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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産論(連載第52回)

2019-07-01 | 〆共産論[増訂版]

第9章 非武装革命のプロセス

(2)対抗権力を作り出す

◇未然革命
 革命のプロセスの中では、旧体制瓦解・革命体制樹立のクライマックスが突如として現れるのではなく、そこへ至るまでの未然革命のような段階がある。つまり、まだ現存している支配体制と同時に革命体制の骨組みのような未完の体制とが並存・拮抗する状況である。これを「対抗権力状況」と呼ぶ。
 こうした状況は、まず世界民衆会議において世界共同体憲章(案)を制定し、世界共同体の暫定的な樹立を宣言することから、正式に開始される。これを受けて、各国各圏域で民衆会議の結成・展開が完了すれば、その段階で原初の対抗権力が作り出される。なぜなら、この民衆会議自体が革命後にはそのまま公式の統治機構へ移行することを予定しているからである。
 しかし、こうした対抗権力状況を生じさせるには、民衆会議の民主的正統性を広く人々に認知してもらい、革命の意義と集団的不投票への参加を呼びかけていくうねりを作り出さねばならない。それがまさしく難儀だということは、率直に認めざるを得ない。
 まず、民衆会議こそ真の多数派を代表する政治機関―言わば「真の有権者団」―であるということを認知させるには、潜在的共感者を含めれば民衆会議こそが多数派を代表していると主張できるだけの数的優位性を築けるかどうかが鍵となる。
 さらに未然革命段階における民衆会議の活動実績として重要なのは、対抗的立法活動である。特に、革命成就後の最高規範となる憲章の制定である。加えて、貨幣経済によらない環境持続的な計画経済の制度設計やその他の主要な基本法も未然革命の段階で用意しておく必要がある。

◇集団的不投票の実行
 しかし、何と言っても技術的に最も困難を伴うのは、非武装革命の中心を成す集団的不投票の組織化である。前述したように、公職選挙における当選に必要な最低得票数は法律上意図的に極めて低く設定されているため、棄権率が若干低下した程度では、選挙の法的効力にはいささかも影響を及ぼさない。
 そこで、選挙が法的に無効となるレベルまで棄権を組織化しなければならないわけだが、そんなことが果たして可能かどうか―。これは、世界史的にも前例のない未知の挑戦となる。もしも不投票という行動に躊躇を感じるなら、もう一度「選挙信仰からの覚醒」を参照願うが、ここでもう一つダメ押しをしておこう。
 選挙過程でインターネットが決定的な役割を果たすようになった近年の選挙では、虚偽を含むネット上の宣伝で大衆を巧みに操作し、扇動した者が当選する確率が飛躍的に増大しており、結果として、選挙を通じて権威主義的統治者や独裁者が次々と誕生している。今や、選挙は民主主義の手段どころか、独裁の有効な手段を提供しているのだ。
 あなたの一票が―たとえ、危険な候補者に反対票を投じたとしても、有効投票率に算入されることにより―、あなたの首を絞める独裁者の誕生を手助けするかもしれない。こう考えれば、不投票の決心が固まらないだろうか。
 それでも、すべての公職選挙を完全に無効としてしまうような集団的不投票を実行することは理論上可能であっても、実際には至難かもしれない。しかし、極端に投票率の低い公職選挙は法的に有効であっても政治的には正統性を失う。  
 そのような状況では、街頭デモのような民衆行動の後押しも受けて民衆会議が革命を成功に導く可能性も開かれてくるであろう。従って、前章でも論じたように、集団的不投票という革命の方法は純粋にそれだけで成功するという性質のものではなく、各国の時と状況によっては民衆蜂起のような手法との組み合わせとなることはあり得よう。
 そうした革命的事態を回避するため、既成国家が義務投票制を導入し、あるいは導入済みの義務投票制の罰則を強化してくる可能性がある。この場合は、処罰を恐れず良心に従い棄権を実行する不服従運動を組織しなければならない。
 棄権者が多ければ多いほど、警察等による棄権の取り締まりは事実上不可能となるので、棄権者の数を増やしていくための情宣活動が不可欠である。

◇政治的権利としての「棄権」
 その際、壁となるのは、「棄権」を有権者の任務放棄とみなす思想である。たしかに、世界中で通説となった西洋ブルジョワ政治学の通念によれば、投票は有権者の神聖なる権利であって、我々の清き一票を通じて希望の未来が切り拓かれるのであるからして、棄権は未来を閉ざす愚行であり、有権者としての任務放棄であるとされる。
 しかし、「棄権」にも単に政治的無関心からする「懈怠的棄権」と、革命を目指すより積極的な意思表示としてする「革命的棄権」とを区別することができる。新しい非武装革命の方法としての棄権とは「懈怠的棄権」ではなくして、「革命的棄権」であることは言うまでもない。
 革命前民衆会議はこのような政治的権利としての棄権=革命的棄権という新たな思想を全世界に効果的に広めていく必要があり、これに成功しない限り、非武装革命も実現することはない。

◇対抗権力状況の確定
 ともあれ、毎回の公職選挙で棄権率が増大し、既成議会・政府の正統性に揺らぎが生じていく中、いよいよ露わになった資本主義の限界に対処する能力を失った既成議会・政府に見切りをつけ、民衆会議こそが我々の真の政治的代表機関だとの意識が広く高まったところで、既成議会・政府に対する全般的不信任の行動として、議会・政府を不成立とするトドメの集団的不投票が決行される―。
 これで革命完了となるのではなく、これで如上の未然革命としての対抗権力状況が確定し、ようやく革命のスタート地点に立てるのである。  
 多くの諸国では、選挙後も何らかの事情で新政権が成立しない間は前政権を存続させたり、政権代行者を立てるなどして権力の空白を作り出さないよう予め憲法上の用意がなされているため、仮に集団的不投票が功を奏して新政権が成立しなくとも、旧体制は法的に居座ることができる仕組みが組まれている。  
 ほとんどの場合、この残存旧体制は民衆会議に対する政権の移譲を拒み、革命体制の樹立を全力で阻止しにかかるであろう、と予測しておいてよい。そこで、さらにその先のプロセスを想定しなければならない。

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共産論(連載第51回)

2019-06-25 | 〆共産論[増訂版]

第9章 非武装革命のプロセス

共産主義社会は民衆による非武装革命によって実現することができる。その有力な手段は集団的不投票であった。ではその具体的なプロセスとは?


(1)革命のタイミングを計る:Figure out the timing of the revolution.

◇社会的苦痛の持続
 本章では、前章で論じたもう一つの革命の方法、すなわち集団的不投票による革命を中心として、あり得る革命のモデルとなるプロセスを考えてみたい。その際、まず最初の関門は革命のタイミングを計るということである。
 革命は、クーデターのように日付を定めて決行するものではない一方、ある日突然、大地震のように勃発するものでもない。革命には機が熟するタイミングというものがある。中でも集団的不投票による革命は、自然発生的なデモのようなものを導火線とすることが多い民衆蜂起型革命とは違って、タイミングの把握に微妙さがある。では、そのタイミングとは?
 まずは、資本主義の限界性が多くの人々にとってはっきりと認識されることが必要となる。もはやこれ以上資本主義の下では暮らしていけないのではないかという不安が現実的な切迫感を帯びてくることである。
 ただし、突発的な大恐慌的事態が直ちに革命につながることはない。歴史上も、1929年に始まった「大恐慌」は、その震源地・米国はもちろん、欧州、日本などの波及諸国でも革命を引き起こすには至らなかった。
 思うに、突発的な経済危機の渦中では大衆も一時的な窮乏に耐えることができ、嵐が過ぎれば日はまた昇るという心境になるので、革命によって資本主義を終わらせようという意志は芽生えないのである。アメリカ独立宣言でも言われているように、「人類は、慣れ親しんでいる形態を廃止することによって自らの状況を正すよりも、弊害が耐えられるものである限りは、耐えようとする傾向がある」のだ。
 そうすると、革命のタイミングとは耐え難い痛みの持続という状況が定在化した時ということになるだろう。この資本主義的疼痛とでも名づけられるべき社会的苦痛とは、具体的に言えば環境危機の深刻化による食住全般の不安に加え、雇用不安・年金不安に伴う生活不安の恒常化、人間の社会性喪失の進行による地域コミュニティーの解体や家庭崩壊、それらを背景とする犯罪の増加といった状況が慢性化することである。
 一方で、既成議会政治(広くは選挙政治全般)がそうした危機の慢性化に対して何ら有効適切な対応策を取ることができず、無策のまま推移していくことに対して、人々の忍耐が限界に達する。このような状況がほぼ確定した時こそ、革命の始まりの合図だと言えよう。

◇晩期資本主義の時代
 それでは、革命の始まりはいったいいつ頃のことになるのであろうか。その点、現在進行・拡大中の「グローバル資本主義」は、ある一国での経済・財政危機が全世界的に波及していく「津波経済」の様相を呈しているため、一つの危機―異常気象や大災害、伝染病といった自然現象による経済活動の停滞も計算に入れておく必要がある―によって、全世界的な景気後退局面を惹起する。
 また、しばらく好景気・成長局面に転じたとしても、資本企業は不測事態に備え、これまで以上に人件費節約に努めるから(予防的搾取)、「(安定)雇用なき景気回復/経済成長」となる可能性は高い。そうなると「好況の中の生活苦」という逆説的現象もごく通常のこととなる。
 このように、「グローバル資本主義」は世界経済のシステムを不安定化させ、世界各国それぞれの仕方で資本主義の限界を強く露呈させていくだろう。そうとらえるなら、すでに資本主義は先ほど描写したような持続的苦痛を伴う晩期の時代―終末期とまでは言えないとしても―に入っていると診断することも許されるであろう。

◇民衆会議の結成機運
 そうすると、前章で提起した革命運動組織としての民衆会議の立ち上げの機運も到来しつつあると言えよう。その組織の基本的なあり方は前章で述べたので繰り返さない。
 ここで改めて総括しておきたいのは、21世紀(以降)の新しい共産主義革命は、世界民衆会議の結成に始まり、各国レベルの民衆会議による革命が一巡し、世界共同体の創設をもって終わる世界連続革命であるということである。そのプロセスの詳細をさらに詰めていくことが本章の主題となる。

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共産論(連載第50回)

