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近代革命の社会力学(連載第15回)

2019-09-10 | 〆近代革命の社会力学

三 アメリカ独立革命

(2)独立前北アメリカ植民地と本国  
 独立前の北アメリカ植民地は、初期の入植以来、自治的に運営されていたが、その代償として、英国議会に正規の代表議員を送る権利を与えられず、議決権のないオブザーバー議員を送ることができたのみであった。 しかし、法的な建前としてはあくまでも英国領土であるから、植民地人には本国への納税義務が課せられていた。といっても、当初は輸出入品への関税に限られていた。
 そのような微妙な体制で本国との関係は維持されていたが、七年戦争の頃から風向きが変わり始まる。七年戦争は西欧列強の国益が複雑に絡む国際戦争であったが、北アメリカ戦線では植民地を分け合っていた英国とフランスの間で戦争となったところ、英国が勝利し、北アメリカ植民地を死守したのであった。しかし、英国はそのために要した費用を植民地への課税強化で補填しようとした。  
 特に1765年の印紙税は北アメリカ植民地に課せられる初の直接税であったばかりでなく、その内容も新聞やパンフレットから、トランプの札に至るまで印紙貼付を義務づけるという悪法であったため、強い怒りを巻き起こした。  
 その怒りは一時的なものではおさまらず、「自由の息子たち」を名乗る反英秘密結社が各地に組織され、印紙売買を力で妨害するなどの直接行動に出た。さらに、9の植民地の代表が集まり、印紙法について議論する「印紙法会議」が開催された。  
 「代表なくして課税なし」という議会主義の原点を確認し、植民地への課税権は植民地議会のみが有することを共同宣言したこの会議は、まだ独立を目指すものではなかったが、植民地が最初に共闘した画期点となるものであった。  
 しかし、本国政府・議会はこうした植民地人の不満には無頓着であり、それどころか、印紙法会議の翌年1766年には、英国議会に植民地法を制定する絶対の権利があることを対抗宣言したうえ、翌1767年、追い打ちをかけるように、日用品にも広く課税する法律を制定した。  
 この法律は時の英国財務大臣チャールズ・タウンゼントが主導したいわゆる「タウンゼンド諸法」の一環であり、英本国の植民地への課税権を確立することを狙ったものであった。これに対して、植民地人は英国製品のボイコットで応じたため、諸法は英国議会で大幅に修正・撤廃され、最終的には茶税のみとなった 。
 この間、1770年のボストンではタウンゼンド法への抗議活動に対し、英国軍が発砲する事件が発生した。犠牲者は5人であったが(うち一人は黒人)、この事件は「ボストン虐殺事件」として大々的に伝えられ、英国官憲の横暴さを示す事件として大いに宣伝されたのである。
 さらに、1773年には英国が経営難の東インド会社を救済するため、茶の貿易独占を狙った茶法に抗議して、「自由の息子たち」のメンバーがボストン停泊中の英国船から積荷の茶を投棄するという事件が発生した。
 参加者が先住民の服装で行なうというユニークなこの抗議行動は「ボストン茶会事件」として知られているが、この事件を機に、英国政府は植民地の自治権を制限する対抗立法により抑圧を強化する措置を講じた。
 名誉革命を通過したこの時代の英国は、ドイツから招聘したハノーバー朝の下、議院内閣制が発達し始めていたから、植民地側からは「耐え難き諸法」と呼ばれた一連の悪法を主導していたのは英国王以上に、時の首相フレデリック・ノースであったが、ノース政権が北アメリカ植民地に対して抑圧的な政策を強化したことは、逆効果的に北アメリカ植民地の革命的な団結を促進したと言える。

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