなく、イングランド初の成文憲法となるはずだった統治章典を公布するも、議会の権限が制約されている点が問題視され、議会の承認を得られなかった。  
 失望したクロムウェルは議会を解散し、新たに護国卿直属の軍政官(Major-Generals)を通じた軍事独裁制へ移行したが、これは激しい反発を呼び、1956年に招集された新議会で廃止された。この議会では統治章典に代えて、「謙虚な請願と勧告」なる憲法文書が採択され、立憲君主制に近い政体に変更された。  
 クロムウェルは支持者らの勧めにもかかわらず、王を名乗ることは拒み、改めて護国卿となったが、1957年に成立したこの新体制に基づく共和国第三期は、共和制から君主制へ回帰していく革命後退期の幕開けとなった。しかも、クロムウェル自身、1658年、感染症のため急逝してしまうのであった。  
 ここでクロムウェルの親族以外から後任が選出されていれば、革命の再起動も可能だったかもしれないが、後継者がクロムウェルの嫡子リチャードとなったことで護国卿職は世襲化され、まさに君主制と重なってしまった。そのうえ、リチャードには父ほどのカリスマ性も手腕も備わっていなかった。

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