2019-06-24 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

(4)まずは意識革命から

◇「幸福感」の錯覚
 今日、革命の前に立ちはだかるものがあるとすれば、それは警察や軍である前に、大衆の、我々自身の意識である。すなわち、前に引いたマルクスの言葉どおり、資本主義の発達に伴い、労働者階級を含めた資本主義諸国の大衆が資本主義を「自明の自然法則」として受け入れていることである。
 マルクスはその要因を「教育や伝統、慣習」の作用に求めたのであるが、現代ではそればかりでなく、より積極的な資本主義の文化戦略が強力な効果を発揮していると考えられる。
 この点でも、マス・メディアの文化帝国の役割は大きい。資本主義諸国のマス・メディアは日々、資本主義を自明のシステムとして人々に吹き込み、「資本主義以外に道なし」という教説(いわゆる「イデオロギーの終焉論」)を広めているのだ。
 しかし、それ以上に強力なのは消費文化である。これは、第1章でも指摘したように、資本主義が旧ソ連に代表される集産主義に勝利したフィールドでもあり、資本主義の十八番である。豊かな消費文化は、大衆を革命より買物にいざなう。我々はとりどりの商品に囲まれて幸せだと感じ、もはや自らが疎外されてはいないと信じ込むのだ。結果、労働者階級からは階級意識もかき消されていく・・・・。
 資本主義の文化戦略によって作出されたこうした社会心理的な「幸福感」の錯覚―フランスのマルクス主義社会学者アンリ・ルフェーブルの言う「一般化された疎外」―こそ、「労働者階級」というくくり方を事実上無効化してしまっている主観的な要因でもある。
 革命を成就させるには、まずこのような錯覚を逃れ出るための意識革命から始める必要がある(買物より革命!)。ここで、「消費も労働と並ぶ資本による搾取だ」という第3章でも見た命題が再び想起される。消費は言葉をひっくり返せば費消である。つまり我々の財布の中身が資本によって日々生き血のように吸われていることを意味しているのだ。

◇「老人革命」の可能性
 意識革命ということに関連して、発達した資本主義諸国で現在進行中の高齢化は革命にとってマイナス要因とならないのだろうかという問題がある。
 たしかに、革命とは一般に青壮年の政治行動であって、歴史上の革命家たちは皆若かった―少なくとも革命当時は―。加齢に伴う精神の硬直化は政治的には保守化と結びつきやすい。これは高齢化の進む発達した資本主義諸国で革命運動が退潮し、保守勢力が伸張してきている要因の一つと考えられる。
 しかし、意識の保守化は昨今、決して高年層だけの現象ではない。否、むしろかつて急進的な労働運動や革命運動をくぐり抜けた経験を持つ高年層よりも、そうした運動から完全に隔離され、政治的に漂白されてしまっている青壮年層の方が現実への順応性が高いとさえ言えるほどである。
 しかし、雇用不安・年金不安の高まりは現青壮年世代の老後を過酷なものにするであろう。人生やり直しは困難な一方、福祉財源は枯渇し、生活不安は極点に達する。現青壮年世代が高齢世代に達する頃には、おそらく生活苦の只中で意識の覚醒が進むのではないかと予測させる相応の理由がある。その先に薄っすらと見えてくるのは、前例のない「老人革命」の可能性である。
 従来は、若き日の革命的意識も年齢を重ね、現存社会へ適応・統合されていくにつれて弛緩し、ついに過去の革命的意識を全否定するまでに後退していくという保守的老化パターンが一般的に見られたが、これからは、若き日の弛緩した順応的意識が年齢を重ね、現存社会から脱落していくにつれて先鋭化し、ついに革命的意識に到達する急進的老化パターンが一般化するかもしれない。
 そうした意味で、高齢化の進行は革命にとってマイナス要因とは断定できず、資本主義の限界性が将来の高度高齢社会を直撃する状況の中では、むしろプラス要因ですらあり得ると考えられるのではないだろうか。しかも、集団的不投票による「在宅革命」の方法なら足腰の弱った老人でも簡単に実践できる。

◇文化変容戦略
 それにしても、この意識革命をどこから、どのようにして始めたらよいのだろうか。意識革命の第一歩は我々が資本主義の限界性をどれだけ深く意識することができるかにかかっている。
 この資本主義の限界性とは、第1章で論じたように、環境的持続性、技術の総革新、生活の安定性、人間の社会性の四つの領野における危機―すなわち「地球が持たない」「技術革新が停滞する」「生活不安が高まる」「人間性が劣化する」―を本質的に解決できないことにあった。
 ただ、我々はそんなことを抽象的に説教されただけでは容易に説得されない。そこで、こんな場合にこそ、文学や演劇、映画等の創造力が結集されなければならない。資本主義の限界性の問題に深く切り込むような創作は凡百の説教よりも効果的であるはずだからである。
 実際、かつてのプロレタリア文学やブレヒトの叙事的演劇、チャップリンの喜劇映画などにはそのような効力が備わっていたと思われるのだが、それらの継承者はいつしか途絶えてしまったように見える。ここでもまた、あの商品価値法則とそれに基づく市場の検閲という問題が立ちはだかっている。今日、文学、演劇、映画も商品価値法則に絡め取られており、創作家たちも小説、ドラマ、映画という名の商品のメーカーと化す傾向が著しいのが現実である。
 そこで、またしてもインターネット・コモンズの活用が助けとなるかもしれない。民衆会議運動としても、音楽なども含めた種々の反資本主義的創作活動を後援していくべきであろう。具体的には、民衆会議の公式ウェブサイト上で作品紹介の機会を提供したり、可能であれば民衆会議自身がインターネットテレビ/ラジオ局を保有して作品発表の場を提供したりすることが考えられる。
 また、以上のような伝統的創作表現手段に加えて、漫画やアニメといった現代的表現手段もとっつきやすさという点で利点があり、活用が検討される。このようにして文化的な領域に変化を起こし、意識革命を促進する戦略を「文化変容戦略」と呼ぶことができる。

◇有機的文化人
 そうした文化変容戦略の最前線を担う文化人を、イタリアのマルクス主義思想家アントニオ・グラムシの用語「有機的知識人」を拡張して「有機的文化人」と規定してもよいであろう。
 この「有機的文化人」は、グラムシの「有機的知識人」がしばしば誤解されたように、「党(共産党)の御用文化人」ではなく、民衆の中から出て民衆と有機的なつながりを保ちながら、自由な創作活動を通じて意識革命を促進する役割を担う者を指す。
 ちなみに、チャップリンはこのような意味での「有機的文化人」に直接あてはまる人ではなかったとしても、あの鋭い批判力を伴った風刺的な笑いの才覚は、商業的な“お笑い”とは全く異質の革命的効力を潜在的に備えていたように思われる。文化変容戦略にあっても、チャップリン風の娯楽性を兼ね備えた高質の批判的笑いの力は大いに有効ではないかと考えられる。

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共産論(連載第49回)

2019-06-19 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

(3)共産党とは別様に(続)

◇しなやかな結集体
 革命前民衆会議は中央指導部を持たない分散的なネットワーク型組織であると述べたが、このようなネットワーク型組織はえてしてメンバーシップが緩やかになりすぎ、安易なサークル活動化をきたしやすい。
 そこで、革命前民衆会議のメンバーシップはいくぶん厳正に編成し、革命前民衆会議の規約となる「民衆会議盟約」の全条項に逐条同意した人に限り(一括同意や部分同意は不可)、加盟を認める。盟約員は毎年一回盟約所定の下限金額以上の運営費を納入する義務を負う。
 中央連絡委員のほか、ローカルな各圏域民衆会議連絡機関の委員は盟約員の中から―ローカルなレベルの民衆会議の場合は管内の住民であることを要する―二年程度の任期をもって抽選で選出される。  
 このように組織内の役職は抽選によるローテーション制とすることにより、共産党組織のように指導部メンバーが固定化され、権威主義的な党内官僚制が形成されていくのを防止できるのである。  
 なお、民衆会議総会に出席する権利を有する「総会代議員」は地方圏(または準領域圏)及び地域圏民衆会議の連絡委員の中から互選するが、それ以外に所定員数の一般盟約員も先着順で総会参加者となることができる。  
 こうした核となる盟約員の数はある程度限られるであろうが、政党の党員獲得のようないわゆるオルグ活動は展開しない。その代わりに、専従員によるインターネットを活用した触発活動を展開し、外部の自発的な共感者の拡散に注力する。  
 民衆会議のメンバーシップ及び組織のあり方は決してサークル活動的ではないが、一方で共産党的な「鉄の団結」でもなく、限定された盟約員を核としつつ、外延部を成す多数の自発的共感者で構成され、アメーバ状に伸縮する組織―言わば「しなやかな結集体」と表現できるようなものとなるであろう。

◇赤と緑の融合  
 革命前民衆会議が共産党と理念的な面で異なるのは、エコロジズム(生態系保全主義)を内在化することである。このことは第2章で見た「持続可能的計画経済」という革命後に施行される新たな計画経済の手法にも現れていた。  
 その点、ソ連邦解体以降、地球環境問題への関心がかつてなく高まったことに対応して、「緑の党」のようなエコロジズム政党が欧州を中心に台頭してきたことが想起される。  
 しかし「緑の党」は一般に共産主義には否定的であり、資本主義の枠内で環境規制を強化することを主張するにとどまり、根本的な次元で生産様式の転換に切り込もうとしない。そうした意味で、かれらの立場は単に資本主義を緑色に染めるだけの「緑の資本主義」に終始する。  
 これでは資本をして“エコ・ビジネス”のような便乗的利潤追求戦略に走らせるだけである。その象徴的な例が地球温暖化対策を大義名分に掲げる原発輸出政策であるが、「緑の資本主義」ではこうした資本のエコ便乗商法を本質的に批判することができない。  
 一方で、環境規制の強化に伴う生産量の低下ないし生産コストの増大が人員整理を結果することを恐れる労働組合は経営側と歩調を合わせて環境規制に反対しがちである。そうした労組の立場に理解を示す共産党もまた連動して反エコロジズム―「緑の党」の躍進に対する警戒心も手伝って―の立場に赴きやすい。
 革命前民衆会議が目指すのは、こうした反共的な「緑の資本主義」と共産的な「反エコロジズム」との狭間にあって、エコロジズムを内在化させた新たな共産主義の再定義である。  
 共産主義の伝統的なシンボルカラーは「赤」であった。革命前民衆会議も共産主義を目指す以上「赤」を基調としてよいが、それに「緑」を加味する。といっても、それは赤と緑の単なるツートンカラーではなく、深層的な次元で赤と緑が融合されたアラベスクのようでなければならない。(※)

