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共産論(連載第24回)

2019-04-04 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(3)「真の民主主義」が実現する

◇「選挙信仰」からの覚醒
 先に民衆会議は議会でも政党でもないと述べた。それは国家が廃止される共産主義に特有の代議的な社会運営団体である。代議的という限りでは議会に似るが、投票による選挙制を採らない点でいわゆる議会制とは決定的に異なるのである。
 今日、議会制が定着した諸国では選挙制度に対する一つの「信仰」が広く共有されている。選挙こそは民主主義の神髄だ、と。そのような「信仰」からすれば、選挙制を否認する民衆会議体制は本質的に“反民主的”であるということになりかねない。
 たしかに選挙、特に身分や財産、性別による差別のない普通選挙制度は旧時代の世襲による王侯貴族政治に比べれば政治参加の階級的な枠を拡大した点で歴史的な功績があることを認めなければ不公平というものであろう。
 しかし、その普通選挙によって選出された議員らをよく見れば、かれらは市井の人などではなく、ほとんどは有産階級に属する旦那衆である―近年は女将衆の姿も見かけられるが―という事実も、もはや周知のことであろう。
 とりわけ政党政治の下では、政党が選挙の候補者選定を通じて選挙前に非公式な人選を済ませてしまうので、政党にコネクションを持たない者はあらかじめ排除されるように仕組まれている。政党と関わりのない者が選挙に立候補しようにも資金の壁は厚く、しょせんそれも有産者の道楽のようなものとならざるを得ない。
 このような普通選挙制度は選挙権の拡大を実現しはしたものの、被選挙権の方は事実上有産階級に限定されたままだと言って過言でない。そうであればこそ、普通選挙によりながら政治を事実上の世襲的家業として独占する政治門閥さえも形成されていくのである。しかし、歴史的に見て普通選挙運動自体が王侯貴族階級に対するブルジョワジーの階級闘争であったことを考えれば、闘争に勝利したブルジョワジー自身が成り上がり的に貴族化していくのも必然的な流れではあっただろう。
 それでも、と問われるかもしれない。選挙によってこそ有権者の審判が示されるのであり、選挙の当選者は世襲であると否とを問わず民主主義的に「聖別」されているのではないか、と。それこそまさに「選挙信仰」の核を成す神話である。
 しかし、選挙で候補者が「聖別」される要素は人格識見か政策か。答えはそのどちらでもない。“顔”である。ここで“顔”とは何か。人脈という意味の“顔”も大切だが、それ以上に知名度、そして容貌の“顔”もある。近年のメディア主導による過度に視覚的表象に頼った選挙運動は、技巧的なイメージ戦略を発達させ、選挙をますます人気投票的な一大イベントに仕立ている。従って、立候補者がいかに人格識見に秀で、立派な公約を掲げてもイメージ戦略に失敗すれば落選すると覚悟しなければならない。
 こうしたイメージ至上選挙の行き着く先は、メディアを通じた巧みな大衆操作でのし上がる煽動政治家の出現であるという懸念も決して杞憂とは言えない。この点で、卓越した扇動家ヒトラーに率いられたナチスが政権を獲得した手段がクーデターでも革命でもなく、「民主的」なワイマール共和国下の議会選挙であったという事実は今でも歴史的に重要な教訓である。
 こうしてみると、選挙が民主主義を無条件に保証すると単純には言えないことがわかる。むしろ選挙なぞ金銭の授受があろうとなかろうと、しょせんはすべて宣伝と買収であって商取引の政治版にすぎないのでは?あるいはまた、カネとコネを持つ野心的な旦那&女将衆の就職活動にすぎないのではないか?このように一度突き放してみれば、根強い「選挙信仰」から覚めることもできるのではないだろうか。

◇代議員抽選制
 国会議員をはじめ、公選政治家の無知無能ぶりを嘆く声は今日、世界中で聞かれる。特に立法府に所属する議員はロー・メーカー(法製造者)を称するが、現実のかれらは―政府に法案提出権が認められていない米国の議員を例外として―政府提出法案に可決のゴム印を押すだけのラバー・スタンパー(ゴム印押捺者)と化している。
 それもそのはず、選挙というプロセスは候補者たちの政策立案・立法の力量を測るテストにはならないからである。選挙に当選しても自力では法案一本作れない力量不足のロー・メーカーがいても何ら不思議はない。
 その点、民衆会議の代議員は代議員免許試験に合格し、免許を取得した者の中から公募・抽選される(選抜抽選制)。この試験は全土及び地方の代議員―いずれも一本の共通資格―として活動するうえで必要な政策立案、立法技術、政治倫理といった基礎科目に加えて、政治・法律、経済・環境の基幹政策、さらに福祉・医療、教育・文化など個別の主要な政策分野に関する基本的かつ総合的な素養を問うものであって、この試験の合格者であれば代議員として十分に活動できる保証がある。
 試験といっても、記憶依存の詰め込み試験ではなく、テキスト等の持込・参照を認め、情報の取捨選択と批判的思考力を試し、その難易度も大多数の人が二、三度の受験で確実に合格できるレベルに設定されるから、少数エリート選抜となる恐れもない。
 こうして代議員免許試験に合格した者は公式の代議員免許取得者名簿に登録され、そこから全土と地方の各圏域民衆会議代議員として任期付きで公募・抽選されることになる。
 このような制度を採用すれば、選挙制度における被選挙年齢のような年齢制限も必要ない。それどころか15歳の代議員免許取得者のほうが51歳の代議員免許未取得者よりも代議員に適任ということにさえなる。同様に海外出身の代議員免許取得者のほうがネイティブの代議員免許未取得者よりも代議員に適任であるから、一定年数の継続的居住要件を課しつつ海外出身者にも代議員資格を認めてさしつかえない。
 なお、代議員抽選に際して選挙制度における選挙区のような区割りは観念されない。全土民衆会議であれば領域圏(例えば日本)全域から定数に達するまで単純に抽選すればよく、地方の各圏民衆会議についても同様である。このように単純な抽選制とすることにより、選挙制度の下における議員のように、代議員が自身の地元へ利益誘導を図る“口利き屋”として暗躍することもなくなるのである。

◇非職業としての政治
 代議員抽選制から生じるより重要な帰結として、代議員の地位が「職業」ではなくなることが挙げられる。これも議会制との大きな相違点である。
 議会制の下でも議員の任期は一般に数年程度に短く区切られていながら、選挙地盤という独特の「資産」のゆえに連続的多選が可能であることから、政治が固定的な職業と化し、ひいては政治を家業化した世襲政治門閥の形成にもつながるのである。その結果、議会政治は貴族政治の性質を帯びるようになる。
 これに対して、代議員抽選制においては偶然と幸運に左右される抽選で連続的に当選する確率は低いため、代議員のローテーションも早く、代議員の地位は固定職とならない。
 そのうえ、民衆会議代議員はすべての圏域で兼職が認められるから(前章で見たように、共産主義社会における労働時間の大幅な短縮がそれを可能とする)、今日の職業政治家がそうであるように、庶民生活感覚を失った特権階級に堕することもない。
 つまりウェーバーの著名な主著のタイトルをもじれば、「職業としての政治」ならぬ「非職業としての政治」が実現する。本来、政治は社会的動物としての人間たる我々全員の共通事務なのだから、政治の非職業化こそが正道なのである。


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