ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第19回)

2019-09-18 | 〆近代革命の社会力学

三 アメリカ独立革命

(6)革命的立憲体制の持続  
 革命のプロセスでは、革命成就後、旧体制為政者・支持者に対する処刑に象徴される報復的処断がなされることがしばしばであるが、アメリカ独立=革命においては、反独立・親英王党派に対するそうした処断がほとんどなされなかった。
 旧体制為政者とは、この場合、「独立宣言」でも糾弾された英国王ジョージ3世であったが、海を越えた英国本国にいるジョージ3世を捕らえて処刑するということは無理であった。そこで、報復処断の対象は、さしあたりアメリカ各植民地の王党派人士ということになる。 
 実際のところ、独立戦争中、王党派に対しては各植民地独立派が財産没収などの報復措置を採っていたが、王党派の多くが英領カナダへ亡命移住していたため、報復的処断の余地があまりなかったことが要因であった。そのため、アメリカ独立=革命では多くの革命で見られたような恐怖政治は出現しなかった。  
 もう一つ、革命成就後にしばしば見られる内紛に関しても、アメリカ独立=革命はこれを免れている。その点、アメリカ独立=革命は一つの党派ではなく、13の植民地の合同という不安定な形で遂行されたにもかかわらず、分裂を生じなかったことは奇跡的と言える。これは、共和主義の思想が各植民地の間で共有されていたことによるものであろう。
 とはいえ、当初の連合規約(1781年発効)では中央政府の権限が大幅に制約され、いまだ統一的な連邦としての体を成しておらず、最終的に連邦としての実態を伴う合衆国憲法が制定されるまでには6年ほどを要した。
 さらに、建国後間もなく、合衆国=連邦の権限を優先する集権主義的な連邦党と、今や植民地から連邦構成主体となった各州の権限を重視する分権主義の民主共和党という対立軸が生じた。言わば、遅効的に内紛が発現してきたとも言えるであろう。
 この連邦主義と分権主義の対立関係は政治思想上の対立軸として今日まで形を代えて続いているが、それによって合衆国が完全に分裂崩壊するには至らなかった。その秘訣として、合衆国憲法が極めて簡素な条約憲法として制定されたことがある。  
 近代の革命政権は多くの場合、革命後の体制を固めるため、新たな憲法または憲法に匹敵する基本法を策定するが、その内容が細目的であると、内紛の原因となりやすい。しかし、合衆国憲法はごく簡素な規定のみを置き、必要に応じて後から修正・追加条項で補充していくという実際的な方式を採ったので、深刻な内紛を抑止できたのであった。  
 このような簡素な条約憲法は、多くの修正条項を伴いつつ、現在まで原形をとどめた形で維持されている。その意味では、アメリカでは合衆国憲法を通じて今なお革命体制が持続していると評することもできる。しかし、そのような200年以上も持続する革命的立憲体制は、反アメリカ的=反革命的とみなされる社会経済政策の実現を阻む保守的な装置と化している面もある。  
 一方で、憲法に先立つ「独立宣言」には、人民の権利を踏みにじる専制的な政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ること、すなわち革命行動が人民の権利であり義務であると明記されており、アメリカ国民が常に革命権を保持していることを宣言している。  
 加えて、憲法修正第2条は民兵と人民の武装の権利を定めており、実はアメリカ合衆国民はいつでも民兵として再び革命によって新体制を構築できる構えとなっている。しばしば論議の的となる武装の権利は、無防備な市民に銃口を向ける権利ではなく、専制政府を打倒する革命権の物理的手段となるはずのものである。  
 こうして、アメリカ独立=革命は、200年を超える持続性と同時に、恒常的な革命の可能性が保障される形で、保守性と革新性が並存した独特の力学をもって現在もなお進行中であるとみなすことができるのである。

コメント