※その点、当ブログのテンプレートが赤基調に統一され、緑加味のアラベスクになっていないのは言行不一致であり、心苦しい。

◇集団的不投票運動  
 革命前民衆会議の主軸となる活動は、まず第一に新しい革命運動の方法となる集団的不投票運動の展開である。すなわち、世界民衆会議を拠点としつつ、連携する各国民衆会議を通じて、各種公職選挙での棄権者を漸次増やし、既存の議会や政府の正統性を弱化させ、最終的な革命につなげることである。  
 ここで注意すべきは、投票が罰則付きで義務付けられている諸国における運動である。この場合、棄権は犯罪行為とみなされる。しかし、たいていは罰金相当の軽罪であり、厳格な取締りもなされないのが通例であるが、仮に棄権に重罰が科せられる場合は、兵役拒否と同様の良心的不服従運動の形態となる。
 一方で、いまだに公職選挙制度が存在しないか、存在しても一党支配のため選挙が形骸化している諸国では、そもそも集団的不投票運動が有効に展開できない。このような場合の民衆会議では棄権運動よりも次項の対抗的立法活動に重点を置くか、それも困難ならば海外に亡命民衆会議を結成することになろう。  
 ちなみに、共産党が一党支配体制を確立している諸国における民衆会議運動は、一見すると共産主義が共産主義に対峙する矛盾行為のようであるが、既成共産党の党派的共産主義と民衆会議の共産主義には齟齬があるので、対峙することは矛盾ではない。  
 この場合は、独裁的共産党に対し、反共の立場から外在的に攻撃するのでなく、新たな再定義された共産主義をもって内在的に対抗する運動が展開されるのである。

◇対抗的立法活動  
 革命前民衆会議の活動主軸の二本目は、対抗的立法活動である。対抗的立法活動とは、既存の立法機関に対抗して、民衆会議が行なう立法活動のことである。もちろん、ここで「立法」といっても、革命前の段階では正規の法令としての効力を持たない民間綱領にとどまるが、革命成就の暁には公式の法令となる、言わば法令のさなぎである。  
 その中心にくるのは、憲章である。憲章とは既成の国法体系上は憲法に相当する最高規範であり、実質的には憲法と呼び得るものであるが、すでに述べてきたように、共産主義は主権国家を前提としないので、社会の最高規範たる憲法は憲章(民衆会議憲章)という形態で現れることになるのである。  
 こうした憲章は世界民衆会議憲章―世界共同体憲章を兼ねる―を統一法源としつつ、各国民衆会議憲章が制定され、さらに各国民衆会議憲章の範囲内でローカルな各圏域民衆会議憲章が制定されるというように、圏域ごとに重層的に制定され、憲章の網の目が形成される。  
 憲章の制定に加え、持続可能的計画経済の仕組みに関わる経済法制の制定も、革命前民衆会議の重要な対抗的立法活動を成す。ここでは貨幣経済の廃止という人類史的な大事業が控えているため、革命後の経済社会の大混乱を回避するためにも、革命前の入念な準備が欠かせないのである。

◇政党化の禁欲  
 以上のような活動二本柱を超えて、革命前民衆会議も選挙参加のような政党的活動を展開すべきかどうかということが一つの問題となるかもしれない。  
 新たな共産主義を目指す民衆会議の方向性に基本的に賛同しつつも、資本主義の生命力は強く、簡単に自壊するようなことはないとすれば、まずは資本主義の枠内で選挙を通じて実行可能な改革を志向していくべきではないかとの慎重な提言もあり得よう。  
 しかし、革命前民衆会議は政党ないしそれに類する政治団体と化すべきではない。ここが既成共産党との大きな分岐点となる。前に述べたとおり、ソ連邦解体後の世界では、残存共産党の多くが議会選挙に参加し、一定の議席を保有しているが、それと同時に、そのほとんどが共産主義革命を棚上げする形で事実上放棄し、資本主義に適応する転回を遂げているのは、そうしなければ議席獲得・保持が困難だからである。  
 それはまた、ブルジョワ議会制度が資本主義への同化を暗黙の議席保持条件として共産党を含む全議会政党に強いるからにほかならない。このことによって、「共産」という名辞の持つ意味が蒸発し、名目化してしまうのである。革命前民衆会議がそのような残存共産党と同じ道を歩むのでは全く意味がない。そのため、革命前民衆会議が政党化して選挙参加することは厳に禁欲すべきなのである。  
 結局のところ、革命前民衆会議は政党ではないが、非公然の地下活動団体でもなく、革命後には公式の社会運営機構となることが予定された公然運動組織という性格を堅持していくべきことになる。

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共産論(連載第48回)

2019-06-18 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

(3)共産党とは別様に

◇革命運動体としての民衆会議
 共産主義革命と言えば、その名のとおり共産党を中心に実行されるものと考えるのが従来の通念であったが、もはやそうではない。ここで提示される民衆による共産主義革命とは共産党はおろか、およそ政党組織によらない、言わば無党派民衆による直接革命なのである。
 といっても、いかなる組織化もせずに革命事業を完遂できると主張するほど筆者もシンプル(純真)ではない。革命運動の組織化はやはり不可避である。その組織とは?
 民衆会議―。この概念はすでに登場済みである。そこでは国家が廃止される共産主義社会における新しい統治機構として登場したのであったが、この民衆会議は同時に、革命前には革命運動組織として結成・展開されるという一貫性を持つのである。
 この「革命前民衆会議」とは、革命後には公式の統治機構となることが予定された―言わば「さなぎ」のような―組織である。その革命後における民衆会議の構制についてはすでに第4章で先取りしておいたので、ここでは革命前民衆会議について見ていく。

◇革命前民衆会議の概要①―世界民衆会議  
 貨幣経済と国家体制を廃する共産主義革命は一国だけで実践できるものではなく、各国における連続革命を経て最終的にトランスナショナルかつグローバルな世界共同体の創設にまで到達しなければならない。
 そのためには民衆会議はその初めの一歩から、現存する国家を超えた世界主義的な組織化を進める必要がある。すなわち「世界民衆会議」の結成である。世界民衆会議は将来世界共同体が創設された暁にはその総会として機能することが予定される民衆会議運動の世界センターである。  
 ただ、世界センターといっても、世界民衆会議と各国民衆会議との関係は本部‐支部の上下関係ではなく、各国における民衆会議の結成支援と各国民衆会議の活動に対する助言・支援、さらに各国民衆会議間の情報交換・情勢分析を柱とするフォーラムの位置づけとなる。  
 それと並行して、第4章でも触れた連関する大地域=汎域圏レベルでの民衆会議作りも重要である。これは最終章で改めて述べる五つの汎域圏ごとに結成され、将来は世界共同体の執行機関として機能する「汎域圏代表者会議」を構成する5人の代表者を選出する代議機関となるのであるが、それまでの間は将来汎域圏を構成する大地域に属する各国民衆会議の暫定的な協議会の役割を果たす。  
 特に国内的に民衆会議のような組織が弾圧・迫害の標的となるために国内活動が困難である諸国における亡命民衆会議の支援は、この汎域圏民衆会議の重要な任務である。従って、汎域圏民衆会議は民衆会議の活動が―全くのノーリスクでは済まないとしても―比較的自由に展開できる国に暫定的な拠点を置くことになるだろう。

◇革命前民衆会議の概要②―各国民衆会議  
 連続革命により世界共同体が創設された暁には主権国家は揚棄されるが、革命前にはさしあたり現存する一国ごとに、世界民衆会議と連携する民衆会議が組織されなければならない。  
 その際、上述した一貫制という性格に照らして、各国民衆会議の組織は結成の段階から革命後の展開に合わせて市町村、地域圏、地方圏(連邦国家の場合は準領域圏)―地域圏や地方圏に相応する自治体が革命前に未設置の場合は暫定的な区割りによる―、領域圏の各レベルごとに重層的に立ち上げていく。  
 しかし、ここでも領域圏民衆会議とローカルな各圏域民衆会議の関係は上下関係になく、領域圏民衆会議に中央委員会のような集権的指導機関は置かない。その代わりにローカルなネットワークをつなぐ機関として「中央連絡委員会」(連邦国家の場合は「連合連絡委員会」)を置くが、首都中心の運営を避けるため、同委員会は首都以外の都市に置く。  
 中央連絡委員会はそれ自身の定例会を定期的に開くほか、年一回の総会(民衆会議総会)を企画・主催する。しかし、総会は情報交換と情勢分析の場であり、政党の大会のように拘束力のある決議は行わない。  
 他方、地方圏(準領域圏)民衆会議と地域圏民衆会議にも「連絡委員会」を置き、各々の圏内民衆会議との連絡機関とする。また市町村民衆会議にも小規模な「連絡会」を置き、市町村内の組織化とともに、地域圏民衆会議とのパイプの役割を持たせる。  
 このように民衆会議は共産党とは異なり、中央指導部を持たず―従って、中央連絡委員会に委員長やそれに匹敵する書記長等々の筆頭職は置かない―、世界民衆会議を核として、各国民衆会議及びその内部のローカルな各圏域民衆会議が有機的に連携する分散的なネットワーク型組織として運営されていく。

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共産論(連載第47回)

2019-06-17 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

(2)革命にはもう一つの方法がある

◇革命の方法論  
 革命といえば、かつてのプロレタリア革命論は武装した労働者階級が武装して立つことを想定していた。しかし、基本的には武装革命論者であったマルクスも平和的な方法による革命があり得ることを示唆していた。とはいえ、彼が「平和的な革命」の具体的な方法論を明示することはなかった。  
 いかに革命を呼号しても、その実践の具体的な方法が見出せなければ、それは空文句に終わってしまう。しかし従来、革命を方法論的に突き詰めて考える風潮は乏しく、革命というものに人々がまだ大いにリアリティーを感得し得た時代にあっても、漠然と武装革命をイメージするだけに終わりがちであった。  
 しかし、革命がリアリティーを喪失しつつある今日であればこそ、革命の方法―特に前節で示したプレビアン革命にふさわしい方法―を突き詰めて問い直す必要がある。そのことを通じて革命のリアリティーも再び取り戻されるだろう。  

