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共産論(連載第43回)

2019-06-03 | 〆共産論[増訂版]

第7章 共産主義社会の実際(六):文化

(4)競争の文化は衰退する

◇資本主義的生存競争
 資本主義的文化価値として商品価値と並んで重要なものは競争である。これは資本主義社会の主人公である商品が、言わば生産者間の競技場でもある市場を通じて販売される競争の賭け金であることと密接に連関している。
 こうした競争は資本主義社会の基軸である市場経済の原理であると同時に、一つの文化価値としても我々の人生そのものを規定しているところである。
 実際、資本主義社会では資本間の経済競争以外にも、試験、コンクール、コンペティション、競技会から選挙に至るまで、あらゆるものが競争的に編制されている。資本主義社会に産み落とされた者は生まれたその日から生存競争にさらされ、ライフ・サイクルの各段階ごとにふるい落としの審査にかけられ、人生の勝敗を分けられていく。
 こうした競争の文化の中では、競争において他人を蹴落とすことに罪悪感を持たないことが美徳となる。それは〈私〉の才能と努力の勝利であり、〈私〉には何の罪責もないことなのだ。
 このような価値観が支配的であれば、社会的に協力して何か一つの事業を成し遂げようというような風潮は消失し、人間は互いに競争的な関係に立つバラバラの原子と化す。地域コミュニティーも解体し、隣人同士も未知の異邦人のように見えてくる。
 資本主義が高度に発達した社会の人間は孤独である。かれらはそれ以上分割不能な個‐人に切り縮められて、豊かな消費生活と引き換えに「巨大な商品の集まり」の中に埋没していく。一方で、かれらがひとたび生存競争に敗れれば人生やり直しは困難であり、〈居場所〉を失い、社会的に排除され、周縁化されていく。
 しかし競争に勝ち残った者も決して心底満足しているようには見えず、内心にはぽっかりと空虚な穴が開いているのではないだろうか。
 「生き辛さ」を訴える声が強いが、これは競争の文化が競争の「負け組」の側に生じさせる社会病理的な症状である。その反面で、競争の文化は競争の「勝ち組」の側にも「虚しさ」のような病理症状を生じさせているのである。

◇共存本能の可能性
 競争至上主義者の信念とは裏腹に、人間は元来必ずしも競争的な動物とは限らないのではないかと推定させる証拠もある。例えば、競争とは英語でコンペティション(competition)であるが、この語の語源は「com:共に」、「petit:追求する」であり、その原義に最も対応する日本語は「競争」ではなく、「切磋琢磨」であろう。
 「切磋琢磨」にはライバルの他人を蹴落とすというニュアンスはなく、むしろそれは共に励まし合いながらお互いを磨き上げていくといった意味合いである。このコンペティションが資本主義の手にかかると、身もふたもない生き残り競争の意味にすりかわってしまうのだ。
 もう一つの例はカルテルである。カルテルは資本主義的競争を阻害する資本間の違法な謀議として取り締まりを受けるが、放置すれば跡を絶たないからこそ罰則をもって取り締まられるのである。
 表では競争を賛美する資本が裏ではなぜ競争を回避しようとするのであろうか。ライバルを蹴落とし潰すという資本主義的競争を純粋に貫いていった場合の最終結果は競争に勝ち残った一者がすべてを取る、つまり独占という無競争状態である。
 競争の結果、無競争が生じる―。ここに資本主義的競争の自己矛盾がある。この矛盾を回避するには競合する資本間でカルテルを結んで共存し合うしかない。これも資本に内在する一つの共存本能であろう。
 こうした例は競争的動物と見える人間に共存本能とも呼ぶべき本性が備わっていることを示唆するもののように思われる。実際、近年の行動経済学は、人間には利己性のみならず、利他性が備わっていることも明らかにしている。

◇共産主義的切磋琢磨
 共産主義社会は無競争のぬるま湯社会だという批判もあるが、共産主義社会でも先ほど述べたような意味でのコン‐ペティション=切磋琢磨が否定されるわけではない。共産主義社会で重視される社会的協力は決してぬるま湯ではなく、むしろ人々に切磋琢磨の価値を教えるであろう。
 そうすれば試験やコンクールの意味合いも変化するに違いない。試験はふるい落としのための手段ではなく、各人の適性を発見するための尺度であったり、教師自身が自分の指導法の成果を検証するための手段となるであろうし、コンクールは参加者がライバルの失策を密かに期待し合う妬みの場ではなく、お互いの腕前を披瀝し評価し合う祝祭のような場に変化するであろう。
 オリンピックのような競技会の持つ意味合いも変化する可能性がある。それは選手を送り込む各国間のメダル獲得競争、スポンサー企業間の利権獲得・宣伝競争であることをやめ、大会に参加する選手やチームが純粋に競技に没入し、観客が観戦を純粋に楽しむスポーツの祭典として原点回帰していくのではないだろうか。
 生産の領域でも、第2章で見たように、計画経済の適用がない分野では自由生産制が採られるうえに、共産主義経済では交換価値の観念が消え失せ、使用価値中心の世界となるのであるから、いかに良質で使いやすく長持ちするモノを生産するかというモノの真価をめぐる一種の競争関係は残る。
 共産主義社会では概して、競争は言わば「共走」に変化していくであろう。

◇究極の自殺予防策
 競争の文化の衰退に伴って、精神文化の面でもいくつかの重要な変化が生じると予測される。
 まず、競争に敗れ、人生やり直しもままならず死を選ぶ人は大幅に減少するであろう。もちろん共産主義社会でも自殺はゼロになるまいが、自殺の原因の多くは純粋に実存的なもの(病苦や死別など)に限られていくであろう。この点で、共産主義は精神科のどんな名医よりも自殺予防に威力を発揮するはずである。
 もう一つは宗教に救いを求める人が減るかもしれないということである。“困ったときの神頼み”は世界共通の現象であるから、「困りごと」の多い社会ほど人々は神に祈るのである。
 資本主義的競争に疲れ果て、自殺はしないまでも、“癒し”を求めてスピリチュアルなものに惹かれる人たちは少なくない。それが資本主義的な心的外傷を実際に癒している限り―ここでもまがい物をつかまされる危険は常にあるが―、マルクスの有名な箴言にもかかわらず、宗教は阿片以上のものである。イスラーム圏の宗教熱は、そのことの最も苦くも力強い例証である。
 しかし、切磋琢磨の共産主義的「共走」の文化は社会的な「困りごと」を減らし、宗教の役割を現在の哲学が果たしているようなそれに限定していくであろう。
 共産主義が無神論であると言われるのもそのような意味においてであって、信仰の自由を奪う「宗教弾圧」などを含意するものではあり得ない。


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