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近代革命の社会力学(連載第22回)

2019-09-25 | 〆近代革命の社会力学

四 18世紀フランス革命

(3)民衆蜂起と革命の開始  
 18世紀フランス革命は、民衆が武器を取って決起する民衆蜂起型革命の代表例と言えるが、そのような民衆革命に進展するに当たっては、各々「バスティーユ監獄占拠」「ベルサイユ行進」として銘記されている二弾にわたる民衆蜂起のプロセスがあった。
 第一弾の「バスティーユ監獄占拠」は、1789年7月14日、当時国王軍の弾薬庫として使用されていたバスティーユ監獄に民衆が押しかけ、弾薬の引渡しを要求した末に、監獄を占拠した事件である。  
 この事件に至った契機は、ルイ16世が財務長官ジャック・ネッケルを罷免したことにあった。銀行家のネッケルは革命前から財政再建に取り組んでいたが、貴族の免税特権を廃止することに力を注いだため、貴族層の反発を買っており、かれらの意向を汲んだ王妃マリ‐アントワネットらの圧力で罷免に追い込まれたのであった。  
 この反改革人事が第三身分と民衆の怒りを呼び起こし、パリ市内では散発的な騒乱が発生した。警戒を強める国王軍に対抗するため、パリでは臨時市政委員会が設置され、独自の民兵が組織された。しかし、国王軍との武力の非対称は歴然としていため、市政委員会は国王軍から弾薬を回収することを狙ったのである。
 当初は平和裏の交渉が行なわれたが、当局側が弾薬の引渡しを拒否したことに苛立った群衆がついにバスティーユ監獄の占拠に踏み切る。これに成功し、勢いづいた群衆は、監獄の司令官ベルナール‐ルネ・ド・ローネーら数人の要人を超法規的に処刑している。このような粗暴なやり方は、後の恐怖政治への予兆と言えたかもしれない。  
 このバスティーユ監獄占拠は、革命の本格的な開始の合図となった。翌月、制憲国民議会は封建的貴族特権の廃止と人権宣言を発した。国王もパリの革命市政と民兵を正式に承認せざるを得なくなった。こうして、民兵は正式に国民衛兵に昇格し、初代司令官にはラファイエットが任命された。士官が選挙で選出された点を除けば、徴兵による国民衛兵は近代的な国軍の原型となった。  
 この時点で革命をリードしていたのは、まさにラファイエットら革新的貴族グループであり、かれらは英国で確立されつつあった立憲君主制の支持者であった。しかし、ルイ16世とその支持派は立憲君主制にすら拒否的で、人権宣言も承認しようとせず、緊張関係が続いた。  
 そうした中、10月5日、折からの食料品価格の高騰に抗議する女性グループが決起し、国王の居城であるベルサイユ宮殿に向けて行進を開始する。これをバスティーユ占拠の功労者の一人でもあるマイヤールに先導された男性たちが追い、さらには創設されたばかりの国民衛兵も加わって、大規模なデモ隊となった。  
 趣味の狩猟から戻ったルイ16世は圧力に押されてパンの配給を表明するが、デモ隊の勢いは止められず、翌日には宮殿を占領、国王を拘束するに至った。群衆は国王一家を連行して別邸のテュイルリー宮殿に軟禁した。  
 ここに至り、ルイ16世はようやく人権宣言を承認したのである。このような重大な帰結を導いた民衆蜂起第二弾の主役となったのは、生活感覚を持った平民の女性たちであった。革命に女性が主体的に関わったのも、18世紀フランス革命が初と言えるであろう。

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