◇民衆蜂起  
 民衆蜂起は、その劇的な性格からしても革命のイメージの中では最も象徴的なものである。20世紀以降の民衆蜂起的革命の成功事例としてはロシア革命(1917年)が代表例であるが、青年たちがゲリラ活動を通じて武装蜂起したキューバ革命(1959年)もこの範疇に含めてよいと思われる。  
 この方法では通常、革命に参画する民衆は武装して立つが、非武装の民衆蜂起もある。「ベルリンの壁」を解体させ、旧ソ連の忠実な衛星国として、ソ連型集産主義体制と冷戦の象徴的存在であった旧東ドイツを消滅に追い込んだ大規模デモ行動(1989年)などは非武装型民衆蜂起の実例とみなすこともできる。
 いずれにせよ、民衆蜂起による革命の相手方は必ず専制的な抑圧体制と決まっている。大規模な民衆蜂起は体制に対する民衆の反感・憎悪をエネルギーとしてはじめて成り立つものだからである。  
 その意味で、民衆蜂起による革命は体制側との熾烈な対決状況を生み出す。体制側が鎮圧のために動員する警察や軍との全面対峙の局面が避けられないほか、ロシア革命がそうであったように、革命成就後にも旧体制側の反革命策動が内戦に発展することもある。  
 一方で、この方法による革命によって樹立された政権自身が旧体制に勝るとも劣らぬ抑圧的な体制と化すこともある。ロシア革命後の共産党による圧制はその最も苦い事例として記憶されるべきものであろう。
 総じて民衆蜂起による革命は、偶発的な民衆のデモ行動が導火線となることが多く、その勃発と展開の方向が読み切れないという難しさがある。  
 ともあれ、露骨な形の専制支配体制が次第に減少してきた今日、この方法による革命を目にする機会も減少しつつあると言える。プレビアン革命がこのような民衆蜂起の形を取ることは、抑圧的な全体主義体制下ではなおあり得るが、それは比較的限られたものになるだろう。

◇集団的不投票 
 近年は、多くの諸国でとりあえず「民主的」な選挙を実施することが増えてきた。その趨勢には喜ぶべき点もあるが、他方で、選挙を介した間接的な代表政治は多くの諸国で、職業政治家と民衆の遊離や腐敗した利益誘導などにより機能不全を引き起こし、終末的な限界をさらしている。  
 とはいえ、とりあえず「民主的」な規準を充たす選挙で成立した体制を民衆蜂起で打倒することは、事実上困難なことである。そこで、想定されるのが、集団的不投票という方法である。これは中央及び地方すべての公職選挙で有権者が集団的に投票しないことにより当選人を出させず、およそ議会も政権(地方自治体レベルのそれを含む)も成立させない方法である。 (※)
 そのようにして選挙法の規定に基づく合法的な選挙無効による「無政府状態」を作り出したうえで、残存する旧政権との交渉を通じて平和的に政権を移譲させる段取りとなる。従って、この方法は基本的に非武装の平和的革命であり、また不投票を実行するに際して市民は街頭に繰り出す必要もない「在宅革命」というユニークな性格も帯びている。  
 ただし、この方法による革命の実例は、筆者の知る限り、歴史上いまだ皆無である。その理由として、まさに集団的不投票という手段の技術的な困難さがあるだろう。  
 実際、選挙法では当選に必要な最低得票数はほとんど意図的に低く設定されているため、集団的不投票のような事態への備えもなされていることに加え、国によっては投票そのものを罰則付きで義務付けることもあり、体制側は処罰の脅しで大衆に投票を強制することもできるのだ。  
 そこで、集団的不投票は純粋な形ではなく、第一の民衆蜂起的な方法と組み合わせなければ成功には導けない場合もあるかもしれない。そうした未知の技術的な困難さは伴うけれども、この方法は、一種の市民的不服従を通じたもう一つの革命の方法として、プレビアン革命にふさわしいものと言える。

※従来、各旧版では、この方法を「投票ボイコット」あるいは「集団的棄権」と表記してきたが、前者では投票を暴力的に妨害するかのような印象を否めないこと、一方、後者では「棄権」という語が醸し出す怠慢の印象を否めないことから、「集団的不投票」という表記に変更した。ただし、意味内容に変更はない。

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共産論(連載第46回)

2019-06-11 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

(1)革命の主体は民衆だ(続)

◇「プロレタリア革命」の脱構築
 かつては威勢よく「プロレタリア革命」を呼号したマルクス主義者らも、労働者階級が資本主義を血肉化していく状況の中ではもはや困難な「プロレタリア革命」を断念し、資本主義に順応していくようになった。実は今日の世界の残存マルクス主義政党(ソ連邦解体以降も残存する各国マルクス主義政党)の多くも、「現実主義」の名の下、明示的または黙示的にこのような路線転回を図ってきたところである。
 しかし、ここではそうした自己放棄的なあきらめの「現実主義」には乗らず、どこまでも共産主義への道を模索してみることにしたい。そのためには「プロレタリア革命」を従来とは異なる名辞と方法論とによって、脱構築しなければならない。

◇「搾取」という共通標識
 ここで最初に確認すべきは、共産主義革命の潜勢的な中心主体はあくまでも労働者階級だという鉄則である。ところが、上述のように今日の労働者階級は深く分断されている。しかしこれを再統一することを可能にする標識がある。それが第3章でも論じた「搾取」である。
 その点、資本主義的用語法では「搾取」の意味を矮小化し、極端な低賃金労働の場合に限定しようとするが、第3章でも見たように、相対的な高賃金の労働者でも実際には様々な名目で不払労働を強いられており、「搾取」されているのであった。
 搾取されていることにおいて、一般労働者層と上級労働者層、一般労働者層中の安定層と不安定層、さらには民間労働者と公務労働者の間にも本質的な差異はない。差異があるとすれば、搾取の表れ方である。すなわち低賃金搾取で生計が立たず貧困に陥るか、高賃金搾取によって生計は立つが疲労困ばいし、過労死/過労自殺に至るか、その差にすぎない。
 また安定層と不安定層の差異も、正規労働者に対する解雇規制の緩和や正規労働者の賃金抑制―経営基盤の弱い中小企業では従来からそうなっている―によって一挙に相対化されていく。
 他方、現職労働者層と退職労働者層の世代間対立の止揚はなかなか困難である。しかしこれも「搾取の日延べ」という観点から一定の解決はつくように思われる。
 つまり、退職労働者層の年金給付額は、納めた保険料とともに現職当時の賃金水準を標準に算定されるから、現職時に低賃金で搾取されれば将来の年金受給額も低水準にとどまる。このように老齢年金とは老後まで続く「搾取の日延べ」にほかならない。このことは、受給と負担の関係が完全に対応する自己責任主義的な所得比例方式の年金制度が導入されればいっそう明瞭になる。
 従って、現職労働者が着々と納めた年金保険料に支えられた年金収入でのうのうと暮らす退職者というイメージは正確でない。現実には年金だけでは足りず、生活難に陥る高齢者も多い。それは将来のあなたや私の姿かもしれないのである。

◇「地球環境」という視座
 それにしても、「労働者階級」というようなくくり方がもはやリアリティーを持ちにくい時代である。そこで、「搾取」という標識に「地球環境」の視座も付加してみよう。
 当然ながら、地球環境という生存の土台が破壊されれば、生存そのものが不可能となるのであるから、地球環境の持続可能性を保証することは、あらゆる人にとっての共通課題である。
 しかし、資本主義はそうした地球環境をも「搾取」することで成り立っている。ここでの搾取は労働における搾取とは次元を異にしており、文字通りに環境を搾り取る搾取である。その結果は、生存の危機である。
 地球環境の悪化によって生存の危機にさらされる居住環境にある人々―その大半は労働者階級や中農以下の農民階級と重なるだろう―を特に「エコロジアート」(ecologiat)と名づけてみよう。
 「搾取」という共通指標を地球環境の搾取を包含するところまで拡張していけば、この指標は従来の階級の枠を取り払い、「エコロギアート」を加えて、労働者階級以外の人々をも包摂した階級横断的な結集を可能とする共通指標たり得るのである。

◇「プレビアン革命」の可能性
 このようにして拡張された「搾取」の共通標識の下に統一されたプロレタリアートとエコロジアート、さらにかれらに準じた立場にある中間層の人々まで包み込んだ新しい名辞として、プレブス(plebs)=「民衆」を提示してみたい。民衆こそ、共産主義革命の主体である。
 ところで、「民衆」の類語に「大衆」があり、このほうが膾炙しているかもしれない。しかし、ここでは「民衆」と「大衆」を明確に区別する。「大衆」とは政治的に覚醒しておらず、浮動的であるがゆえに日和見的であると同時に扇動されやすく、最悪の場合ファシズムへ誘い込まれるバラバラの個人から成る群衆、言わば烏合の衆にすぎない。
 これに対し、ここで言う「民衆」は政治的に覚醒した革命的階級として連帯・結合した諸個人の凝集である。その中核を成すのは賃労働者であるが、それに限らず貧農・小農、無産知識人、零細資本家等々、およそ資本の法則に痛めつけられ、共産主義社会の実現に活路を見出さんとする人々全般を包摂するのが「民衆」である。
 そして、各国ともこうした民衆こそが人口構成上もおおむね多数派を形成しているのである。よって、このような―少数派をも包み込んだ―真の多数派たる民衆の名において実行されるのが、共産主義革命である。要するに、それは「民衆による、民衆のための、民衆の革命=プレビアン革命(plebeian revolution)」という名辞にまとめることができる。

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共産論(連載第45回)

2019-06-10 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

共産主義を青い鳥に終わらせないためには、古い革命の常識(=武装プロレタリア革命)を破る新しい名辞と方法論を伴った新しい革命運動が必要である。それはどのようなものであり得るか?


(1)革命の主体は民衆だ:The leading actors of revolution are the common people.

◇「革命」という政治事業
 前章まで、共産主義社会の実際をかなり具体的に叙述してきたが、その共産主義はそもそもいかにして実現されるか、という大問題がまだ残されている。この大問題を解決できなければ共産主義などしょせん手の届かぬ青い鳥にすぎないことになろう。
 そこでまず、第1章で論じたことを振り返ってみたい。そこでは、資本主義の生命力は強く、自壊するようなことはないが、この「近代的な」経済システムは重大な限界を露呈している、と論じた。
 従って、もし我々が資本主義に異議を申し立てるにとどまらず、資本主義に見切りをつけ共産主義社会の実現を本気で望むならば―望まないという方には、本章及び次章は不要―、ひとまず「革命」という政治事業によって人為的に資本主義と決別しなければならないのである。では、その革命を誰が主導するのか。この問いに対する回答をめぐっての議論である。

◇マルクス主義的「模範」回答
 「正統的」と目されるマルクス主義の理論によれば、共産主義革命の主体は労働者階級(プロレタリアート)である。この回答は政治経済学的にはなお間違ってはいない。というのも、資本主義はその表面の姿形をどれほど変えようと根本的な次元ではブルジョワジーとプロレタリアートの階級対立を止揚し得ないからである。
 今日、発達した資本主義諸国では労使協調路線が定着してきているが、これは「右肩上がり」の時代の総資本が労働分配率を高め、相対的な高賃金経営を実現し得た蜜月時代の名残にすぎず、世界大不況のような経済危機に直面すればたちまちにして賃奴制の過酷な構造が表面化してくる。
 資本の論理に最も痛めつけられるのは賃労働者たちである、という事実はほとんど世界中で普遍的な政治経済学法則である。となると、資本主義を最終的に終わらせることに最も強い理由を持っているのも賃労働者=賃奴たちであって、共産主義社会の実現を目指すプロレタリア革命とは賃奴たちの蜂起だということになりそうである。

◇困難な「プロレタリア革命」
 しかしながら、以上はあくまでも政治経済学的な理屈のうえでの革命主体論であって、社会力学的に見ると「プロレタリア革命」はもはや成立し難い。なぜか。まず何よりも今日の労働者階級はこれを一つの階級的利害だけでまとめ上げることができないほど深く分断されているからである。
 この分断は第一に、現職労働者の内部で一般労働者層(ブルーカラー)と上級労働者層(ホワイトカラー)との二極化という形で生じている。前者はおおむね現業部門のノン・キャリア労働者であるが、後者は将来の経営幹部候補のキャリア労働者である。
 この両者は同じ労働者であっても置かれている位相が異なっており、上級労働者は全般に高学歴・高賃金であり、賃労働者でありながら将来の経営幹部候補として資本の論理を完全に身につけ、管理職の道を歩むエリートである。かれらは一般労働者層に対して優越的であり、時として敵対的でさえあり得る。
 この「青vs白」の分断は株式会社制度の発達とともに長い歴史を持つが、それに加え、近年は一般労働者層内部でも相対的な安定層と不安定層の二極分解が目立ち始めた。安定層は労組に加入し、何とか団結力を保っているが、不安定層は未組織で断片化された非正規労働者が多く、両者の利害は対立しがちである。
 さらに現代では国や地方自治体のような公権力も多くの賃労働者を雇用しているが、これらの公務労働者(いわゆる公務員)は民間資本の活動を監督する立場にあって、学歴・賃金水準も相対的に高く、賃労働者はこうした官民のセクターによっても分断されている。ただし、公務労働者内部も民間以上に明瞭な一般職と上級職の階級差があり、近時は常勤の安定層と非常勤・有期の不安定層によっても分断されてきている。
 こうした現職労働者内部の分断に加えて、老齢年金制度の整備に伴い、現職労働者層と退職労働者層という世代的な分断も深まっている。将来の年金受給額が減少する恐れのある現職労働者の納付する年金保険料で退職労働者の年金収入が担保されるとなれば、明瞭に世代間対立が表面化する。
 以上のような階級内分断はまた、ブルジョワジーとプロレタリアートの階級差をかなりの程度相対化することにも成功している。今日のブルジョワ階級の代表格である企業経営者層の多くは上級労働者層(場合により、一般労働者層)の中から昇格・抜擢されるが、このことによりプロレタリア階級とブルジョワ階級の間が階段―決してなだらかとは言えないが―で連絡していることになる。さらに、貯蓄の一部を投資に回している退職労働者は、プチ投資家階級としてブルジョワ階級に包摂されているとみなすこともできる。
 このように、実は「ブルジョワジー対プロレタリアート」という対立図式も―本質的には止揚されないまま―相当に液状化してきている。
 そのうえに、労働者階級自身の意識の中でも資本主義への同化が著しく進行している。このことはマルクスも、つとに『資本論』第一巻の中で「資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統、慣習によってこの生産様式の諸要求を自明の自然法則として認める労働者階級が発達してくる」と予見していたところであった。今や、労働者階級が資本主義をほとんど血肉化してしまっている・・・・。
 かくして「プロレタリア革命」なるものはもはや全く不可能とは言わないまでも、そのままの形では実現可能性の乏しいプロジェクトとなったと言わざるを得ないのである。

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共産論(連載第43回)

2019-06-03 | 〆共産論[増訂版]

第7章 共産主義社会の実際(六):文化

(4)競争の文化は衰退する

◇資本主義的生存競争
 資本主義的文化価値として商品価値と並んで重要なものは競争である。これは資本主義社会の主人公である商品が、言わば生産者間の競技場でもある市場を通じて販売される競争の賭け金であることと密接に連関している。
 こうした競争は資本主義社会の基軸である市場経済の原理であると同時に、一つの文化価値としても我々の人生そのものを規定しているところである。
 実際、資本主義社会では資本間の経済競争以外にも、試験、コンクール、コンペティション、競技会から選挙に至るまで、あらゆるものが競争的に編制されている。資本主義社会に産み落とされた者は生まれたその日から生存競争にさらされ、ライフ・サイクルの各段階ごとにふるい落としの審査にかけられ、人生の勝敗を分けられていく。
 こうした競争の文化の中では、競争において他人を蹴落とすことに罪悪感を持たないことが美徳となる。それは〈私〉の才能と努力の勝利であり、〈私〉には何の罪責もないことなのだ。
 このような価値観が支配的であれば、社会的に協力して何か一つの事業を成し遂げようというような風潮は消失し、人間は互いに競争的な関係に立つバラバラの原子と化す。地域コミュニティーも解体し、隣人同士も未知の異邦人のように見えてくる。
 資本主義が高度に発達した社会の人間は孤独である。かれらはそれ以上分割不能な個‐人に切り縮められて、豊かな消費生活と引き換えに「巨大な商品の集まり」の中に埋没していく。一方で、かれらがひとたび生存競争に敗れれば人生やり直しは困難であり、〈居場所〉を失い、社会的に排除され、周縁化されていく。
 しかし競争に勝ち残った者も決して心底満足しているようには見えず、内心にはぽっかりと空虚な穴が開いているのではないだろうか。
 「生き辛さ」を訴える声が強いが、これは競争の文化が競争の「負け組」の側に生じさせる社会病理的な症状である。その反面で、競争の文化は競争の「勝ち組」の側にも「虚しさ」のような病理症状を生じさせているのである。

◇共存本能の可能性
 競争至上主義者の信念とは裏腹に、人間は元来必ずしも競争的な動物とは限らないのではないかと推定させる証拠もある。例えば、競争とは英語でコンペティション(competition)であるが、この語の語源は「com:共に」、「petit:追求する」であり、その原義に最も対応する日本語は「競争」ではなく、「切磋琢磨」であろう。
 「切磋琢磨」にはライバルの他人を蹴落とすというニュアンスはなく、むしろそれは共に励まし合いながらお互いを磨き上げていくといった意味合いである。このコンペティションが資本主義の手にかかると、身もふたもない生き残り競争の意味にすりかわってしまうのだ。
 もう一つの例はカルテルである。カルテルは資本主義的競争を阻害する資本間の違法な謀議として取り締まりを受けるが、放置すれば跡を絶たないからこそ罰則をもって取り締まられるのである。
 表では競争を賛美する資本が裏ではなぜ競争を回避しようとするのであろうか。ライバルを蹴落とし潰すという資本主義的競争を純粋に貫いていった場合の最終結果は競争に勝ち残った一者がすべてを取る、つまり独占という無競争状態である。
 競争の結果、無競争が生じる―。ここに資本主義的競争の自己矛盾がある。この矛盾を回避するには競合する資本間でカルテルを結んで共存し合うしかない。これも資本に内在する一つの共存本能であろう。
 こうした例は競争的動物と見える人間に共存本能とも呼ぶべき本性が備わっていることを示唆するもののように思われる。実際、近年の行動経済学は、人間には利己性のみならず、利他性が備わっていることも明らかにしている。

◇共産主義的切磋琢磨
 共産主義社会は無競争のぬるま湯社会だという批判もあるが、共産主義社会でも先ほど述べたような意味でのコン‐ペティション=切磋琢磨が否定されるわけではない。共産主義社会で重視される社会的協力は決してぬるま湯ではなく、むしろ人々に切磋琢磨の価値を教えるであろう。
 そうすれば試験やコンクールの意味合いも変化するに違いない。試験はふるい落としのための手段ではなく、各人の適性を発見するための尺度であったり、教師自身が自分の指導法の成果を検証するための手段となるであろうし、コンクールは参加者がライバルの失策を密かに期待し合う妬みの場ではなく、お互いの腕前を披瀝し評価し合う祝祭のような場に変化するであろう。
 オリンピックのような競技会の持つ意味合いも変化する可能性がある。それは選手を送り込む各国間のメダル獲得競争、スポンサー企業間の利権獲得・宣伝競争であることをやめ、大会に参加する選手やチームが純粋に競技に没入し、観客が観戦を純粋に楽しむスポーツの祭典として原点回帰していくのではないだろうか。
 生産の領域でも、第2章で見たように、計画経済の適用がない分野では自由生産制が採られるうえに、共産主義経済では交換価値の観念が消え失せ、使用価値中心の世界となるのであるから、いかに良質で使いやすく長持ちするモノを生産するかというモノの真価をめぐる一種の競争関係は残る。
 共産主義社会では概して、競争は言わば「共走」に変化していくであろう。

◇究極の自殺予防策
 競争の文化の衰退に伴って、精神文化の面でもいくつかの重要な変化が生じると予測される。
 まず、競争に敗れ、人生やり直しもままならず死を選ぶ人は大幅に減少するであろう。もちろん共産主義社会でも自殺はゼロになるまいが、自殺の原因の多くは純粋に実存的なもの(病苦や死別など)に限られていくであろう。この点で、共産主義は精神科のどんな名医よりも自殺予防に威力を発揮するはずである。
 もう一つは宗教に救いを求める人が減るかもしれないということである。“困ったときの神頼み”は世界共通の現象であるから、「困りごと」の多い社会ほど人々は神に祈るのである。
 資本主義的競争に疲れ果て、自殺はしないまでも、“癒し”を求めてスピリチュアルなものに惹かれる人たちは少なくない。それが資本主義的な心的外傷を実際に癒している限り―ここでもまがい物をつかまされる危険は常にあるが―、マルクスの有名な箴言にもかかわらず、宗教は阿片以上のものである。イスラーム圏の宗教熱は、そのことの最も苦くも力強い例証である。
 しかし、切磋琢磨の共産主義的「共走」の文化は社会的な「困りごと」を減らし、宗教の役割を現在の哲学が果たしているようなそれに限定していくであろう。
 共産主義が無神論であると言われるのもそのような意味においてであって、信仰の自由を奪う「宗教弾圧」などを含意するものではあり得ない。

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共産論(連載第42回)

2019-05-29 | 〆共産論[増訂版]

第7章 共産主義社会の実際(六):文化

(3)マス・メディアの帝国は解体される

◇メディアの多様化
 資本主義社会の言論装置として、今日マス・メディアの支配力を無視することはできないが、このことはインターネット時代にあっても―支配の形態や影響力に多少の変化はあれ―本質的に変わりない。
 マス・メディアはそれ自身が情報=商品を販売する商業資本であると同時に、一般商品の広告も受託するというように、商品価値の文化体系の担い手でもあり、また文学・芸術の商業的スポンサーとして市場的検閲の一端をも掌握している。まさに、マス・メディアは文化の帝国である。
 共産主義社会ではこのマス・メディアの帝国支配に終止符が打たれる。といっても、マス・メディアが権力的統制下に置かれてしまうからではなく、その運営及び内容の両面で多様化されるからである。
 共産主義社会のマス・メディアは、過度集中排除の観点から、少なくとも新聞とテレビは完全に分離されたうえで、「メディア協同組合」のような新たな組織形態の下、非商業的に運営されるようになる。これによって、今日、テレビとインターネットに押され気味の新聞も、販売部数に拘泥せず自由に発行できるようになるため、多種多様な新しい新聞の創刊を見ることができるに違いない。
 またテレビの世界でも、スポンサー資本の圧力を受けた視聴率至上の商業主義路線が廃される結果、視聴率に拘泥せず社会的な問題を掘り下げる硬派番組も自由に制作できる可能性が増し、かえって番組の多様化が進展することが予測される。
 ところで、かつては放送メディアの元祖として重要な媒体であったラジオの斜陽化が著しいが、共産主義社会ではメディア全般が商業主義から解放される結果、案外ラジオという古典的メディアが再発見され、蘇生するかもしれない。

◇誰もが記者に
 このようにしてマス・メディアの帝国支配が解体されることで、社会のコミュニケーションのあり方全般が変革されるであろう。すなわち画一的なマス・コミュニケーションはその比重を低下させ、より多様で直接的なコミュニケーションの世界が開かれる。これは旧式の伝承や口コミに依存した情報後進的な世界とも異なり、誰もが作家・芸術家になれるという事態に対応するものとしての、誰もが記者になれる世界の到来である。
 すでにインターネットの世界では一般市民が時にマス・メディアよりも早い写真や動画の配信を含め、一種の記者活動を展開しているように、共産主義社会ではこうした「市民記者」的な活動がよりいっそう盛んになるであろうし、そのような活動が集団化されて新しいメディアが結成される動きも活発化してくるだろう。
 その点、基礎教育課程において論理的な文章を書くことの訓練が徹底されることは(拙稿参照)、一般市民の筆力の向上を結果し、市民的記者活動の質の担保として働くことが期待される。
 このようにして、「報道の自由」というものもマス・メディアの特権ではなくなり、みんなのものとして民衆の手に渡されるのである。これも、メディア統制などとは全く正反対の、「共産主義的自由」の発露であると言えよう。(※)

※言論の自由が保障される限りメディアというものは自生的に形成されていくから、共産主義社会におけるメディアのあり方を確定的に描くことは困難であるが、一例として別連載『共産主義生活百科』の拙稿を参照されたい。

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共産論(連載第41回)

2019-05-28 | 〆共産論[増訂版]

第7章 共産主義社会の実際(六):文化

(2)誰もが作家・芸術家

◇市場の検閲
 商品価値の文化体系が自由を抑圧する作用を持つこともある。その犠牲的影響が最も大きいのは創作活動の世界である。創作の価値を「売れるか売れないか」、この一点だけで審判するのは一面的であるが、商品価値の文化体系は商品価値への反抗を許さない。
 かくして、文学・芸術生産も商品価値の論理に絡め取られていき、ここでもまがい物が横行する一方、文学的・芸術的価値はあっても作品が売れなければ世に出ることはできず、いわゆるプロフェッショナルの作家・芸術家としては認知されないことになる。
 これに対し、商品価値の文化体系を司る文化産業資本の側からは、売れるかどうか、つまりは大衆の支持を受けるかどうかという評価基準は、純粋に文学的・芸術的価値があるかどうかという評価基準よりも客観的であるとの反論もあり得よう。
 しかし、それは本末転倒の議論である。文化産業資本自らが大衆の支持をマーケティング技術によって作り出しておいて、「売れる」ように仕組んでいるとすれば、たとえは悪いが、自ら放火した者がその火を指してあの赤々と燃えている火は客観的だと評するようなものである。
 たしかに、純粋の文学的・芸術的価値というものは主観的であるから、例えばある創作者の作品Pを評価する人が世界に数人しかいないということもあり得る。しかし数人でも評価する人がいるなら、作品Pには「価値」があると言える。ところが商品として見れば、世界に数人しか買い手がつきそうにない作品Pは、商品価値を認められないから、この作品は世に出ないであろう。
 これが市場によって文学・芸術作品の価値が審査される「市場の検閲」と呼ぶべき作用である。この場合、検閲を司るのは各々の分野に応じて出版社であったり、画商であったり、音楽事務所であったりする。要するに、総体としての文化産業資本である。
 ここで、市場の検閲よりも国家の検閲の方がよほど恐ろしいという反論も聞かれよう。たしかに国家の検閲は強権的であり、しばしば恣意的でもあり、有害なものである。
 この点、共産主義は国家という主体を擁しないないから、論理上国家の検閲も当然あり得ない。そのうえに商品としての文学・芸術生産も廃されるから市場の検閲も消失するのである。これによって何が起きるか。誰もが作家・芸術家、である。

◇インターネット・コモンズの予示
 誰もが作家・芸術家になれるなどと豪語すれば失笑されるかもしれないが、しかしすでにこういう現象は一部先取り的に現実のものとなりつつある。
 インターネットの普及は「売れない」作家・芸術家が自分の作品を商品化することなく世に送り出す手段を与えている。その作品を鑑賞する人がたとえわずかであっても、発表のチャンスは失われない。その作品は無償の共有物として扱われる。インターネット空間がコモンズ(=共有地)とも称されるゆえんである。
 このインターネット・コモンズの世界ではまさにコモンズ(=庶民)が思い思いの表現活動を展開し始めている。もちろん時代はまだ資本主義であるから、そうしたコモンズの自由な作品の大多数は商品価値を認められず、従ってまた創作を「職業」として認知されるチャンスも稀である。それでもインターネットの世界は、共産主義的未来の創作活動のありようを部分的に予示しているように見える。

◇開花する表現の自由
 もちろん共産主義社会でも、作品が公衆の広い支持を受けるかどうかで創作者の評価と知名度に差が出ることは避けられないが、資本主義社会のように作品が商品として商業的成功を収めるかどうかでプロフェッショナルとアマチュアの差が分かれることはもはやなく、そもそもプロとアマの境界自体があいまいになっていくであろう。このことは、根本的な次元で、名実ともに表現の自由が確立されてくることを意味する。
 今、“リベラル”な資本主義社会では国家の検閲制度は廃止され、おおむね表現の自由の法的な保障は与えられているが、現実には市場の検閲という壁が厚く立ちはだかり、事実上表現の自由は商業的成功を収めた一部プロの「表現特権」と化している。
 これまた国際常識に反することかもしれないが、共産主義社会においてこそ、表現の自由が本当の意味で開花する。そう宣言してもよい。

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共産論(連載第40回)

2019-05-27 | 〆共産論[増訂版]

第7章 共産主義社会の実際(六):文化

共産主義的文化の特徴はシンプルさ。それはがつがつした「競争」でなく、ゆったりした「共走」の文化でもある。そこでは表現の自由も大きく花咲く。そのわけは?


(1)商品崇拝から解放される

◇「人間も商品なり」の資本主義
 共産主義に固有の文化価値とは何であろうか。このような問いかけは、かつて中国社会を恐怖と混乱に陥れた「文化大革命」を思い起こさせるかもしれないが、歴史上の「文化大革命」とは中国共産党内の熾烈な権力闘争の代名詞にすぎなかった。ここで言う「文化」とは、政治闘争を離れた文字通りの文化である。
 まず対比上、資本主義的な文化価値とは何かを考えてみると、その最大のものは商品価値で間違いない。商品生産を基軸とする資本主義社会では、商品価値は経済的価値であると同時にそれ自体が文化価値でもあるからだ。商品が社会の主人公であり、ほとんどすべての事物がいったん商品という交換価値形態を取らなければ世に出ることはできない。
 人間そのものも商品とみなされる。といっても古典的な人身売買のことではない。人間に対する評価基準全般が以前にもまして「中身」=人間性(言わば人間の使用価値)云々よりも表面的な「スキル」=労働力や、より皮相的な「見た目」=容姿(言わば人間の交換価値)重視になってきている。これも人間=商品化現象の一つの証しである。
 こうした文化価値としての商品価値は大衆によっても根強く信奉されているからこそ、普遍的な文化価値となるのである。大衆自身、商品に何か特殊な力が備わっているかのように感じている。それが商品崇拝である。
 この資本主義的アニミズムの特徴は、交換価値という表面的な値札をあがめるという点にある。偽ブランド品の大量流通はその象徴である。我々は偽物をつかまされると憤慨するが、偽物と判明するまではまがい物の値札に眩惑されているのだ。
 このように、商品崇拝はまがい物の横行―人間の「まがい者」も含めて―に手を貸している。かつてマルクスの論敵であったプルードンは「所有とは盗みだ!」と叫んだが、彼はむしろ「商業とは詐欺だ!」と叫ぶべきであった。ただし、商人=詐欺師なのではなく―文字どおりの詐欺師も横行しているが、かれらは資本主義の主役ではない―、大衆があまりにも商品をあがめ、求めるから詐欺被害に遭う確率が高まるだけなのではあるが。

◇本物・中身勝負の世界へ
 これに対して、共産主義社会では商品生産が廃されることによって商品崇拝にも終止符が打たれる。モノは商品形態を剥ぎ取られて、言わば「モノ自体」として評価されるようになる。前に、共産主義は使用価値中心の世界だと論じたとおりである。
 共産主義とは、モノにせよヒトにせよ、すべてにおいて本物勝負・中身勝負の世界であるため、ある意味では本質が問われる厳しい世界だと言えるかもしれない。
 しかし、商品的仮象の世界に住み慣れている我々も、本当は心のどこかで本物・中身の世界を希求してはいないであろうか。まがい物の商品をつかまされ、まがい者の人間に支配され、人間=商品価値で優劣を判定される社会に住み続けたいという人はそれほど多くはあるまい。
 共産主義社会において言葉の真の意味での「文化大革命」があるとすれば、それは商品価値の文化体系が全面的に転覆されるということである。そのような「文化大革命」であれば、我々を恐怖と混乱に導く代わりに、商品崇拝の罠から救い出してくれるであろう。

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共産論(連載第39回)

2019-05-21 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(6)真の生涯教育が保障される

◇リセット教育のシステム
 “生涯学習”といったスローガンはよく聞かれるが、そこで言われているのはせいぜい一般市民がカルチャーセンターに通って趣味の学問に触れる程度のことである。これに対して、「生涯教育」とはいつでも人生やり直しを可能とするようなリセット教育のシステムをいう。
 人間を労働力として生産活動に動員することを中心に組み立てられた資本主義社会では、何歳までにしかじかのことを済ませておかねばならないといった「ライフ・ステージ」による制約が多く、正規の学校課程を中退した者や学校課程は終えたが何らかの事情で人生に失敗し、社会生活から脱落した者などの再出発は大変に難しい。また先天的か後天的かを問わず障碍者の人生設計も大きな制約を受ける。
 総じて資本企業は標準モデルの賃金体系を適用できない規格外の労働力を好まないため、人生設計のやり直しは困難となりがちである。これに対し、賃労働制が廃される共産主義社会では、年齢や経験にかかわらず、いつでも人生やり直しをサポートし、求職者に適職を配分することが可能となるのである。

◇多目的大学校と専門技能学校
 人生やり直しをいつでも可能とするためには、適宜の継続教育によって新しい知識・技能を修得したり、もう一度学び直したりするチャンスがすべての人に等しく保障されていなければならない。
 それを可能とするため各地に設立されるのが、「多目的大学校」である。これは、すでに一貫制義務教育の課程(基礎教育課程)を終えていったん就職した人がさらに高度の、あるいはまったく別分野の知識・技能を修得できるように用意された教育機関である。
 しかし、現存大学制度とは根本的に異なり、入学試験やそれに準じた選抜はせず、先着全入制を採る。もちろん完全無償である。しかも、現存の大学よりも実用性の高い学科を数多く提供し、人生設計の練り直しを可能とする知識・技能を修得できるようにするものである。
 また一貫制義務教育を長期休学した人や、障碍者のように成長のスピードが緩やかな人のために、一貫制義務教育の内容を補習的に提供するプログラムのほか、一方では先に述べた学術研究センターと連携して学術の最先端の講座も用意するなど、まさに多目的な成人教育機関である。
 こうした成人向け大学校は、広域自治体としての地方圏が運営主体となり、地方圏内の地域圏ごとに最低1校は開設され、職業紹介所とも連携しながら修了者の就職・再就職につなげることができるように工夫される。
 同時に、各種の専門的技能を単科的に指導する「専門技能学校」の設立も促進される。これは、多目的大学校と並び、主として成人向けの再教育プログラムを提供する学校であるが、多目的大学校とは異なり、すべて私立である。
 大学が廃止される共産主義社会では、こうした多目的大学校と専門技能学校、さらに次項の高度専門職学院とが、より実践的な生涯教育体系を構成することになる。

◇高度専門職学院 
 前回、種々の高度専門職も最低5年以上の職歴を持つ有職者の中から選考・養成すると述べたが、これもまた一つの生涯教育のあり方である。従って、例えば長く別の仕事をしていた人が40歳を過ぎてから医師に転身するといったことも決して珍しいことではなくなろう。
 一方で、高度専門職の資格・免許は一度取得すれば終身間有効な特権であるべきではなく、適切な継続教育を通じて少なくとも10年程度ごとに更新されていく必要がある。これも、高度専門職の社会的責任の重さに応じた一つの生涯教育のあり方である。
 こうした高度専門職の養成は、前述した医学院、法学院、教育学院等々の高度専門職学院が担うわけであるが、いずれも“難関入試”に依存することなく、職歴や人格的要素を優先する選考によることで、より広い見識と公共奉仕の精神を備えた専門職を得ることができ、ウェーバーが近代社会全般の弊として指摘した「精神なき専門人」の問題を克服する手がかりとなることも期待できるのである。

◇ライフ・リセット社会へ
 最後に、大胆に単純化してまとめれば、資本主義、さらには資本主義的要素をなお引きずっていた社会主義も含む広義の「近代」社会とは、人生やり直しを困難にする画一的なライフ・サイクル社会であったのに対し、共産主義社会は人生やり直しをいつでも可能とする自由なライフ・リセット社会であり、これこそが「ポスト近代」社会の要件である。
 「ポスト近代」とは近代が獲得した精神の自由―言わば観念的な自由―にとどまらず、現実の人間の可能性―言葉の真の意味での自由―が最大限に開かれることを意味しているのでなければならない。現代共産主義が生涯教育に厚く配慮するのも、そうした意味での「ポスト近代」社会を現実的に保証するためなのである。

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共産論(連載第38回)

2019-05-20 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(5)一貫制義務教育が始まる

◇ふるい落としからすくい取りへ
 大学の廃止は決して教育全般の衰退を意味しない。それどころか、大学の廃止によって全く新しい義務教育のシステムが発達してくるだろう。
 現在の資本主義的教育システムが「一流大学」へ進学するというゴールをめざす大学至上の、ふるい落としのシステムであるとすれば、大学廃止後の共産主義的教育は個々人の可能性を最大限開花させることに重点を置いたすくい取りのシステムである。
 具体的にはまず義務教育の小学校・中学校等の区分けが撤廃され一本化されたうえ(一貫制)、その全体が入学試験なしでつながる基礎教育課程として再編される。すなわち(1)で述べた義務保育制に続く就学年齢6歳から18歳まで(標準的な場合)の一貫制教育である。
 前回見たとおり、基礎教育は通信制を原則として提供されるのであり、学年とか学級といった等級分けも一切存在しない。開始年齢は定められるが、修了年限はなく、13に区切られた各ステップを順次修了した時点で完結する。
 さらに、共産教育における基礎教育課程は、既存教育制度とは異なり、健常者教育と障碍者教育とを分離しない統合教育を基本とする。共産主義社会は、障碍の有無で人の社会的立場を分けることのない対等な社会参加を軸とするものだからである(詳細は別稿参照)。
 この一貫制義務教育の実施主体は市町村ではなく、中間自治体としての地域圏に一元化される。反面、私学による義務教育の運営は認められない。

◇基本七科の概要
 新しい一貫制義務教育課程では、従来の国語・数学(算数)・理科・社会の旧式な教科学習は廃され、より実践的で、願わくは楽しくもありたいカリキュラムが導入される。その大まかな概要を示しておこう。なお、各科目の詳細については別連載『共産教育論』に委ねる(以下各小見出しからリンク)。

1:言語表現
 これは、各領域圏ごとの公用語(複数ある場合はすべて)及び世界語としてのエスペラント語とによる表現力を身につける科目である。
 最終章で改めて論ずるように、共産主義的な世界共同体は暫定的な世界公用語としてエスペラント語を指定するので、各領域圏の義務教育においても初期からエスペラント語教育を行う。
 しかもそれを「外語」として分立させるのではなく、各領域圏の公用語(例えば日本語)と結合して教育することに「言語表現」科目の主旨がある。従って、例えば同じ文を日本語とエスペラント語の双方で書いてもらうといった方法になろう。
 こうした「言語表現」科目の内容的な特徴は、読むことより以上に書くことに重点が置かれる点にある。読むことは表現行為の基礎であり、読み解釈する作用(読解)を通じて表現行為の一環ではあるけれども、それは本質的に受身の表現行為である。子どもたちの構想力‐独創性を引き出すためには、一定の事柄に対する自己の見解を論理的に書くことの積極的な訓練が求められるのである。
 同時に、当科目はメディアやインターネット経由の情報の正確かつ批判的な読解力―情報リテラシー―を習得する教育を包含する。

2:数的思考
 従来の数学(算数)に対応する科目であるが、決定的に異なるのは数という概念そのものを教えることである。従来の数学教育は計算問題中心であり、計算力を訓練することに力点があった。このことが、数学を公式や定理の単なる暗記科目に矮小化させ、数学嫌いを増やす要因ともなっている。
 しかし数学とは数字という世界共通文字(ないし図形)を用いた一つの論理的な表現行為である。その意味で、数学は言語表現の一種であると同時に、科学的思考法の有力な手段ともなる。まさに数的「思考」であり、それは「言語表現」科目と次の「科学基礎」科目とをつなぐ科目でもあるのである。
 そのような性格を持つ「数的思考」科目は単に1+1=2という計算ができることに重点を置くのでなく、この数式がいかなる数的概念を表現するものなのかを考えさせるように努める。これはより複雑な数式や定理についても同様である。

3:科学基礎
 
科学基礎科目は、諸科学の基礎を学ぶ科目である。ここで言う「科学」は最も狭義の自然科学に限らず、一部人文・社会科学にまたがる広義の「科学」を意味している。その点で、伝統的な学校教科としての「理科」より広範囲に及び、伝統教科の「社会科」に一部またがる領域を持つ。
 その点で、いわゆる文系と理系という形式的な区別を撤廃した文理総合的な科学の素養を涵養することを目的とする科目であると言える。これを通じて、迷信や疑似科学的な俗説にとらわれない科学的な市民の育成が目指される。
 具体的には、生物学と物理学・化学の基礎を学ぶ「自然・生命科学系」、地理学と経済学の基礎を学ぶ「人文・社会科学系」、地球物理学及び環境科学の基礎を学ぶ「地球・環境科学系」の三分野から成る。非常に広汎な内容を持つ分野であるため、各系がさらに細分化されることになるが、詳細は上掲別稿に譲る。

4:歴史社会
 歴史社会は、歴史及び現存社会について学ぶ科目である。歴史分野では、伝統的な歴史教育のように国史(例えば日本史)と世界史を分離する教育が転換される。世界史から切り離された国史はまさにナショナリズム教育の最前線であり、国家が廃止される共産主義社会では存在しないカテゴリーである。
 ただ、共産主義の下でも個々の領域圏の歴史というものはなお残るのであり(例えば日本領域圏史)、それを世界史の中に統合的に位置づけながら教育することは行なわれる。
 それと同時に、先史時代から現代までを総覧的に教えるのではなく、近現代史(具体的には、おおむね産業革命以降の歴史)に特化し、それ以前の歴史については自学に委ねれば十分である。
 社会分野では、歴史的到達点としての共産主義的な政治・法律の仕組みを総合的・客観的に理解させることに重点を置く。これは、民衆会議代議員という重要な市民的任務を果たすうえで必要な初歩的理解を身につけさせることに主眼がある。

5:生活技能(一部通学科目)
 共産主義社会では各人の生活体験に根ざす判断力が重視されるため、日常生活の基本技能を学ぶ生活技術教育は一般教科と同等の重要性を持つ。
 全般に、資本主義のもたらした技術革新は利便性を偏重し、自分の手で何かを作ったり、直したりする体験を子どものうちから奪った結果、人間はその本来の創造性を失いつつあるように見える。一方で、利便性を促進する機械化・自動化の波を押し戻すことは、共産主義革命といえども無理であり、日常的に使用する機械を正しく安全に操作する訓練も重要である。
 特に未来社会ではよりいっそう全般化するロボットを含めた情報機器の構造理解や操作法はもちろん、生活の一部となった情報ネットワークの安全かつ正当な利用法の習得も当科目の重要な内容となる。
 こうした機械化対応に加えて、この「生活技術」科目では、性別を問わず全生徒に家事・育児の基礎的技能を修得することも大きな柱とする。かつては各家庭で伝授できたこうした技能も、現代では義務教育を通じて学習すべき必要性がますます高まっているからである。

6:健康体育(通学科目)
 従来の体育教育は多種の競技を総花式に教える競技体育を中心としているが、これは個々の生徒の適性や関心を無視した競技の押し付けであるばかりか、個々の競技の技能も上達しない無駄の多い教育方法である。
 これに対して、共産主義的体育教育は、病気やけがを予防するための体操やトレーニングを中心とし、個々の運動神経にかかわりなく可能な健康体育に転換される。一方、競技体育は民間のスポーツクラブ等に委ねられる。

7:社会道徳(一部通学科目)
 共産主義的道徳教育の重点は、反差別教育である。このことは、前章でも先取りしたように、共産主義社会が社会的協力=助け合いの社会であるからには、互いに異質な者同士も協力し合う社会慣習が不可欠であることに由来する。
 そこで、「人間をその先天的または後天的に獲得された特徴・属性のゆえに劣等視してはならない」というごく単純な道徳規範を一貫制義務教育の全体を通じて徹底的に教育していかなければならない。
 このことはまた、いじめの防止にも効果的と考えられる。なぜなら、対象生徒の自殺を招くような深刻ないじめとは子どもの領分における差別(その多くは容姿に関わる。)にほかならないからである。
 この反差別教育は、義務教育の前半では障碍のある生徒や海外出身の生徒などとの交流を通じた体験学習を中心とし、後半ではより広く被差別当事者(少数民族、性的少数者、容貌/体型少数者等々)をゲストに迎え、その話を聞き質疑応答するといった教科学習的な方法を採ることが有効と考えられる。

 以上に概観した基本七科(言語表現・数的思考・科学基礎・歴史社会・生活技術・健康体育・社会道徳)が一貫制義務教育の必修科目として、その全課程において、反復的かつ発展的に割り振られていくことになる。
 なお、音楽、美術(図工)などの芸術系科目は全くもって個々人の趣向と適性に依存するため、義務教育課程の科目からは除外され、民間の指導教室に委ねられる。

◇職業導入教育
 さて、一貫制義務教育では、以上のような教科学習と並んで、職業導入教育に力点が置かれる。
 職業導入教育とは、一貫制義務教育の中盤から、労働現場に触れさせる体験学習である。これによって、10代から職業イメージを持ち、将来の人生設計を準備することが容易になれば、いわゆるニート化のようなモラトリアム期間の遷延を防ぐことができ、また第3章で論じた純粋自発労働制の可能性にも道を開くことができるかもしれない。
 具体的には、職業導入教育が始まる一貫制義務教育の中盤では「社会科見学」方式で様々な労働現場を直接に見学して回る。終盤では工業、情報、一般事務、農業、水産、福祉、医療、研究等々、代表的な職域ごとの職業指導に加えてインターンシップを導入し、希望する職場で短期間体験労働に従事する。
 このようにして一貫制義務教育を修了した段階で、原則として全員がひとまずは就職する体制が作られる。そのために、心理学や社会学の知識を備えた専門教員を養成・配置したうえ、職業紹介所と連携して生徒の適性と志望に合った職場を紹介するシステムが構築される。
 なお、医師、法律家、教員などの高度専門職については、少なくとも5年以上の就労経験を持つ有職者を対象に、選抜試験に依存せず、職歴内容や使命感、人格識見などを主要素として選考したうえ、前回触れた高度専門職学院で養成する。知識階級制のない共産主義社会では高度専門職の純粋エリート培養は廃されるのである。

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共産論(連載第37回)

2019-05-14 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(4)遠隔通信教育が原則となる

◇学校という名の収容所
 これまで共産主義教育の概要について論じてきたが、教育と言えばそれは学校という施設を通じて行なうということが、現代の国際常識となっている。その結果、各国で様々な種別の学校制度が用意され、先進国を標榜している諸国では大半の青少年が何らかの学校に在籍・通学しているのが通例である。
 しかし、その学校で異変が見られる。不登校やいじめ問題は、その集約的な象徴である。そもそも学校とは、生徒らを予め定められたカリキュラムとスケジュールに服従させ、学校という一定の施設に通学させ、一定時間を拘束し、無断退出を禁ずるある種の「子ども収容所」である。
 収容所という特異な環境は、人間に強いストレスをもたらすことが知られる。学校という名の収容所も同様である。学校という場の現場管理者である教師と生徒の上下関係、生徒間の長幼・学年による上下関係、同級生徒間での「カースト」関係のような施設内階級関係の形成は収容所制度の特徴であり、それが教職員を含めたすべての当事者にとってストレス要因となる。
 中でも最も深刻なのは、いじめ問題である。いじめは加害者の側から見れば、ある種のストレス発散行動とも読み解けるものである。そして学校集団内で特定の特徴を持つ同輩を弁別し、悪意をもって排斥するいじめとは子どもの領分における差別にほかならず、このような差別の訓練所となっているのは家庭以上に、集団化された学校なのである。
 他方、学校制度の効用として力説される知的な鍛錬という点に関しても、知的な興味関心や学習速度が様々な子どもたちを集団的に一斉指導する学校教育の方法論は決して効果的なものではなく、むしろカリキュラムについていけない「落ちこぼれ」を毎年連綿と何世代にもわたって輩出し続けることになる。
 とはいえ、実のところ学校という制度は共産主義教育とも両立する制度であり、学校制度廃止を共産主義から直接に導くことは論理の飛躍になりかねないが、現代的な共産主義においては、学校という制度はもはや必要なくなっていると言える。

◇脱学校化へ向けて
 現代的な共産主義は、教育の脱学校化を実行する。すなわち共産主義的教育は原則として遠隔通信制をもって提供される。この大胆な教育革命は決して夢物語ではなく、すでに資本主義下で進展している情報通信技術の発達がその技術的基盤を保証する。
 実際、資本主義社会でも遠隔通信教育はすでに多方面で開始されているが、通信制教育はあくまでも通学制学校教育の補完的・補充的な意義を担うものにとどまっている。その最大の理由は、全生徒・学生を漏れなくカバーする包摂的な教育通信ネットワークの構築が経済的に至難であるという資本主義社会における物質的な限界にある。
 これに対し、貨幣経済によらない共産主義社会では、そうした物質的な限界が取り払われることは他分野におけると同様であり、脱学校化へ向けた道が現実的に開かれるのである、具体的には、後で述べる一貫制基礎教育(義務教育)の課程も、体育のように性質上通信では実施し難い一部科目を除き、原則として通信教材をもって提供される。そのために必要な通信備品はすべて公的に無償貸与される。
 このようなシステムにおいて、教師はもはや指導管理者ではなく、学習アドバイザー的な役割に純化される。教師は生徒らの必要に応じて質問や面談に応じるが、そうした対面指導もテレビ電話などの通信手段を通じて実施することが可能であり、どちらかが出向く必要もないのである。
 このようなシステムにおいても、観念的には「学校」を想定することはでき、公教育においては地域ごとの生徒のまとまりを一単位として教育サービスを提供することが効率的であろうが、これは技術的な政策に属することである。
 こうした遠隔通信教育は「原則」であって、いくつかの例外がある。上述した通信制による提供が困難な科目はその一つであるが、個別化教育が不可欠な障碍児教育も専門教員による訪問教育のような家庭教師型の教育メソッドが併用される。
 また後に述べる生涯教育機関としての多目的大学校または専門技能学校が提供する科目のうち実技指導を要するもの、さらに医学院、法学院、教育学院等々の高度専門職学院は、実地教育が不可欠である性質上、通学制となる(ただし、性質上通信で提供可能な科目は個別に通信化され得る)。

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